をいただきありがとうございました。
日本語の乱れは困るが、生活の中から生まれたことばに対し、必要以上に肩ひじを張る
のもいかがなものか、ということでしょうか。
さて、今回は最近気になる「語尾上げ」論についてひとこと。
肯定文でありながら語尾を上げて喋る現象。特に若い女性に多くみられるのが特色です
が、スポーツ実況で男性の解説者が頻発するのには、いささか閉口する。
Terryさんのホームページで若干触れておられ、「一部の年配者の不評を買ってい
る」とあり、私も一部の年配者かと思わずで苦笑してしまいました。
この語尾上げ現象を私なりに分析してみますと、
@相手方への気づかい、つまり一方的に話しを進行することなく、都度、共通の認識の
もとに会話を進めていくため。
A多少の自信のなさから、相手方の同意を求めることにより、気持を安定させるため。
B語尾上げによる語感から来る単なるカッコよさから(賢くみせようとしている、とい
う人もいる)
などが考えられます。
もっとも、Terryさんによりますと、米国でも"Up-Talk"という同様の現象が若者
の間でみられるとのこと、を考慮すると上記Bによる要因が多数派なのかもしれません。
(米国人がそうであると言っているのではありません)。
ま、いずれにしましても、ことばの流行というものは、経験則から一過性の現象?であ
り、めくじらを立てることもないかもしれません。
流行語は、時間の経過とともに「風化するじゃないですか」・・・。
Terry さんからのコメント
( Date: 1997年 9月 10日 水曜日 11:31:26)
早速ですが、コメントと弁解を併せて投稿したいと思います。
「語尾上げ」..若しくは昨今ではテレビタレントのタモリ氏により、「半疑問形」と
呼ばれる話し方は確かにここ数年顕著になってきておりますね。私のページで"Up-Talk"
に関して触れましたが、どうやら、"Up-Talk"自体は(又聞きの知識ですが)日本での
「語尾上げ」以降に流行りはじめた様子です。
また、本題から離れますが、米国では肯定文を「語尾挙上げ」する事によりまさしく、
「半疑問形」として使用します。これも、米国の「一部の年配者」には不評を買って
いる様子です。
「語尾上げ」自体は「体言」+「ですか?」の疑問形の短縮から来たのではないかと私は
考えます。始まりは一つの単語に限られていたのですが、徐々に単語の羅列と化し、流行
への道を歩んだのではないでしょうか。(この部分の表現は畠中さんのコメントの
「語尾上げ」「じゃないですか」双方に通じる現代的な言い回しです。)
さて、弁解...ですが、私は決してこれらの「若者用語」を肯定しているわけでは
ありません。実は私も「一部の年配者」の1人であり、時々若者に対して、意見して
いる側の人間です。ウェブ上で「言葉のよろずや」等というふざけたページをやって
おりますが、その本来の目的は:
1.閲覧者が主に若い人であろうことから、その言葉の「誤用」に気づいてもらいたい。
2.なぜ、そのような「誤用」に至ったかの理由を探ってみたい。
3.もし、我々「年配者」の勘違いがあったらそれを知りたい。
等です....と大上段に構えると「エエカッコシィ」ですね。ただ、若者とおじさんの
間に無理に壁を作るのも良くないと思うので、相互理解を出来るような「何か」を求めて
始めてみたものです。所詮、学者にはなれなかった「町のご隠居」程度ですので、大目に
見てやってください。
一言だけ、反論します。流行語の一部は標準語として、後の世に伝わって行くものだと
私は考えております。如何?---こんな事書き込んでると岡島先生に出入り差し止めを
喰らうでしょうか?
