1997年07月04日

【交合は校合なり】

 小松左京『はみだし生物学』(新潮文庫)に、何故、子孫を残すのに両性による生殖が行われるのか、という話が有った。単性生殖ではなぜいかんのか、という話だ。情報が薄れるを避けるためだ、という解釈をしめしていた。遺伝子情報を正しく子孫に伝えるためであるというのだ。小松氏は電子複写、コピーを例に取って説明していた。コピーしたものをコピーしたら薄れてしまう、更にコピーすればもっと薄れる。単性生殖はこれにあたるという。そこで別のコピーと照し合せると、あるコピーでは読み取れなかった情報が読み取れるし、読み誤りも防げる、というのである。

 文献を扱う人間にとってはコピーを例に取るよりも写本を考えた方がよい、と思い、この説に大いに納得が行った。
 ある本を人が写せば、まず誤写(写し間違え)がある。それを更に写すと、新しい誤写が生じるし、場合によっては既にある誤写部分を勝手にねじまげて解釈し、本来の形とは似ても似つかぬものにしてしまうこともある。伝言ゲームと似ているとも言える。
 時代が下ると原本が失われてしまうことが多いので、原本の姿を推定するためにいろんんは写本を集めてきて比較する。これを「校合」と呼ぶ。いろんな写本を比較検討して行くと、原本ではこうではなかったろうか、という推定が行いやすくなる。一つの本だけをじっと見ていてもわからないことが複数の本を突き合わせることによってわかるのである。両性生殖が単性生殖に比べて、遺伝子情報を正確に伝えやすい、というのも素直に頷ける。「交合は校合なり」というのはそういう意味である。
 実は「校合」は「キョウゴウ」と読むのが正しいとされている、伝統にしたがっている。「コウゴウ」と読むと「それでは別の意味になります」と橋本進吉博士は静かにおっしゃったそうだが(出典失念。補:山田俊雄氏。)、この二つは通じていたのだ。先程は、小松氏の説明に「大いに納得が行った」と書いたが、本当は感動してしまったのだった。

 写本にはいろんな系列がある。原本から写したA本とB本があり、A本を写したC本とD本があり、B本を写したE本とF本があり、原本A本B本が残ってないとする。その場合、C本とD本を、あるいはE本とF本を比較するよりも、(C本かD本)と(E本かF本)とを比較する方が原本の姿を復元しやすい。はやく言えば兄弟姉妹を突き合わせるよりも、血縁が遠い関係のものを突き合わせる方がよい、というわけである。
 校合の場合はなるべく多くの写本を参考にするわけだが、交合の場合は2つを選ばなければならないわけだから、あまりに近い関係のものを選んでは比較する意味が無くなってしまうのだ。近親相姦に対するタブーというのもこれで理解できる。
 血縁が近い関係の子供から天才的な子供が生れることがあるとも聞くが、これも、一般的な校合であれば「存疑」となるところが、近い関係の物で対照したために「これで決定」となってしまい、それが旨く行った場合には天才的な才能を示す、と考えることが出来そうである。
posted by 岡島昭浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 目についたことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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