拙ホームページではことばについての雑談をしています
が、古文を取り上げると、私の固定読者より「難しい」
とゆわれます。
私なりにおもしろおかしく(?)書いているつもりです
が、力量の点もあり、どうも限界があるようです。
そういえば、大学の国語学の授業で古典の話をすると学
生がついてこないので、現代日本語を中心にしていると
いう先輩の話なども伺いました。
古典は今や古いんでしょうか(おっと同語反復ですね)。
朝日新聞社『日本語相談 二』で「なぜ、古文を学ぶの
でしょうか」という問に、大野晋氏が「日本人が生み出
した言語的な遺産が理解できる豊かな心の人間になるよ
うに、それらの言葉を学ぶ」ためですと答えていますが、
そういった説明では説得力を持たなくなっているようです。
私は「その時代のことばを学べば、その時代に時間旅行が
できる(物理的には不可能なはずのことが実現できてし
まう!)」という説明を考え、自分では納得していますが、
おおかたの賛同を得られるものかどうか。
ちょっとテーマが大きすぎるかもしれませんが、ふと以上
のようなことを思ったので、書き込ませていただきました。
→ 拙ページ
高橋半魚 さんからのコメント
( Date: 1998年 9月 01日 火曜日 18:51:18)
こんにちは。
最近は使わなくなりましたが、以前は、
「英語は、ガイジンに道を聞かれたりしたとき使えるよね。古文も
平安時代の人に道を聞かれたりしたとき、便利だよ」
と言ってきました。まあ、実学的発想ですが……。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1998年 9月 01日 火曜日 22:55:40)
ありがとうございます。
私も、自分のことを考えると、まさにその発想で古文を読んでいるような気がしますね。
もし明日か明後日ぐらいに平安朝の人とふと会うことがあるんじゃないかと、ぼんやり考えているのです。
冗談ではなくそういう気分は確かにあります。もしや、これが「書物を通じて古人と対話する」ということかもしれぬと思います。タイムマシンといったのはその意味もあります。
僕を含め、古典好きの人は、多かれ少なかれそういう感じをもっているんじゃないでしょうか。その実感を他人に伝えることができるか、というところに難しさを感じるのですね。
高橋半魚 さんからのコメント
( Date: 1998年 9月 03日 木曜日 16:55:53)
そうですね、同じタイムマシンの発想ですね。
高校の時ならった国語の先生に、大学入学が決まったころに
「大学に行ったら、古典を勉強しなさい。近代文学は自分一人で
も勉強できるから」と言われたことがあります。近現代の人に聞か
れると怒られそうですが。
先日、学生に「なんで、せんせーの授業(一般教養の文学)
は古文なの?」と、まあ近代文学なんかを扱って欲しい、というよう
な趣旨のことを聞かれたので、「近代文学は自分一人でも読める
でしょう」と言ったら、ちょっとだけ納得してたようです。
まあ、自分から「夏休みに本を読みたいから紹介してくれ」なん
て言ってくるくらいの学生でしたから、最初からココロザシは高いん
んでしょうが。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 20日 土曜日 08:13:48)
村上慎一『なぜ国語を学ぶのか』(岩波ジュニア新書、2001)という本が出ています。村上氏は、カバー見返しによれば、愛知県立岡崎高等学校教諭。
本書は、書名のとおりの、生徒が抱く根本的な問いかけに生真面目に答えようとしたもの。p.89以下の「古典(古文・漢文)を学ぼう」では、「1 古典を学ぶことに何の意味があるのか」以下、傾聴すべき話が続いています。
読んでからしばらく経ったこの本を、よく読み返さないままに紹介しますと――、人はだれでも「人生」と「生活」をもっている。日々のあくせくとした「生活」には古典の知識は必要がない。しかし、「人生」を深く生きるためには、古典を分かる心があったほうがいい、というのが骨子です。
私のことばで要約すると、ずいぶん平凡になってしまいますので、一部分を引用します。古典の楽しみと、月見の楽しみをダブらせながら説明している部分です。
先生 〔略〕今まで月見したことはないの?古典を読む目的のひとつは、古人と心を通わせることだ、という趣旨のことは、俵万智さんも書いているのを読んだことがあります(何だったか失念。『恋する伊勢物語』か?)。
生徒C ずっと昔、小さいときに家族で団子を食べたのがそうだったかなあ。でも、最近はわざわざ月を見るなんてこと、したことないよ。そんなことして何になるの?
先生 何になる……。何にもならんなあ、残念ながら。
生徒C 月をながめたらだれかが何かをくれるというんだったら、見てもいいよ。で、先生はなんで月なんか見たいの?