→ 言葉のよろずや
畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 1997年 9月 11日 木曜日 10:34:45)
Terryさんが言われる「流行語の一部は標準語として、後世に伝わっていくもの」
に同感です。
私の「流行語は一過性の現象」発言は、短絡的かつ軽率でしたネ。
撤回させていただきます。
天野修治 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 18日 金曜日 1:12:17)
「語尾上げ症候群」について。私は10年前に日本を離れ、現在バルセロナで日本語学校を経営している者ですが、この「症候群」にはっきりと気が付いたのは一昨年ヨーロッパ日本語衛生テレビ放送を見るようになってからです。「日本人の話し方が変わった」と思いました。私は毎年一度は日本に帰っていましたが、この時まで「語尾上げ症候群」には特に気が付かなかったのです。とにかくテレビを通じて感じたことは「性別、年齢、地域にかかわらず、日本人のほとんどすべて」がこの「症候群」に罹っている、ということでした。この事実は私には多少ショックでした。つまり私などの外国暮らしの日本人だけがこの「症候群」から逃れられている「前種」の日本人という感じを持ったものでした。それでその年、日本に帰った際、友人達に恐る恐る(つまりこの時はまだ、「こんなことを感じているのは私だけかもしれない」と疑問を持っていたのです)この「語尾上げ症候群」について聞きただすと、「うん、私も感じている」というので、いよいよこれは本物だなと意を強くしたと同時に、この「症候群」に対して冷静な観察が出来るようになりました。
この「語尾上げ症候群」についての私の感想は、当然この「前種」の日本人としての発想で、「ああ、この時代に日本に住んでいなくて良かった」と素直に言っておきます。さらに、ちょっと独断をお許し下さい。この「症候群」を通して、日本人の日本語に対する考え方(言語または言葉は守るものではなく、自然に任せるもの)や日本人の日本人観(日本人は一人残らず「日本一家」の家風に染まるのが当たり前)を、多言語・多文化・多民族の共存を試行せざるを得ないヨーロッパから見ると、「不思議な国、ニッポン」は依然として不思議のまま、ということになりそうです。
天野修治、バルセロナにて
天野 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 18日 金曜日 8:33:42)
私の発言の3行目「衛生」はもちろん「衛星」ですね。でもスペイン語やカタルーニャ語で多少疲れた頭には「衛生」で良いのかもしれない、と言い訳を少し。
言魔(元Terry) さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 19日 土曜日 17:26:05)
この件は結構気になる話題なのでふと見たら、なんと懐かしい..
私がTerryだったころの書込みがあった..
天野さんのご意見ですと、日本だけとお考えのご様子ですが、米国でも
2年ほどまえ、"Up Talk"という表現で結構取りざたされてましたよ。
私、当時、シリコンバレーにいましたが、実際、若い人々の会話を
聞いていると米国人も同じだ...と感じたものでした。
→ 言葉のよろずや(引越し後)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 21日 月曜日 14:45:57)
「アップトーク」については、1993.08.16 の International Herald Tribune紙に「Uptalk Is, Like, on the Rise?」(James Gorman)として掲載されています。
NEW YORK---I used to speak in a regular voice. I was able to assert, demand, question. Then I started teaching. At a university? And my students had this rising intonation thing? It was particularly noticeable on telephone messages. 'Hello? Professor Gorman? This is Albert? From feature writing?"
I had no idea that a change in the "intonation contour" of a sentence, as linguists put it, could be as contagious as the common cold. But before long I noticed a Jekyll-and-Hyde transformation in my own speech. I first heard it when I myself was leaving a message. 'This is Jim Gorman? I'm doing an article on Kling-on? The language? From 'Star Trek'?" I realized then that I was unwittingly speaking uptalk.
(大学で教え始めたころ、学生たちは語尾上げイントネーションで話していた。特に電話で顕著だった。こういうイントネーションが伝染するとは思わなかったが、気が付いてみると私も語尾上げで話しているのだった。)
以下長いため、誤訳を恐れず要約します。
アイルランドやイングランド、南部アメリカの方言には常時尻上がりのものがあるし、17世紀のアメリカでも断定的発話に尻上がりイントネーションが使われてはいた。
しかし、現代の「アップトーク」はメディアでも指摘されるまでになった。10代の女性から他の人々に波及しつつあり、アメリカ人の発話に根本的な変化が起こっているようである。
アップトークの発生源は定かでないが、中流の上の階級の若者が言い始めたのだろう。
私の考えでは、相手が聞いているかどうか自信がないからこういう言い方をするのである。警察や外科医など威厳を持つべき職業の人がこんな言い方をしたら、たまったものではない。
友人の言い方をまねたのが広まったにすぎないという説もあるが、アップトークにもそれなりの役割があるともいう。「まだ続きがありますよ、邪魔しないで」と信号を送っているわけである。
