2001年11月27日

「肉」の訓読み(道浦俊彦)


「肉」という漢字の読みは「にく」ですよね。これは「音読み」なんですが、では訓読みは何か?と思って漢和辞典をみると、「訓読み」は「なし」となっているのです。
しかし、意味としての読みには、「しし」というのがあります。「太りじし」とか。「しし」で国語辞書を引くと「肉・宍」という漢字があててあります。「しし」は「肉」の訓読みではないのでしょうか?
なぜ「訓読み」のところに載っていないのでしょうか?



梅崎光 さんからのコメント

( Date: 2001年 11月 27日 火曜日 18:38:20)


ご覧になった漢和辞典は何でしょうか? その辞典の編集方針として例えば、「常用漢字の音訓にないものは字訓の欄に掲出しない」ということがあるのかもしれません。



道浦俊彦 さんからのコメント

( Date: 2001年 11月 27日 火曜日 18:57:09)


「角川新字源」(1989)です。
漢語はカタカナで、和語はひらがなで見出しを立てている「新潮現代国語辞典」によると「ニク」と「しし」で見出しになっています。
「やまとことば=訓」と考えてよいのでしょうか?



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2001年 11月 27日 火曜日 23:23:38)


関連することを道浦さんにメールで申し上げたのですが、「やまとことば」はあくまでも「純粋の日本語」という意味です。たとえば、「びしびし」なんていうのも「やまとことば」には違いありません。

一方、「訓」は、ある漢字をやまとことばでよんだものです。「訓」は、背後に漢字があって成立する概念です。

もっともゆるい意味での「訓」は、とにかく漢字をやまとことばでよんだものであれば「訓」となります。たとえば「千年万歳」を「いつまでも」とよんだ場合、これも「訓」です。「翻訳」と考えたほうが適切かもしれません。

そうやって漢字にやまとことばをあてる中で、たとえば「万」という字はいつでも「よろず」とよむ、というような習慣ができれば、これは“固定訓”ということになります。「肉」ならば「しし」とか「ししむら」とかが“固定訓”でしょう。

戦後になると、「当用漢字音訓表」、「常用漢字表」を経て、学校で教える“常用訓”が定まりました。それによれば、「万」の“常用訓”はない、「肉」の“常用訓”もない、ということになります。しかし、それは学校の中だけの話で、一般に「太り肉」などと使う以上は、やはり「しし」は「肉」という漢字の“固定訓”のひとつといってよいでしょう。



新字源 さんからのコメント

( Date: 2001年 11月 29日 木曜日 14:36:25)


凡例
十三 字訓 「常用漢字表」に示された訓にかぎって、「常用漢字表」掲出の順により、親字の下方に太字で掲げた。……
十五 意味 ……3熟している訓があるときは、それをまず掲げ、その訓の下に展開順で意味をまとめるようにした。4熟している訓は、太字(送りがなの部分は細字)で示し、その下の()内に歴史的かなづかいによる表記を掲げた。

音訓索引
一「常用漢字表」に掲げられた漢字のうち、その音訓が認められているものには▲印、認められていないものには▼印を付した。
しし
▼肉 八一五
 獅 六四七

本文
意味[一](1)にく。み(身)(ア)しし。鳥獣の切ったにく。……
(「しし」は太字)



道浦俊彦 さんからのコメント

( Date: 2001年 11月 30日 金曜日 7:34:22)


Yeemarさん、新字源さん、ありがとうございます。謎は解決しました。
凡例は目を通したのですが。このように再掲していただくと、良くわかりました。
ずらーっと書かれていると、よくわからなかったです。(あまり漢和辞典を引くことがないので)今後は漢和辞典にもう少し親しもうかと思います。

ところで「角川大字源」では、「にく」は音読みと訓読みの両方に載っているそうですが、「音読み」が「訓」と認識されることで、「訓読み」になることもあるのでしょうか。
「訓読み」は「翻訳」とYeemarさんはおっしゃいましたが、たとえば、漱石のように漢字にルビを振った「当て字」でも「訓」とよんでいいのでしょうか?
極端な話、坪内逍遥の「當世書生気質」の中にある「甲地乙地」にふったルビ「あっちこっち」とか、「四円だけゲットしたのさ」の「ゲット」のあとに(得領)と書かれているところにふったルビ「てにいれる」なども「訓」なのでしょうか?
こういった場合のルビは「訓」ですか?
(もちろん、音読みに振られたルビは音読みですが)
・・・なんか、わからなくなってきました・・・。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2001年 12月 01日 土曜日 20:57:38)


道浦さんは2つの点について書かれていますが、まず1点目。

あて字イコール「訓」ということにはなりません。

まず、あて字とは、そのことばの意味に関係のない漢字をあてることです。たとえば、漱石の文章では、魚のサンマが「三馬(さんま)」と書かれています。これは、「さんま」というやまとことばがまずあり、そこに意味の上では無関係ながら「サン」「マ」の音をもつ漢字をあてた「あて字」です。同様に、「なつかし」を「夏借」と書く場合、「なつかし」というやまとことばがまずあって、意味の上では関係がないものの「なつ」「かし」という訓をもつ漢字をあてた「あて字」ということになります。あて字には、音を利用したあて字もあれば、訓を利用したあて字もあるわけです。

