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「略字 侃侃諤諤」
http://www4.justnet.ne.jp/~greentree/CODEKNKN.HTM
略字についての詳しい甲論乙駁があります。
感想などがありましたら、「ことば会議室」でお聞かせください。
ののまる さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 20日 木曜日 11:31:37)
ちょっと読んでみましたが、ひとつ疑問に思いました。
「何で自分の所にBBS設置しないで、人の掲示板で感想募るんだろう?」
上の論とは直接関係ありませんが、一言二言。
「しんにゅうの点」について。
あれはもともと、印刷体(明朝体)では2点、筆記体(楷書体)では1点なのです。
時々楷書で2点しんにゅうを書く人を見ますが、あれは正字を誤字にしてます。
楷書体の「3」のような形の所は、明朝体では下の点と「コ」のような形の部分なのです
(つなげて書いたのが楷書のあの形に固定した)。
もともと漢字の印刷体と筆記体は、字によってはものすごい差がある場合があって
(「虎」と「乕」なんてのは典型です)、それが近代になり、
字形のほぼ固まっている印刷体を、自由度の高い筆記体が浸食しはじめたのが、
混乱の始まりだと認識してます。
そしてさらに、筆記体の印刷体への侵略が進むと、今度は新たな筆記体が現れ、
それまでも印刷体へ進出をはじめる...略字問題の本質はその辺にありそうな気がします。
私としては、あくまで正字にこだわり、その理由づけに
「古典の文字が読めない」ということを挙げる人に対しては、
「じゃあなぜ変体仮名をコードに入れろって言わないんだい?
あのせいで日本の古典は読めないじゃないか?」と言いたくなることがあります。
様々な書体がひとつの文字(あるいは音)に用意され、
それらがある程度住み分けていた、そういう時代の、文字の認識の仕方について、
興味があります。
そういう研究を重ね、現実の文字使用に成果を反映させること、
そういう必要もあると重います。
「現代の『干禄字書』」のようなものが作れないだろうか、
それをコンピューターにおける文字のコード化に反映できないのか、
そういうことを時々考えます。
長々と、しかも 論点がずれて、申し訳ありません。
門外漢 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 20日 木曜日 19:39:07)
論点の詳細についてはよく分かりません。
ただ一点、気になるのは、最初に鉛活字が造られた頃の問題はどう考えるのか、ということです。活字職人の水準で決まってしまった字体がかなりの数あるはずです。そもそも活字(フォント)を前提に、正字・略字について議論してみてもはじまらないのではないでしょうか?
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 21日 金曜日 10:13:18)
「ののまる」さんへの返信。
第一。「なぜ自分のところに掲示板を設置しないか?」
私のところのプロバイダでは不可能だからです。
また、このホームページにこだわらず、略字の話をご自由にどうぞ。
第二。
筆記体のしんにゅうの話に関連して:
78JISフォントの行書体(FA 瑞筆随筆M)で「這」を表示すると、
何とも言えない字体が出て、おもしろい。このしんにゅうは、1点でも
2点でもない筆記体。
78JISフォントの教科書体(FA 教科書M)で「這」を表示すると、
2点しんにゅうとなります。さあ、どうする。NECに「そちらの書き方は
間違っている!」と指摘するか。
そこで学研漢和字典(書籍版)にある筆記体画像を調べると、楷書体の
しんにゅうはすべて2点しんにゅうとなっている。つまり、通常の教科書
体のしんにゅうの形(「ろ」ふう)で、1点加えて2点にしたものが、古
来、正しい。FA 教科書Mは、そのとおりになっている。NECも同じように
答えるでしょう。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 21日 金曜日 11:36:00)
南堂さん、ようこそ。
この会議室は、ことばに関する議論であれば、どうぞ御自由にお使いください。
『学研漢和大字典』で、「古来」というのは如何かと思いますが。
#電子版は書籍版に比べて情報が削られていますね。付録の「中国の文字とことば」「中国の名著」なども電子版に入れて欲しかったものです。