社会が共有する知識の欠如がアップトークに表れているという人もいる。疑問調によって相手が自分の話題を理解してくれているかどうか試しているというのである。
ある研究では、アップトークは自信のなさや遠慮から使われるのではなく、むしろ、強調したい語句の部分で使われていた。「今度の日曜日?西通りで?バザーを?やります」のように。このようにして語句を結び、加えて、話し手と聞き手を結びつける。
私自身はアップトークは使いたくない。一方で、結婚の宣誓のように、今や疑問調で答えた方がいいと思うようなのもある。もっとも、飛行機に乗ったとき、パイロットに疑問調でアナウンスをされたらいやだ。しかし、近い将来にはそうなるだろう。そうなったとき、アップトークはアメリカ英語の特徴ということになるだろう。
天野修治 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 24日 木曜日 9:08:00)
私が日本に帰った際、友人達とこの「語尾上げ症候群」について触れたときもアメリカ英語の影響があるのだろう、というところに落ち着きました。私が興味深く感じているのは、何が原因でこの「症候群」が広まったかというよりも、むしろその急速な広がりに際して一般的にあるいは言語の専門家の間でどのような議論・批評がなされたのか、という点です。この「症候群」がアメリカでのアップトークの流行に影響されたものかどうかは別として、私はアメリカ英語の流れと日本語の歴史には決定的な違いがあると考えています。あらゆる要素を貪欲に飲み込んで膨らんで来たアメリカ英語のタフさを評価するには吝かではありませんが、イギリス英語という頑固な母体があるからこそアメリカ英語のやんちゃさが生きてくるものだと思えます。市民と州が一体となってカタルーニャ語を死守し、その復活を果たした地に居る私の立場から尚更そう感じるのかも知れませんが、むしろかつてのフランスのように敢然と自国語を防御する雰囲気が一度は日本でも起こらないかと思うようになってきています。未だに正字法さえ確立されているとは言えないこの孤立した言語、日本語に、最近は大いに同情しています。
バルセロナにて
畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 24日 木曜日 9:18:41)
久しぶりです。
Up-Talkに関するTerryさん、Yeemarさんのレポートを拝見しますと、
言語自体は異なっていても「ことばや話し方に対する感性」は、
世界的に共通するものがあるのかもしれませんね。
うまく表現できないけど。
森川知史 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 25日 金曜日 8:05:38)
この種の意見を読んでいて私が何より不思議に思うのは、人間のことばに対する保守性の根深さというものについてです。
ここへ記載されるのは、言語についてそれなりの視野を持った方々ばかりなのに、それでも、例えば「語尾上げ」現象に関して、ある種の「違和感」を一様に表明しておられる。
ことばが生き物である以上、留まることなく変化を続けて行くのは自明のことで、今自分の中にあることばも、そういう変化の過程の一時期に獲得された一変種にすぎない訳です。
いえいえ、こんなことは、皆さんには「釈迦に説法」以外の何ものでもないことは、重々承知しています。それでも、敢えて書きたくなったのは、その一変種のことばを土台に、別変種のことばを捉えるからこそ、そこに「違和感」を表明せざるを得なくなる、ということを思うからです。
かく言う私自身も、「語尾上げ」を違和感なく受け取れない訳で、つまりは、一度獲得されてしまったことばは、理屈や理性や悟性やというあらゆる冷静な眼を越えて、「感覚」にさえなってしまう、ということでしょうか?
ことばを研究する者のひとりとして、ことばに対するとき、どのようにして自身の内部に入り込んでいるこの「感覚」を制御するか、を常に考えています。
無論、この「感覚」を含めて、それこそが活きたことばなのだ、という視点があることも忘れてはならないでしょうが。
天野修治 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 25日 金曜日 22:53:45)
私はこのページへの新参者ですが、言葉についてそれぞれ一家言持っていらっしゃる方々の投稿を拝見するのが楽しみで、つい自分もお邪魔させて頂くことになってしまいます。
私がこの「語尾上げ症候群」のテーマに参加させて頂いたのは、ヨーロッパ文化の奥の深さに触れて、ヨーロッパの人々の「言語に対する姿勢」を通して日本人としての自分を問うてみたかったからです。日本語は全体的に見ると非常に恵まれた環境にあったと言えるのではないかと思います。少なくとも日本国内でその使用を禁止あるいは抑圧されたことは寡聞にして存じません。このことが 日本人の一種楽天的な言語観を形成してきた大きな要因の一つになっていると考えられます。日本語は日本人にとって常に空気や水のごとく「そこにあるもの」で母語への迫害や絶滅の恐怖を味わってきたヨーロッパの人々の言語観とは違って当然ですが(もちろんアイヌ語や琉球語の問題は日本にも存在します)、私は、ひょっとすると日本人は日本語に対してあまり執着心を持っていないのではないか、と最近感じるようになってきています。「語尾上げ症候群」のテーマを通して、日本人の言語に対する姿勢をどうしても考えてしまいます。
バルセロナにて
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 08月 10日 土曜日 15:16:23)
「我々があ、当局にい、対してえ……」のように長く延ばすわけではなく、また、「すごいあたしの片思い? だったわけね」のように半疑問の形にするわけでもないけれども、センテンスの切れ目切れ目の1音を高く発音する話し方があります。中野翠氏は「ポキポキした、幼い」話し方として、「ポキポキしゃべり」と言っています。
●『世界・ふしぎ発見!』のような番組を見ていると、リポーター(若い女の子)のしゃべり方が気になってたまらない。毎回ではないけれど、時どき妙な話し方をする子がいるのだ。どう説明したらいいのかな、センテンスの切れ目とか助詞(いわゆるてにをは=jの部分をやけに力を入れて発音する。私は川口順子外務大臣がこの話し方をしていることに気づきました。この話し方も新しいのでしょうか?
