1999年02月18日

放送員って...(Yeemar)

「アナウンサーってて...」からの分岐です。
話題がそれると思いましたので。

金川さんwrote:
>> それから、確か、NHKは戦争中も「ニュース」「アナウンサー」
>>は使っていたところではないでしょうか?

 いま用例を挙げられないのですが、「報道」「放送員」
と言っていたと思います。

 戦争中の英米語禁止というのは法令によって決められた
とは思いがたいのですが、「英米語禁止ニ關スル法律」と
かいうものはあったのでしょうか。それともいわば「自粛
の集積」だったのでしょうか。

 「フライス盤」などということばは工場でもふつうに
使われていて、言い換えられたわけではなかったようです。


さんからのコメント
( Date: 1999年 2月 19日 金曜日 17:33:01)

今でも使用されていますね。>「放送員」
例えば宮城県警


言魔 さんからのコメント
( Date: 1999年 2月 23日 火曜日 19:14:45)

戦後のカタカナ表記などを研究したわけではありませんが、
手元に「天声人語」1945.9〜1949.12があるのでちょっと
見てみました...
1945年9月6日、8日のものには全くカタカナ表記がありません。
が、9月12日に既に「ガソリン」「キャンプ」「タイプ」が
登場。しかも、9月16日の記事では、
「日本国民にプラスしたものであった」などという表現が...


Yeemar さんからのコメント
( Date: 1999年 2月 23日 火曜日 21:01:27)

よく考えたら「ラジオ」はそのまま使われていたのでは
なかったでしょうか。
人名・地名以外のカタカナ語がどれだけ生き残っていたか
調べてみたら面白いかもしれませんね。
幸いなことに日本図書センターというところが朝日新聞の
縮刷版を続々覆刻していて、家庭でも古い新聞の縮刷版を
みることができるようになりました。たとえば昭和20年は
上下2巻で36,000円です(ただの2巻で収まっているのは当時は
タブロイド2頁だったから)。
趣味で買うとしてはやや高いですが、ちょっと気になります。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 1999年 2月 23日 火曜日 21:43:21)

まったく調べないまま書いていますが、昭和13年国家総動員
法施行、昭和15年ごろの国民精神総動員運動あたりからカタ
カナ語への風当たりがきつくなってきたわけでしょうか。

ところが日米開戦を伝える朝日新聞夕刊紙面(S16.12.9)でも
「薬用美手クリーム ヒスタメント 専門に手の健康を護る
クリーム、朝夕すり込めば、荒れに悩まず働けます」の広告、
記事本文「石油タンクが火を發して」「燃料タンク及びホテル
は目下炎々として」等有り。

また敗戦を伝える朝日新聞(S20.8.15)では「インフレ防止に
強力措置」「モラトリウムの如きは絶対に行はず」等とあつ
て、和語漢語に換言困難なる語は其侭使用せるものゝ如し。

これらを総て日本語に言い換えなければ気が済まないような
過激な国粋主義者は、当時いなかったのでしょうか。


posted by 岡島昭浩 at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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