1997年05月31日

「立派な犯罪」関連(Yeemar)

 やや古レスですが、関連話題かと思われるものがありますのでメモをしてお
きたいと存じます。
 阪神大震災の時のNHK報道(95.1.17.朝9時台)でキャスターがつぎのよ
うに言っていました。

   関西地区では非常にめずらしい大きな地震。そして都市を襲った地震と
   いうことで被害も大分出ているようなんですが、

 この「めずらしい」というのが違和感がありました。「めずらしい」は「愛
ずらしい」であり、震災の報道には適当ではないのでは。しかし、今や語感と
して「まれな」と同義になってきているのかもしれません。私の語感では絶対
におかしいのですが。もっとも9時台には被害がそれほど深刻に考えられてい
なかったふしもあります。

立派な犯罪・無益な戦争


satopy さんからのコメント
( Date: 1997年 6月 01日 日曜日 0:46:34)

なるほど、言われてみれば変ですね。私はこれまで見すごしてきたようです。あるいは、「愛づらし」からきたということは、後から習った語源なので故意に考えないようにしていたのかも知れません。年はとりたくないものです。
昔、NHKのアナウンサーが「ベトナム戦争、華やかなりしころ」云々と言ってしまったとどこかで読んだことがあります。(あれ、この会議室だったかなぁ。「目についたことば」だったろうか……年は取りたくないものですね)
きっとこのアナウサーも年をとっていたんだろうなぁ。あるいは「ベトナム戦争の報道、華やかなりしころ」というところを縮めてしまったのでしょうか。


早川武男 さんからのコメント
( Date: 1997年 6月 10日 火曜日 13:34:23)

 Yeemar様。広辞苑によると珍しとは
 @目新しく、愛すべきである。清新な印象にもとづく讃美の情をいう。かわいい。すばらしいA見ることが稀である。めったにないB特別である。

となっており、ABそれぞれに万葉集と源氏物語からの引用がありました。
 これくらい昔から使われていたとなると、最初から使い分けがなされていたと考える方が自然なのでしょう。
 おそらく@の「目新しい」から、言葉の意味が増えたのでは?
 よくいわれる「うつくし」が、元来は子供の可愛らしさに対して使われていたとされているのを見ても、あながちないハズレではなさそうな気がします。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 1997年 6月 11日 水曜日 20:15:52)

 ご指摘ありがとうございました。

 私も、「めずらしい」にプラスのイメージを感じるのは、直観的内省ではなく
古語の知識から論理的に導き出してしまった結果かと不安になりまして、森田良
行『基礎日本語1』をひもといてみました。すると、森田先生は以下のよう語源
をからめつつも、たぶん用例から帰納して現代語の「めずらしい」にプラスの評
価を認めているようでした。


 めずらしい 〔珍しい〕形容
「珍しい」は愛ずべき状態である≠アと。つまり、そ
の事物が普通一般と違っているため同類のものがきわめ
て少なく、希少価値のあるものとして尊重すべき状態だ
と感じる気分をいう。ありふれていないことに真新しさ
を覚え、関心を引く状態・性質であると感じる。
【分析1】語源からも分かるように、「愛づらし」は愛賞
すべき状態にあるさま。当然プラス評価がなされてい
る。「珍しい品種」「珍しくよく晴れ上がった梅雨時の一
日」「珍しくもありませんが、お一つどうぞ」など、い
ずれも珍重すべきプラス評価の場合である。もちろん
「お相撲さんには珍しい小柄な体躯」「夜中の十二時まで
残業するのは、別に珍しいことでもない」「まじめな彼が
外泊するなんて、珍しいことがあるものだ」のように、
特別な評価を伴わない例もある。〔以下略〕

 ニュートラルに使われる例もあることはあるのですね。ただこの語がプラス評
価を伴いがちだということは、話し手・聞き手の意識の中に、ちらちら見え隠れ
しているはずで、そこで私も、阪神大震災のニュースで使われた時、違和感を覚
えたのだろうと分析しています。

 私の語源意識を抜きにしても、かつて「めづらし」に強く認められたプラスの
評価の〈尻尾〉は、現代語の「めずらしい」にも残っているのではないでしょう
か。

 早川さんのご指摘は、「めづらし」がすでに万葉の時代に、ニュートラルな評
価で使われることもあったのでは、ということだと理解しました。実際にはどう
でしょう。全般的な調査はしばらくご猶予いただくとして、とりあえず『広辞苑』
の用例にある万葉集4285番歌を見てみました。

   大宮の内にも外にも米都良之久降れる大雪な踏みそね惜し

 この歌では、末尾に「惜し」とあるので、まあ賞美の意を含んでいるのでしょう。
これは大伴家持の歌ですが、彼は巻十七の3926番でも類想の歌を詠んでいまして、
そこでは

   大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

とあります。「見れど飽かぬかも」は万葉の常套句で、プラスの評価をもつこと
ばですから、この2首とも、宮廷内の降雪を讃える歌のシリーズだと思います。

 「めづらし」が「愛(め)づ」から生成されたとするならば、『広辞苑』で「め
づらし」の本義とする「目新しく、愛すべきである」(単に「目新しい」ではな
い)に付加されたプラスの評価が、転義の「見ることが稀である」にも尻尾のよ
うに残っているとしてまったく不思議はないと思います。つまりは、『広辞苑』
の語釈が不十分なのだろうと考えます。

 ところで、古語の「ありがたし」も、単に「有ること難し」というに止まらず、
プラスのイメージがあるようです。源氏物語では、「ありがたき心」「ありがた
き心ばへ」など、人の性格について褒めるときによく使われています。10例ほど
観察されます。


前田年昭 さんからのコメント
( Date: 1998年 3月 17日 火曜日 20:59:56)

あの神戸の大地震を体験するまでは、関西の人は「関西は台風は来るけど地震はないんや。安心や」と代々(けっしておおげさでなく)、教えられて育ちました。
そういうときに、めずらしい(めったに体験できない、親だけでなく、祖父母も体験していない!)体験!という意味で、私などはめずらしいという言葉に違和感がないのです。だから、問題提起をうかがって、プラス評価かマイナス評価か、という物差し自体に少々ショックをうけた次第、うーん。


oda さんからのコメント
( Date: 1998年 3月 23日 月曜日 15:57:00)

うーん、たしかに現代語でも「めずらしい」はプラス評価に片寄っているようですね。
「目新しくて快い」(邦訳日葡のMezzuraxijの項)といった。

古典語で「めづらしき+(嫌なもの)」といった用例がどのくらいあるのでしょう?
源氏などでは無いだろうな(調べてませんが)。
形容動詞の「めづらかなり」なら、たとえば方丈記で飢饉について使われた例がありますが。

  崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためし(=飢饉)ありけりと聞けど、その世の
  ありさまは知らず、[養和ノ飢饉ハ] まのあたりめづらかなりし事なり。(新全集24-10)

形容詞・形容動詞で「意味の幅」が違う、といったところでしょうか。
(同じ形容詞でも活用形によってニュアンスの幅に違いがありそうですが)


posted by 岡島昭浩 at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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