先生 なんでって……。強{し}いていえば、きれいだなあと思って見ている、その時間の気持ちよさのためかな。今、この同じ月をだれが見ているんだろうとか、生きている間にあと何度中秋の名月にめぐりあうだろう、その間に何があるだろうとか、この月を見て心ゆさぶられた日本人がどれほどいたことだろうとか……。いろんなことを思いながらながめている。(p.91)
さて以下は、現在の私の考えです。
古典を読む目的は、古人と心を通わせるということもあるが、そればかりではない。古人が、われわれと違っているということを知るためにも読むのである。つまりわれわれは、古典を読んで、昔の人は自分たちとどこが同じで、どこが違うかを知る。
人々は昔も今も変わらないわけではない。それはそれは、もう大きく変わるのである。
1983年、細野晴臣はNHKの番組に出演して、糸井重里と次のような会話をした。
細野「僕はもう、中学生ぐらいに、僕の場合はね、バンドじゃなくて自分のために、こうギターで弾いてた」見ていて「おやおや」と思う。自分を慰めるためにギターを弾くのは、こんにち、それほど恥ずかしいことではない。長じて音楽家になった細野の芽がそのへんにあったのかと、私などはむしろ感心する。しかし、1983年の糸井重里は「暗い」という評言を与えた。これは、当時の人々が、「明るいか(ネアカか)、暗いか(ネクラか)」という基準で評価されたからだ。現在の私はそこに違和感を持つ。
糸井「自分を慰める(笑い)」
細野「そう」
糸井「暗い、……暗い人だ(笑い)」(NHK-BS2「あのころのあの番組・YOU」2003.04.27放送=NHK教育「YOU・だれでもミュージシャンパートII〜YMOの音楽講座〜」1983.06.11の再放送)
カタログハウス編『大正時代の身の上相談』(ちくま文庫)を読むと、大正時代の人は、なんでこんなばかなことでくよくよ悩んだのか、今なら悩む人はゼロであろう、と思うような相談が載っている。一方で、思わず同情するような深刻な相談も載っている。別に相談に2種類あるわけではない。当時の人々が深刻に考えたことの一部をわれわれは深刻に思わなくなり、一部をあいかわらず深刻に考えているだけの話である。
1980年代、大正時代にしてかくのごとしである。いわんや、それより古い時代の人々の心の中は想像を絶する部分がある。異星人のようなことを思ったり考えたりしている。なぜ人は時代の流れの中でこうも変わったのか、驚く。その一方で、なぜか頑固に変わらない部分もある。「恋愛」というテーマひとつとっても、「こんな恋愛感情は今ならばありえない」と思う部分もあれば、「実に我が意を得た」と思う部分もある。
古典を読むことは、硬く言えば、人の精神史を知ることでもある。われわれはいろいろな出来事に臨んでいろいろな思いを抱く。しかし、それらの思いはどれも等しく昔からあったものではない。意外に最近のものもある。意外に古いものもある。中くらいのものもある。おのおのの時代の古典を読むと、それが分かってくる。自分の考え、感情、悩みといったものを、歴史的に相対化してとらえなおすことができる。
――この営為を学問的に徹底して行うと、津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』のようになるのでしょうか。もちろん、そのような読み方だけが古典文学の読み方ではないでしょうが、ひとつの目的ということはできると思います。
では古語を習う目的は? それは今回は触れませんでした。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 20日 土曜日 08:30:17)
紀要のようなものに「研究の視点」といって、200字程度の文章を書くことになっていますが、今年は次のように書きました。
「昔のことを調べて現在と共通することを見つけても詰まらない。そういうことだったら現在の方がよっぽど面白い。その時代にしかないものを見つけるのが面白い。」というようなことを、私の師の一人である日本近世文学の中野三敏先生はおっしゃいます。これは、私の関っている日本語研究史の研究においても当然そうあってほしいところですし、国語史の研究でも、やはりそうあってほしいところです。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 20日 土曜日 20:26:47)
私が上で縷々述べましたことは、岡島さんが中野三敏氏のお話を引用されて端的に説明されていることと同様のようですね。
中野氏が「昔のことを調べて現在と共通することを見つけても詰まらない」と述べられたということは、他方、「現在と共通することを見つけるのが(そのことこそが)面白い」という考えというか、テーゼがあるものと思います(それだけを純粋に主張した文章はないかもしれませんが)。中野氏のお話はそれに対するアンチテーゼといったものでしょうか。
「なぜ古典を勉強するか」についての種々の説(生徒や学生の説なども含めて)を、もう少し集めてみたい思いがします。「古人と心を通わせるため」という説は存外幅を利かせているような気もします。それは一面の真理ではありましょうが、そうすると「共感できない(理解できない)古典の文章」に出会ったとき、「つまらない」という反応に直ちに結びつく可能性もあります。
前回の補足ですが、私の雑な紹介のし方では、村上慎一氏の著作が、「古人と心を通わせる」ことを古典の目的としたもののようですが、実際はもう少し複雑です。「古典の勉強は、過去のことを学ぶという側面だけでなく、現在の自分の考え方や感じ方がどこからやってきたかをたしかめるという側面もある。」(p.106)というのは、古人に自分と共通するものを求める考え方ですが(これは一面の真理で、大切)、一方で、「古文の場合は、自分のもっている言葉の世界と古文の言葉の世界は、どこが重なっていて、どこがずれているのか、なぜずれているのか、ということを考えることが大切だと思うな」(p.127)ともあります。
古典の文章の具体例として、「平家物語」の「能登殿最期」が引用されており、卒業生の感想文が掲載されています。卒業生は、「(私は)能登守教経が好きだ(……)彼の戦いは迷いがない。潔く爽やかである」という共感の文章を主につづっていますが、「当時の武士の規範が潔さだけではなかった」ことにも注目します。鵺退治の源頼政が「失敗したら自分を推挙した貴族を射殺すつもりであった」という潔くない面があることに触れ「武士はなかなか怖い」と結びます。
村上氏はこれをうけて「(自分たちが)今もっている世界観を修正したり、世界観にみがきをかけたり」することが大切だと思うと述べ、「このあいだの卒業生の文章でも、「武士」というのがどんな存在なのか、『平家物語』の一文を通してとらえ直しをしているというようにも読めなかったかい?」と問いかけます。
私の考えと重なるところも小さくないようです。ただ、私の古典の読み方はもっと単純で、「今のわれわれの価値観と、平家の武士の価値観は大きく違う。これは驚きだ」といったような点に重点をおこうというものです。ちょっと身もふたもない言い方ですが。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 20日 土曜日 20:36:09)
長く書きすぎて、だんだんわけがわからなくなっていますね。
> 「今のわれわれの価値観と、平家の武士の価値観は大きく違う。これは驚きだ」といったような点に重点をおこうというものです。
これもまた極端のような。「……といったような点にも重点をおこう」と「も」を入れたほうが穏当か。「……といったような点がなおざりに考えられているので、もうすこし注目したいものだ」ではどうかしら。
booko さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 06日 土曜日 18:15:08)
久しぶりに時間ができたもので、過去ログを興味のあるものから
ゆっくり読ませていただいているところです。
「なぜ古文を学ぶのか」というテーマとは少しずれますが、私が
古文を学んでいちばんおもしろかったのは、自分で書いてみたときです。
「平安時代の人に道を聞かれたら」というステキな発想こそ
ありませんでしたが、外国語を学習するときには読むだけでなく、
書いたり話したりすることも重要です。
ならば古文も自分で書いてみよう!と思い、平安語で日記を書くことに
チャレンジしてみました。
これは、予想以上に難しかったです。
まず起ったことを時系列に書いて、テレビや本の感想があればそれを
書こうとするのですが、2行も書かないうちに言葉につまってしまい、
先に進まないのです。
例えば、
「朝テレビを見た」
たったこれだけのことを書きたいのに、「朝テレビ見き」でもないし
「朝テレビ見けり」でもない、何と書けばしっくりくるのかわからず、
その回は結局途中で挫折してしまいました。
(なんて書けばいいんでしょう?やっぱり「見き」でいいのかな?)
比較的うまく書けたものは、以下のような感じになりました。
「五反田がマネージャー(当時五反田で働いていました)、いと
あいなし。まめやかにものすれどつれなければこころうきこと
さらなり、かかるうとき人のやさばみてうちとけたることなど
言ひたる、いとひまさりてなほうたておぼゆ。
いささかむつましければすぐしやすかるべきものを。
思ふもいたづらなり。」
これはいろいろな文章から型を抽出して、自分の気分にぴったりくる
単語を当てはめていったものでもありますが、その時の気分や人物評の
ようなものをつらつら書くと、わりと書きやすかったように思います。
私の平安語力の拙さによるところが大きいのはもちろんですが、
語彙や文法が変化しただけではなく、やはり表現しやすいことと
しにくいことがあるような気がします。
悪戦苦闘しながらそれが体感できたので、「古人と心を通わせる」と
まではいきませんでしたが、古語の勉強がより楽しくなりました。