2000年02月06日

日本語の肯定と否定は文の最後に来ないと分からない


『言語学林』所収の荻野綱男「肯定文と否定文の聞き分けに関する実験音声学的研究」は、日本語における肯定と否定は文の最後に来ないと分からない、ということを否定しようとしたものです。

『柴田武にほんごエッセイ1』から話を始めていますが、「多くの人がいっていることである」として、いくつか文献が挙げてあります。そのうち、
[4]金田一春彦(1977)「助動詞の位置」金田一春彦(編)『ことぱの研究室1日本語の特色』講談社
[5]大久保忠利(1954)「語順について」日本放送協会編『ことぱの研究室1日本語の特色』大日本雄弁会講談社
[6]大久保忠利(1977)「語順について」金田一春彦(編)『ことぱの研究室1日本語の特色』講談社
[7]大久保忠利(1980)「語順について」『人生読本日本語』河出書房新社
[8]大久保忠利(1947)「一八 日本語の語順」『百萬人の言語學』眞光社
については、「京都府立大学女子短期大学部の岡島昭浩氏に教えていただいた」と書いておられます。これはlinguisticsメーリングリストでの1995年4月から5月ごろのやり取りをもとにしています。「よく聞く話だが、どこに書いてあるか、よくわからない」というお尋ねに対し、報告したものでした。大久保忠利の[5]から[7]は同じものです。

大久保 第四の特色、文の性格が終りにきてわかるという、たとえば、ある文についてそれがそうだと主張して、肯定しているのか、そうでないと否定しているのか、また、ですかと疑問文になるのか、これがどうもやはり終りまで来ないとわからないという不便な点がある。たとえば、「この本はおもしろ……」まででは、一体「おもしろい」と言おうとしているのか、「おもしろくない」と言っているのかわからないでしょう。

[8]は次の如く。
動詞が文末に來る結果、長々と「どうなる」かを中ぶらりんで引張られると同時に、それが肯定か否定かも最後まで來なければ決定しないことが多いのです。勿論、話手又は文章の調子によつて、大ていはそれが想像の付くのもありますが、それが文によつて決定されないということは、読者、聞手にとつて、不安定な氣持で終りまで待つということになります。

 さて、この度、書き込みますのは、さかのぼる例を見付けたからです。萩原朔太郎「日本語の不自由さ」。『文藝春秋』1937.12に発表で、筑摩の全集第十巻所収とのこと。私が見たのは、丸谷才一編『恋文から論文まで』(日本語で生きる3福武書店1987.9.30)。
 この判断が文の最後に来るといふことは、日本語でエツセイする時の最も大きな阻害である。僕はかつて前著『詩人の使命」中の或る論文にもそれを書いたが、かうした日本語の特性を利用して、昔から色々な遊戯が行はれてゐる。例へば「僕の好きな人は貴女より外にないと言ふことを約束……」といふから「する」と言ふかと思ふと、意外に「しない」と言つて対手をペテンにかけるのである。「する」のか「しない」のか、ノーかイエスか、文章の最後まで来なければ解らないのだから、読者にとつてこれほど歯痒いことはなく、筆者にとつてもこれほど不満足のことはないのだ。

なお、この朔太郎の文章には、「日本語には論理的な要素が殆んどない」というのもあります。こういうものも用例を集めたいものの一つです。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2000年 2月 07日 月曜日 2:24:09)


「日本語の肯定・否定は最後まで聞かなくても分かる」説として
最も新しい論文のひとつは、
  石黒圭「並立の予測――予測の読みの一側面――」
     (「国語学 研究と資料〈早稲田大学〉」23 1999.12)
でしょう。
 同氏は「これこれの語句がくれば、以下では逆説/理由/並立等々
の表現が続く」といった論旨の論文を発表されています。

 直接の先行論文としては、
  寺村秀夫氏「聴き取りにおける予測能力と文法的知識」
                 (「日本語学」6-3 1987.3)
があり、ここで寺村氏は「その先生は私へ国に……」という文に続け
て学生に作文させるという実験をしました。そして、多くの学生が
「……帰るようにと言った。」に類する文を書いた、「驚くほどの
正確さで先を予測するものだ」と報告しています。