例えば……ベトナムをリポートすると仮定した場合。「私が、ベトナムに来て一番印象的だったのは、天秤棒{てんびんぼう}の両端にカゴを吊るしたものを、重そうにかついで歩く人びとの姿で、それを田舎ばかりではなく、町の中でも数多く見られるということです」
というぐあいに、切れ目切れ目を強く言う。ポキポキした、幼い印象。気になり出すとたまらない。耳障り。〔中略〕実は私も緊張すると、そういうポキポキしゃべりになってしまうことがある。〔中野翠・満月雑記帳〕(サンデー毎日 2002.02.24 p.46-47)
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 05日 金曜日 21:32:52)
「語尾上げ」ではなく、疑問文のイントネーションの話なのですが、ここに書きます。
Yeemarさんが、NHK「気になることば」週間報告で書かれている、
> 「おいしくない」――否定〔\下降調〕、質問(詰問)〔/\/〕、肯定・同意要求〔/なだらかに上がる〕
のことです。
私のことば(福岡県内を転々)では、やや違います。「おいしい」の俚言形「おいしか」を私は平板型で発音しますので、(2)と(3)に区別がありません。
それで、「うごく」という動詞を例に取ります。これは、この区別に私が気付いたのがこの語だったからでもあります。昭和61年頃だったと思います。(久保智之「福岡市方言の、ダレ・ナニ等の疑問詞を含む文のピッチパターン」『国語学』156 1989.3の元になる発表を聞いたよりはあとです)
A「うご'いたと/」と起伏型アクセントが出れば、訝りつつの質問
B「うごいたと/」とアクセントが消されて平板になれば、単純な質問、もしくは感嘆をこめても同様。
当時はこれを、Bが方言的なもの、Aが標準語的なものと考え、標準語的な物言いは、冷静に考えようとしている様を示すものか、と考えました。
しかし、現在のように、東京風の言い方でも、このようなイントネーション(起伏型のアクセントが実現しない)が出ている、という状況では、考えを改めねばならないのかもしれません。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 07日 日曜日 14:08:50)
岡島さん。私は博多弁はわからないのですが、博多弁話者と接した数少ない経験からの質問ですが、(2)の場合の疑問文は「おいしか?」ではなく「おいしかろ?」の方がよく使われるということはないのでしょうか?