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 22日 土曜日 10:39:55)
「岡島」さんへの返信。
「古来」について。
これは失礼しました。漢字の歴史的変遷は、私は詳しくないので、不正確な
記述になってしまいました。具体的にどのように変遷してきたのか、どなたか
ご教示くださるといいですね。学研にもいくらかは出ていますが。(しんにゅ
うの部の冒頭など。)
ざっと調べたところでは……
楷書というのは、後漢の末ごろにできたもの。これは日本では邪馬台国の前。
だから日本に漢字が伝わったころは、楷書だったことになる。それからずっと、
楷書が主流を占めてきたわけですね。篆書などは主流にはならなかったわけで、
日本のしんにゅうは、ずっと、2点しんにゅうだったと見てよさそう。もっと
も、行書などもありますが、これが1点しんにゅうの俗字を生む下地になった
ようだ。
ただ、明朝体というのは、楷書体をもとにしたものであって、行書体をもと
にしたものではないから、行書体にこだわるのは意味がないとは思うが。
そもそも、「漢」字──という名前からして、漢ですね。
ところで、それよりもうちょっと古い時代の「漢委奴国王」の金印は、後漢
時代だが、隷書だそうだ。大辞林CD-ROM版の「わのなのこくおう」のところに
画像あり。
「学研漢和字典」ではなくて「学研漢和大字典」でした。これも失礼。
「瑞筆随筆M」も「瑞筆行書M」が正しい。これも失礼。
さて、辞書の電子版については。
私の感想は、安すぎるのが癪のタネ。大金を払って書籍版をそろえたのに、
全部まとめてCD-ROMになって大バーゲンしている。おまけに初版本のカラー
画像まである。くやしい〜。
何でもかんでもCD-ROM版に入っていたら、書籍版を買った私の立つ瀬があり
ません。 (……と言いつつ、両方もっている私って何?)
ののまる さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 22日 土曜日 12:16:55)
書体の名称に大きな間違いがあるので。
> 楷書というのは、後漢の末ごろにできたもの。これは日本では邪馬台国の前。
>だから日本に漢字が伝わったころは、楷書だったことになる。それからずっと、
>楷書が主流を占めてきたわけですね。篆書などは主流にはならなかったわけで、
>日本のしんにゅうは、ずっと、2点しんにゅうだったと見てよさそう。もっと
>も、行書などもありますが、これが1点しんにゅうの俗字を生む下地になった
>ようだ。
楷書ができたのは六朝初期です。ちなみにそのころには行書も草書もありました。
それ以前は隷書です。
隷書が石刻文字や行書の影響を受けて、楷書が成立したようです。
隷書ではしんにゅうの書き方はいろいろありますが、多いのは3つ点を打ち、
一番下の点からつなげて、「ん」を平たくしたように右払いを書く、です。
明朝体はその形をある程度忠実に受け継ぎ、2点を独立させてますが、
普通に使われた楷書では、行書の影響からか、2点目と3点目を続けて書き、
そのため、点の下に3のような形を書くようになったのです。
もし書店で書道関係の本を見つけられたときは、ひもといてみるといいでしょう。
楷書でのしんにゅうが、どんな古典の作品でも1点になっていることが確認できると思います。
明朝体が楷書を基本としたのは間違いでないでしょうが、楷書の形とギャップが大きい字もいくつもあり、
(「北」「糸」「入」などですね)、単純にそう言いきれないところがあります。
ちなみに台湾や香港では(いわゆる繁体字)、明朝体でのしんにゅうが不思議な形をしていて、
楷書体をそのままこわばらせたような1点しんにゅうです。
明朝体と楷書体を妥協させた結果、このような形ができたのでしょうか?
もちろん、台湾の楷書のフォントでは1点です。
「中国の問題ではなく日本での問題だ、日本ではどうなのか」という反論もあると思い、
ちょっと日本の実用書関係について書棚を探したら、
昭和4年発行の「三体ペン字のくづし方」という本を発見(古本屋で百円で買った)。
これでは明朝体は2点、楷書はすべて1点でした。
> ところで、それよりもうちょっと古い時代の「漢委奴国王」の金印は、後漢
>時代だが、隷書だそうだ。
これも「篆書」が正しいですね。
現在に至るまで印鑑の文字は篆書が主流です。
実際、金印の印面は篆書です。
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 22日 土曜日 19:32:59)
> 書体の名称に大きな間違いがあるので。
> 楷書ができたのは六朝初期です。
出典は?