 寺村氏のこの論文も〈「日本語では述語が最後にくるから、あるい
は肯定否定の形が最後に来るから、最後まで聞かなければ分からない。
それに比べて英語では……」というようなことが、しばしばいわれ〉
ていることへのアンチテーゼを示したものでした。

 ここで私も反省してみますと、道で人に
 「すいません、東京駅へは……。」
と聞くと道順を教えてくれるでしょうが、英語の場合は
 "Excuse me. Could you tell me the way to the..."
とここまで言っても、答える側は何を答えればよいのか分からない。

 よって、肯定・否定はともかく、少なくともある場合には英語で
も最後まで聞かなければ分からないことがありそうだということで
す。(もっとも、英語でも "Tokyo station, do you know?" などと
言う人はありそうですが。)



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2000年 2月 07日 月曜日 15:06:32)


上記
>>「日本語の肯定・否定は最後まで聞かなくても分かる」説として

これは正確には「日本語は最後まで聞かなくても分かる」説と
いうことでした。石黒氏の論は、肯定・否定にとどまりませんので。



岡島昭浩 さんからのコメント

( Date: 2000年 2月 09日 水曜日 10:33:11)


 Yeemarさん、有難うございます。石黒論文掲載の雑誌は、届いたばかりで、まだ書棚にゆかず、炬燵の上にありましたので、早速読みました。寺村論文も知りませんでした。

 日本語悲観論に対するアンチテーゼはあちらこちらで出されていますが、世間的には悲観論がまだ強いような感じですね。



言魔 さんからのコメント

( Date: 2000年 2月 11日 金曜日 18:13:27)


昔、通訳をやっていた頃、米国人によく言われました
When a Japanese makes a question, that is a statement.
When a Japanese makes a statement, that is a question.

これ、本当でして...
「食事しませんか?」ってのは、大抵、メシを食いに行くぞ!という意味ですし、
「食事しましょう」と言った時には「しませんか」より柔らかく相手の様子を
伺っている場合が多いと思います。

本題と少しずれてますが、昔を思い出したので...

言葉のよろずや



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2000年 3月 24日 金曜日 5:55:47)



「言語生活」1962.09 p.24切り抜き帳にあった文章です。

★ 議論に向かない日本語
 西洋の言葉は、主語、動詞、客語という順序で展開する。中国語も これに似ている。ところが日本語では 主語がしばしば省略される。主語とともに 思想を表現するのに一番大切な動詞は、文章の最後にくる。否定詞は さらにその後になる。だから 日本語の同時通訳は 人間業では不可能にちかい。わりに重要でない形容詞や形容句が、文章のはじめの方の いい場所にがんばっている。(下略=Yeemar=)

(森恭三「滞欧六年」
3〜4朝日新聞社7月新装版刊〔旧版は34年11月刊〕)



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2001年 5月 07日 月曜日 8:32:07)


「肯定・否定」からそれますが、「日本語には主語がないので……」という「日本語悲観論」をアメリカ人であるライシャワー博士も論駁しているそうです。

以下は松本茂『頭を鍛えるディベート入門』(講談社ブルーバックス) p.58より。

 また、日本語がディべートに向かないという議論も「いまだに」存在する。この議論が1つの拠り所としているのは、日本語では主語を省く、とくに「私は(が)」を省くことが多いということだ。主語を省くことが議論の効率を悪くしているのであれば、主語を使うようにすればよいことであって、日本語に内在する問題ではない。事実、優秀なディベーターが日本語でディベートをすると、少なくとも誤解を受けない程度には主語を使う。E・O・ライシャワーも明瞭で論理的なプレゼンテーションに日本語はなんら支障がないと言っている。*7
  *Edwin O. Reishauer. The Japanese. Tokyo: Charles E. Tuttle, 1997.



