たいへん面白い情報が含まれていて、それを私だけが目にするのはもったいないと思います。
それを受けてまた書けば良いとも思うのですが、お名前を出して良いものか、
メールをそのまま引用してよいものか、お尋ねするのが億劫でついそのままにしてしまいます。
そんなことで、会議室というか、掲示板というか、そうしたものを設置して見ることにしました。
どの程度サーバに負担が懸るか、ということを含めて実験の段階ですが、よろしくお願いします。
→ 目についたことば
y-kuwaki さんからのコメント
( Date: 1997年 10月 15日 水曜日 22:34:42)
私は教師ですが、語尾上がり症候群には困ったものです。私ども夫婦も耳障りでならなかったのですが、教師集団の多くが使うし、アナウンサーまでも使うし、『私どもが昔の人間に』になったのかと半ばあきらめていました。今日、新聞で読み、インターネットでこのホームページを見つけて安心しました。日本語を大切にする人々よ。頑張りましょう。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1997年 10月 16日 木曜日 14:29:55)
新聞、というのは何のことかよくわかりませんが、ひょっとして西日本新聞ですか。先日電話がかかってきて、「半疑問」のことを尋ねられ、佐竹秀雄氏の若者ことばの論考の中に関連する指摘があるとか、下のページに書いてあるようなことを言って、尋ねられたURLを教えておいたのですが、記事になったのでしょうか。「記事にするときは連絡します」って言ってたのに。
それはともかく、私の立場は、〈古い日本語を墨守するのではないが、新しい言い方に違和感を感じる人々の気持ちも考えに入れたい〉、というところでしょうか。違和感を感じる人の頭の中にある言語は、決して過去の言語ではないのですから。
でも逆に、自分のことばに対して自分よりも低い年齢層の人が感じるであろう違和感のことも考えに入れたい、とも思います。
→ 目についたことば970504【半疑問】
森川知史 さんからのコメント
( Date: 1997年 10月 28日 火曜日 16:29:50)
「目についたことば」の【こどもの言葉】について
うちの長女が2歳の頃、NHK教育の「お母さんといっしょ」で新体操のおねえさんと子供たちが踊るのを
見ながら一緒に真似するのが好きだったのです。その中で、リボンを振って走り回るとき、そのリボンの
ことを「オチナナミー」と言うのです。しばらく意味が分からず、彼女が「オチナナミー」と言うと、そ
のリボンをとってやっていたのですが、あるとき、訳が分かったのです。
おねえさんが、そのリボンを大きく揺らせながら、「大きな波ぃ〜」と言うのです。腑に落ちなかった謎
が氷解して、妙に納得したのを覚えています。
もうひとつ、4歳のとき、おもちゃのシンデレラのドレス(でも、本当に着られる)を買ってやりました。
ティアラがついていて、頭に冠るのです。これを娘はずっと「かむりん」と言っていました。
5歳になったある日、妻がそのティアラをおもちゃ箱から取り出して「ほら、<かむりん>が出てきたよ」
と娘に言うと、娘いわく、「お母ちゃん、それは<かむりん>じゃなくて、<かんむり>だよ」。
子供の成長は著しいものです。
森川知史 さんからのコメント
( Date: 1997年 11月 21日 金曜日 16:43:27)
97.2.12の「目についたことば」【天地無用】を読んで、「へえ〜」と思いました。
何を 思ったか、というと、山本夏彦著『かいつまんで言う』の考え方にです。だから、岡島さんの
>私もこの「天地無用」について、文字だけを見た段階では、〈ひっくりかえしてもよい〉という意味だと思っていた。
という意見にも「へえ〜」と思った訳です。私は「天地無用」というのは、はなから「ひっくりかえすな」という意味で
書き付ける注意書きだとしか考えたことがなくて、それをこんなふうに、理屈っぽく、分析的(大袈裟かな?)に、考え
てみたことがなかったからです。
話はこの「天地無用」が誤解されやすい言葉だということから、誤解の生じやすい諺のことに展開する訳だけれど、
「情は人のためならず」を取り上げて、岡島さんはこんなふうに書いておられる。
>諺というものが、なにか、こうるさい教訓的なものであると考えていると、「情は人のためならず」が、〈人に情をか
>けると自分によいことがあるよ〉などという利己的な意味が有ろうとは思わないような気がする。「情が仇」というよ
>うな(これも断章取義だな)、〈人に情をかけるとかえってその人のためにならない〉という意味の方が、よほど諺ら
>しい気がする。
岡島さんの穿った見方を承知のうえで書かせてもらうのですが、やはりこれは教訓なのでしょう?
〈人に情をかけると自分によいことがあるよ〉ではなくて、〈人に情をかけるというのは人のためではなくて自分のため〉
という意であり、しかもこの〈自分のため〉というのは〈人としてのあるべき自分のため〉というような教訓だと思うので
すが…。私の受け取り方の方が誤解なのかな?
「流れに棹さす」とか「気の置けない人」とかのように、意味を逆に受け取っている人が増えていることばがありますが、
でも、諺や故事にいたっては、学生たちの多くがもはや使わなくなっているようです。使うのは「年寄り臭い」と思うよう
ですね。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1997年 11月 23日 日曜日 12:27:16)
私が「天地無用」を目にしたのは、小学校時代、引っ越し荷物を眺めていたときのことでした。引っ越し業者の用意する箱ではなく、さまざまな箱を使って荷作りしていたので、箱の外側の表記と中身は無関係なわけです。それで、こういうことだろうな、と理解しました。
誤解に気づかされたのは、多分高校の頃ではなかったかと思います。
私の「穿った見方」は、諺の意味を誤解する過程でのことです。教訓的な意味合いは、人情噺などに出てきますよね。
森川知史 さんからのコメント
( Date: 1997年 11月 23日 日曜日 15:13:00)
「目についたことば」96.8.15【二十年の時を「えて」】の記述、
(「惜しい」を「ほしい」と発音するのは)
>東京(下町?)の口語ではこれが由緒正しい形なのだそうだ。
から、こんな記述のあったのを思い出しました。
「おやすみなさい」は命令口調であって、東京山の手では、子供が親には使えなかった、というのです。
では、何と言ったか?
「休ませていただきます」だそうです。(でも、本当かな?)
残念ながら、何に書かれていたか今では思い出せません。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 30日 水曜日 07:34:10)
和泉書院の『いずみ』の研究余滴に、
尾崎知光「変字法」と「レジュメ」
が載っていて、「変字法」は「かえじほう」と読むべきこと、「レジュメ」は要約の意味で用いるべきで、膨大な資料をそう呼ぶべからざることを指摘している。
私が書いた「英語・仏語でも刷り物の意味があるのだとも聞く」ということについては、分からない。
→ 目についた言葉「レジュメを切る」