他方、「秋刀魚」を「さんま」とよむようなものも、「あて字」と言うことがあります。しかし、魚のサンマをあらわす漢語の「秋刀魚」を、同じ意味のやまとことばで翻訳してよんでいるわけですから、「さんま」は「秋刀魚」の「訓」(2字以上の熟字をよむ訓のことを特に「熟字訓」という)だとはいえますが、厳密には「あて字」ではないでしょう。同様に、「甲地乙地」を「あっちこっち」、「甲事乙事」を「それやこれや」、「看官」を「みるひと」とよむのも「訓」の例ですが、必ずしも「あて字」ではないでしょう。「大田道灌」を「にはかあめ」とよむのも、やや苦しいけれど「訓」には違いありません。“固定訓”かどうかについては、議論があると思います。

岩波文庫『当世書生気質』で、「得領」は「甲地乙地」の次の行に出てきますが、「てにいれる」のルビは省略された模様です。そう振られているならば、「訓」ということになります。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2001年 12月 01日 土曜日 20:59:17)


次に、道浦さんの2点目。

字書によっては、「肉」の「音」を「ニク」とし、かつまた「訓」にも「にく」を認めるという行き方はありうるでしょう。

「肉」ということばは、生活に密着した結果、漢語の意識が薄れ、和語に準ずると編者はみたのでしょう。同様のことばとしては、「菊(きく)」、「絵(え)」、「幕(まく)」、「象(ぞう)」などが考えられます。ちなみに、『大字源』では、これらのよみを音にも訓にも挙げてあります。

図書寮本「日本書紀」では、「僧」を「ホウシ」とよんでいます。もちろん「法師」のことですが、「僧」の「訓」のように考えられたのでしょう。

その「訓」が本当にやまとことばかどうかは、分かりにくいものもあります。「馬」の訓「うま」は、「馬」の音「マ」に由来するのではないかと言われます。「梅」の訓「うめ」は、「梅」の音「メ」か、それとも「烏梅」の音かと言われます。「筆」の訓「ふで」は、「ふみて(文手)」が語源ならばやまとことばですが、「筆」の音「ヒツ」の転(金沢庄三郎説)ならば、音に由来する「訓」ということになります。

「訓」が、必ずしも「やまとことば」でなくても良いということになると、定義があいまいになることは否めません。1986年に行われたシンポジウムで橋本万太郎氏は

私は提案したい。漢字語根によって新しい言葉をつくったら、カタカナ音訳語をその漢字のルビとして使ったらどうだろう。〔略〕たとえば「高技」と書いてハイ・テクと読む。こういう「訓」はすでに始まっている。
(朝日新聞 1986.05.27 p.17)
と発言しています。英語由来でも、そのよみが固定すれば「訓」といえるのかもしれません。

妄言多謝。乞御批正。



道浦俊彦 さんからのコメント

( Date: 2001年 12月 03日 月曜日 18:14:11)


Yeemarさん、幅広い視点からありがとうございます。
11月30日金曜日に兵庫県三木市で小学一年生の男の子が誘拐され、22時間ぶりに無事保護される事件がありましたが、この男のこの名前が「ないと」というものでした。漢字は「騎士」と書きます。これは「訓」でしょうか?「王」と書いて「キング」とルビをふったり、「女王」で「クイーン」なんてのも当然ありますよね。
橋本万太郎さんによると「訓」と認めて良いということでしょうか。
しかし、従来の「訓」とは、明らかに違うので「新訓」とかなんとか名づけてはどうでしょうか?「新」に「ニュー」とルビふったりして・・・。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2001年 12月 03日 月曜日 20:18:03)


「零」を多くの人は「ゼロ」とよむのではないでしょうか。これも道浦さんのいわれる“新訓”でしょうか?



道浦俊彦 さんからのコメント

( Date: 2001年 12月 06日 木曜日 8:46:02)


そうですねえ。
「あて字用例辞典」(杉本つとむ編・雄山閣出版1994)に「<あて字>概説」という論文(?)が載っていました。
それによると、日本の漢語は、
(A)中国からの借用・転成
(B)創作漢字語
に分けられ、このうち(A)の中国からの借用・転成は、
@広義のあて字
A狭義のあて字
に分けられ、さらにA狭義のあて字は
(a)借義法と
(b)借音法
(c)借義・借音混用法
の3つに分かれる。
一方、(B)創作漢字語は、
(イ)新造語
(ロ)翻訳による仮借の音訳語
(ハ)日本語に漢字をあててつくる
の3つと、一部は、
(ニ)A狭義のあて字
も含む、といった図式が出ていました。
また、「山女」を「アケビ」と読んだ場合、古くは義訓・義読の術語を用いた、と記してありました。
広辞苑で「義訓」を引くと、二つめの意味で、
「漢字の用字法の一。漢字本来の字義に基づく正訓に対し、「寒(ふゆ)」「黄変(もみつ)」のように語の意義に合わせて漢字をあてるもの」とありました。
これかな?



Yeemar さんからのコメント

( Date: 2001年 12月 06日 木曜日 17:17:52)


杉本博士とYeemarなにがしは師弟関係にあるのではないかといううわさもちらほら……。Yeemarなにがしは師説を曲げているかな?


posted by 岡島昭浩 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック