秋田の佐々木先生の文章です。
→ せっかく育てた子供たちが
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1998年 12月 17日 木曜日 11:49:45)
最近、あるMLで知ったのですが、「子供」と「供」の字を使って書くことをやめようという動きがあるようですね。
「婦人」をやめて「女性」にしているのと似た動きかな、と。
→ 子どもと子供
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1998年 12月 17日 木曜日 11:52:13)
こちらも。
→ 「子供」ではなく「子ども」にしよう
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1998年 12月 17日 木曜日 12:02:02)
語史的には、山内洋一郎『野飼ひの駒』(和泉選書1996)参照、であります。
「子共」に人偏を添えた「子供」は近世以降とのことです。
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 7月 09日 金曜日 17:57:34)
岡島さんに教えられて、「こどもたち」のところから、
「子供」ではなく「子ども」にしよう
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/shimizuf/mother5.htm
に行きました。
いやあ、驚きましたねえ。こんなこと言う人がいるなんて。
要約すれば、
「子供」の「供」は「ども」の蔑称の意味があるから使うのをやめよう。」
だって。
私の考えでは、反対です。ひらがなにするから、「子」+「ども」と分離され、
蔑称の意味が生じるのです。
「子供」を「子」+「供」に分離するなんて、信じられませんね。そんなことを
言ったら、ほとんどの熟語が成立しなくなります。たとえば「大人」は「大きい人」
だから、「子供より背の低い大人」は「大人」と書けなくなります。子供の身長が
伸びて、親より高くなると、親は「大人」でなくなってしまうわけです。
同じ伝で、「小学校」は「小さな学校」だし、「高校」は「高い校」になります。
高台にある大きな小学校はどうなるんでしょうね。あきれてしまいます。
こんなことは、小学校の先生が教えてくれます。
「漢字は、組み合わさって熟語になると、新しい意味ができるんですよ。
わかった人は、手を挙げて、は〜いと答えてください。」
※ 正しい意見は、岡島さんに教えられた次のページによくまとまっています。
せっかく育てた子供たちが
http://www2.justnet.ne.jp/~assoonas/UC168.HTML
要するに、接尾語となるものはカナ書き、ということ。例。「私たち」。
逆に言えば、カナ書きならば接尾語。したがって、「子ども」は、「子」
の複数形・蔑称。
※ 私の感想は、上記ページへの批判ではありません。新聞などのマスコミへの
批判です。
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[付記]
「子どもと子供」のページは、URLが変更されたようです。検索し直しました。
旧 http://www1.usen.ne.jp/~macy/note/note017.html
新 http://www.ask.ne.jp/~mayday/note/note017.html
矢玉四郎 さんからのコメント
( Date: 2000年 6月 10日 土曜日 11:18:40)
南堂さんのコメントのとおり、子どもと書いたらガキドモの意味になります。
「子ども」表記をやめよう。というよびかけをしています。
政府にもはたらきかけましたが、文部省もなぜ「子ども」かその根拠を
私に説明せず、逃げています。
「子ども」表記は間違いです。根のふかい戦後思想の
過ちが端的に出ています。ホームページ「矢玉四郎のはれぶたのぶたごや」を
ごらんください。
十二年七月に出る「心のきれはし 教育されちまった悲しみに魂がないている」
ポプラ社にも書きました。
「子ども」表記を推進する人たちは、言語を考える頭脳が欠けています。
このような専門の議論のできる人達、どうかこの問題を議論してください。
→ 矢玉四郎 はれぶたのぶたごや
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2001年 9月 21日 金曜日 16:54:06)
次の元禄時代の資料によれば、「こどもども」という言い方もあったようです。この場合、「こども」の「ども」に接尾語の意識はなくなっているのでしょうね。
夜も寝ずにどんどをはやす子供共(「奈良土産」〔元禄7・1694〕『雑俳集成』第1期 1 元禄上方雑俳集 1986 p.29)『野飼ひの駒』も持っているはずなのですが、どうしても出てきません。