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 07日 日曜日 15:05:12)
道浦さん。わたしが書いたのは、イントネーションの話であり、
>否定、質問(詰問)、肯定・同意要求
に対応するものではなく、
>〔\下降調〕、〔/\/〕、〔/なだらかに上がる〕
に対応するもののつもりでした。
〔\下降調〕は、単なる肯定であるので省き、上昇調にせよ、文末で現れるものと、文全体にかかるものとでは違う、ということを言いたかったのです。
「おいしゅうなか(と)」「うもうなか(と)」という形では、私のことばでは、「肯定・同意要求」にはならず、「おいしゅ’うな‘か’や/」のような形をとると思います。そして、これにはイントネーションの2種はなさそうです。
(これは疑問文の形を取る場合を考えたもので、「おいしかろ」のような形を取る場合もありますが、こことは別の話になると思います)
なお、私が聞いた久保智之さんの発表は、「福岡市方言における疑問文のイントネーション、および疑問詞とそれに続く疑問文中のアクセント消失について」(筑紫国語学談話会1983.10.29)でした。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 07日 日曜日 15:39:50)
なるほど。わかりました。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 07日 日曜日 20:28:39)
東京のイントネーションで、動詞の否定形であれば、年配者でも、「あそばない」を〔/\/〕と言う場合と、〔/なだらかに上がる〕と言う場合の2つがあると思います。
「最近、うちの子は家にばかりいて、友だちと遊ばないんです」と知人から相談されて「ふーん、あそばない?」と言うときは〔/\/〕。……(2)
「きょうはもう仕事をやめてあそばない?」と言うときは〔/なだらかに上がる〕。……(3)
(2)は分析的に言えば「『あそばない』だって?」ということであり、「あそばない?」のイントネーションが〔/\/〕になる時は、「『あそばない\』だって/?」という気持ちをあらわすものと思います。
若者の「かわいくない?」が〔/なだらかに上がる〕になるのは、動詞の「もう仕事をやめてあそばない/?」などに類推したものでしょうか。
「かわいくない/?」は、べつに「相手に探りを入れる、あいまい表現」(末田アナウンサー)ではなく、〔かわいくない/\/?〕と言った場合、相手に「訝りつつの質問」と受け取られるおそれがあるために、それを回避し、単純に質問する形を作ったのではないでしょうか。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 07日 日曜日 21:10:37)
福岡では起伏型アクセントの動詞の方がイントネーションの差が出やすく、東京では平板型アクセントの動詞の方がイントネーションの差が出やすいようで、面白いですね。
伝統的な東京の「思わない」だったら、区別がつきにくそうです。
東京の若者はこれの勧誘をも平板に(なだらか上がりに)言ってそうですが、どうでしょう。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 07日 日曜日 23:04:55)
> 東京では平板型アクセントの動詞の方が
とお書きになったのを拝見して、私が上に書きましたのは珍説かもしれないことを悟りました。
私は「あそばない」終止形が中高型(あそばな'い)であるというつもりで書きました。これは東京の比較的若い層が、ほんらい平板型の「赤い」「重い」「冷たい」「悲しい」などの終止・連体形を中高型に発音するのに耳慣れたためでしょう。ただし「の」に続く形は「あそばな'いのが」で、伝統的にも中高型です。
「年配者」は、「あそばない」を上記(2)の場合に起伏式ではなく伝統的な平板型で言うかもしれず、そうならばイントネーションは〔あそばない/?〕。(3)との間に差はないことになります。
> 東京では平板型アクセントの動詞の方がイントネーションの差が出やすいようで
というのは、地方から上京した私の頼りない内省によるもののようです。(2)を〔あそばない/?〕と言う人は(3)も〔あそばない/?〕と言い、(2)を〔あそばない/\/?〕と言う人は(3)も〔あそばない/\/?〕と言うのかもしれません。
ごく若い人で、「質問・詰問」を「かわいくない/\/?」、「肯定・同意要求」を「かわいくない/?」と言う人なら、「あそばない?」も(2)「あそばない/\/?」、(3)「あそばない/?」と言うかもしれないと思います。しかしこのへんはもう私の想像の産物です。
「思わない?」の平板化については分かりません。聞いたことはないと思います。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 08日 月曜日 00:13:09)
「あそばな'いのが」で思い至りましたが、「遊ばない?」が「/\/」になるのは、「あそばないの?」の影響下にあるのかもしれない、などと思いました。
なお、「おもわ’ないの」に対して、「遊ばな’いの」になるのは、「’の」の仕業ですね(「おも’う’の」→「おも’うの」・「あそぶ’の」)。
「あそばないの」の基底形は「あそばない’の」であるわけですが、「ない’」は一音節ゆえに、「な’い」となるわけです。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 08日 月曜日 14:08:13)
> 「遊ばない?」が「/\/」になるのは、「あそばないの?」の影響下にあるのかもしれない
なるほど、私の出した例も「友だちと遊ばないんです」と相談されて、おうむがえしに「ふーん、あそばない?」と答えるというものでした。「ふーん、あそばない(の)?」または「あそばない(ですか)?」の心持ちで言えば〔/\/〕のイントネーションになりうるわけですね。(平板型形容詞に「です」が下接するときも「あそばな'いです」となるようですから)
すると、東京の年配者でも「あそばない?」に〔/\/〕と〔/なだらかに上がる〕との2種類あると思ったのは、必ずしも珍説ではないという気もしてきました。