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2001年 5月 07日 月曜日 8:35:15)


ライシャワー氏が「主語の有無」に触れているのかどうか、松本氏の記述からだけでは分かりませんね。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2001年 5月 07日 月曜日 11:42:41)


ライシャワー氏の綴りはこの本に「Reishauer」とあるのですが、「Reischauer」が正しいようです。また、刊年を私が誤記しました。下記が正しいようです。要領の悪い書き込みで申しわけありません。

Edwin O. Reischauer. The Japanese Tokyo: Charles E. Tuttle, 1977



かねこっち さんからのコメント

( Date: 2001年 5月 19日 土曜日 16:26:13)


ここの主題とはちょっと違いますが、面白いのがありましたので・・・。

彭飛「大阪ことばと外国人」より

 語尾でもわからぬ肯定と否定
 (前略)
 日本語は最後まで聞かないと肯定(affirmative/肯定)か否定(negative/否定)
 かわからないので、私も常に注意深く神経をピリピリさせながら最後まで聞くが、
 大阪の人は「行きま」(I'm going/我去)で止まってしまう。ここでは「行きます」
 なのか、「行きません」なのかどちらか全くわからず、参ってしまったことがある。
  
       彭飛「大阪ことばと外国人」中公文庫1999年3月18日発行



岡島昭浩 さんからのコメント

( Date: 2001年 5月 22日 火曜日 14:48:12)


 エドウィン・O・ライシャワー『ザ・ジャパニーズ』國廣正雄訳 文藝春秋 1979.6.10が出てまいりました。
その37節(380頁-400頁)は「言語」と題して、結構いろいろなことが書いてあります。そのうち、

 さいしょに、日本語に関する俗説の一つを片づけてしまおう。日本語については、ほとんど何の知識もないくせに、日本語は論理や明晰さに欠けるので、近代的な科学技術の必要を満たすには不十分だ、などとかこつ外国人は少なくない。日本人の中にも、この非難に与するものもないではない。しかしこれは、たわごとにすぎない。近代日本の赫々たる成果をみれば、一目瞭然である。どの言語も、いくらでも曖昧になりうるふところの深さをもっている。……たしかに日本人は言語能力には自信がなく、非言語的な理解には自信があり、……
 といって、日本語では簡潔、明晰、論理的な意思表示ができないというようなことはない。要は当の本人の意思次第である。(p385)

というあたりでしょうか。なお、p388には、
また日本人は、文脈や使われる動詞の丁寧度から、主語がなんであるかが推測可能な際には、いちいち明示しない。
とあります。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 21日 土曜日 18:30:20)

藤岡勝二「日本語の位置」(『論集日本文化の起源5』による)

問の文章は西洋の言葉は、御承知のように語の位置を換える、動詞を初めに持って来る。ところがわれわれの言葉およびウラルアルタイ全部、トルコでも満洲でもどこでも皆それ等の言葉は何か問を示す言葉を、当り前の文の終いに付けます。日本語もそうでしょう。ただ往くなら「往く」では当り前である、終いに「か」をつけて「往くか」と言えば問になるのです。だから中ごろまで問でない言葉遣いで進んで来て、終いに問にするのです。西洋の言葉はそうは往かぬ、初めから問なら問の積りで言わなければならぬわけです。日本のは中途から変心しても構わぬような次第です。便利でしょう。そういうように出来ています。


「便利でしょう」とあります。



skid さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 26日 木曜日 19:51:13)

同時通訳の場合、日本語の疑問文を英訳するには、まず普通に言ってから、「それは○○(いつ・どこ・だれ・何・なぜ)ですか?」と付け加えると早く簡単に伝えられるという話を聞いたことがあります。

一説に「和順英会話」と称されているようです。


posted by 岡島昭浩 at 23:01| Comment(1) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
上記、松本茂の「E・O・ライシャワーも明瞭で論理的なプレゼンテーションに日本語はなんら支障がないと言っている」は、岡島さんの挙げられた部分に相当するようです。原文は以下の通りです。
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But there is nothing about the Japanese language which prevents concise, clear, and logical presentation, if that is what one wishes to make. The Japanese language itself is fully up to the demands of modern life.(The Japanese p.386)
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Posted by Yeemar at 2006年10月19日 08:10
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