学校の試験勉強をしていて、つねづね思っていた事があります。栓のない個人的な戯言なんですが・・・。
日本語概説などを習っていると「この日本語はおかしい」と先生が断言される事があります。しかし、その「おかしい」といわれている日本語に(?どこがおかしいんだろう・・・?)と思う事があります。疑問としてではなく、感覚的に「おかしい」と思えない事があるんです。「最近の若者の日本語は・・・・・」と嘆く声も耳にするので、私も知らず知らずのうちに、「おかしい」日本語をそう思わずつかっているんだろうか・・・・と自分のつかっている言葉に自身がなくなります。
私は、言葉というのは「意志」を伝える手段だと考えています。「コミュニケーション・ツール」の一種だと。ある人によっては「おかしい」言葉でも、私たちの世代ではそれは立派に手段(意志を伝える為の)として成り立っているかもしれない言葉を「間違っている」と否定されると、とても哀しいし、混乱したりもするのです。世代による考え方の違いから、より微妙なニュアンスを伝える為に間違った日本語が使われていても、そうした方が「意志」はより、伝わり易いのであれば、言葉として成り立っているのではないのかなあ・・・・、「おかしい」と言葉をきめつける事なんて、誰にも出来ない事なんじゃないの・・・・??と思う事があるんです。
ネイテイブとして、話している言葉を否定されると、とてもつらいです。日本語を直感と感覚で話していて、「おかしいでしょう?」と問われて、「?」と思うたびに「私がおかしいのかなあ・・・・・?」とおもってしまいます。
日本語を学ぶ人というのは、一体どのような気持ちで日本語に接しているんでしょうか・・・?
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1998年 1月 27日 火曜日 0:18:09)
「おかしい」に非難の色が含まれているかどうかが問題でしょうね。
でも「この表現は自分にとって自然だが、相手は不自然と感じるよう
だ」とか、「こういう言い方は昔はなかったらしい」とかいうことに
気づく感性は必要で、それがないとことばの研究はできないと思いま
す。
たとえば歌手のTOKIOが「びしょ濡れて歩いて行こう」と歌った歌詞
を岡島先生がご指摘になり、勉強になりましたが、この言い方に何も
感じないひとも多いはずです。しかし歴史的に見れば、これは居体言
の再活用とでも申しましょうか、専門的には何と言うのか知りません
が、「ひた走りに走る」が「ひた走る」になるようなことばの歴史と
無関係ではないでしょう。深いのです。「あいまいに薄笑うしかでき
ない国民」(毎日新聞、1995.8.16)なんてのもそうかもしれませんが、
注意してみると結構ありそうです。「おやっ」と思う心がないと、問
題の所在に気づかない。ただし、ことばを非難するのはやめようね、
と、そういうことだと思います。
なぜ日本語を勉強するか? 自分と違うことばをしゃべったり書い
たりしている人がいて、それがおもしろいから。
書生論、ひらにご容赦。
satopy さんからのコメント
( Date: 1998年 1月 27日 火曜日 13:32:35)
>日本語を学ぶ人というのは、一体どのような気持ちで
>日本語に接しているんでしょうか・・・?
私の場合はこちらを御参照ください。とりあえず。
言魔上人ことTerry さんからのコメント
( Date: 1998年 1月 29日 木曜日 14:50:11)
言葉は日々変化するから面白いのです。20年前、一応「日本語学」なぞ、
勉強していたはずの私ですが、今では、市井の遊び人と化してしまい、
言葉のよろずやなんぞという言葉遊びのサイトを作ってますが...
実際、社会に出て、営業職になってみると、日本語学に限らず、学んだ事が
役に立つ事って、多々あります。私の場合は、「面白いから学んだ」というところ
ですね。Yeemar先生の「自分と違うことばをしゃべったり書いたりしている人が
いて、それがおもしろいから。」そのままです。