私が調べたところでは、学研大漢和字典(巻末解説)、小学館国語大辞典
および三省堂大辞林(いずれも「かいしょ」の項)、の3つとも、「後漢の末」
となっています。他に、小学館の古い百科事典でもそうでした。
六朝初期とは、時期的にはそんなに違いませんが。できたのと普及したのと
でも、いくらかの違いが出ますが。
「わのなの」の「隷書」も、大辞林の記述です。辞書が間違っているのかな?
さて、隷書と篆書の違いはどこにあるのかしらん?
(普通言われているのは、前者は後者を簡略化したもの、ということ。)
手書きの書体では、私もあちこちざっと見てみましたが、いずれも、行書
ふうの字体のしんにゅうになっていました。
例は: 聖徳太子/堀辰雄/その他
です。
どちらかというと、馬琴本の写真画像でも見たいですね。
なお、前述の二つ国語辞典はいずれも、「しんにょう」の項で、「常用漢字
は1点、常用漢字以外は2点」と、明朝体画像で示していますね。明確に。
------
だけど、むむむ……
「略字」という一番新しい字体がテーマだったのに、なぜか、古い字体の話
ばかりだ。別のテーマで別の会議室(古字 侃侃諤諤)を作った方がいいのか
な???
ののまる さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 22日 土曜日 22:37:09)
>出典は?
伏見冲敬著『書道字典』(角川書店)の書道史についての記述からです。
これによると、「楷書」の特徴を備えた書のもっとも古いものは、415年、北魏時代のものです。
同書に「行書は漢の末に始まったという伝承があり」とあり、これと混同したのでしょうか?
「委奴国王印」については、完全に大辞林の間違いです。
篆隷の違いですが、一番わかりやすい例は、
「篆書ははんこの字、隷書は朝日や読売の新聞名に使われる字」でしょうか。
話を最初の問題からずらしてしまってすみません。
「略字」...ですか。
私はメモを取るときは草書やら簡体字やら当て字やらごちゃ混ぜにして使う人間なので(^^;)。
「慶応」を「まだれにK、まだれにO」とか、「寮」を「うかんむりにR」とか、けっこう見ましたよ。
ののまる さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 22日 土曜日 22:58:44)
下のサイトで書体の成立についてまとめてあります。
これによると明朝体は顔真卿の楷書から出た「宋体」がもとだそうですが、
顔真卿の楷書には、明朝体の2点しんにゅうのようなのは、ないわけではないのですが、
楷書の1点しんにゅうのようなものが主なので、なぜあの形が固定したかは不明でした。
→ 文字と書体の豆知識《一般編》
漢字道樂 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 23日 日曜日 17:02:16)
はじめまして。漢字道樂と申します。
南堂さんのHP、興味深く拝見しました。
さて、1点しんにょう、2点しんにょうについての件ですが、
もともと楷書では1点しんにょう(今学校で習うもの)でした。
また、干禄辞書の流れを汲む康煕辞典で採用した明朝体は
2点しんにょうでした。
ところが、戦後文部省が「当用漢字表」を制定したときに
「手書きに合わせる」と称して、明朝体活字までも
1点しんにょうにしてしまったのです。
(その割には手書きの形とかなりかけ離れた形状をしていますが)
しかし、楷書は全く形が変わっていないので、
結局1点しんにょうか2点しんにょうかは、明朝体のデザイン差
〔ただし明朝体の上では異体字扱い〕ということです。
学研の漢和辞典のCD-ROMの楷書体が2点しんにょうになっているのは
フォントデザイナーがJIS X 0208の字形に影響を受けたためだと思います。
(要するに間違い)
実際、戦前の文部省活字(教科書体)は全て1点しんにょうで
デザインされています。
詳しくは「解説字体辞典普及版(江守賢治著、三省堂刊)」を参照してください。
(この本は非常に興味深い記述があるのでぜひご一読をお勧めします)
あと、中国(中華人民共和国)の簡体字の明朝体(中国名は宋体)では、
全て1点しんにょうになっていますが、これは日本の当用漢字表の字体の
影響を受けたためです。(中国で簡体字が制定されたのは1956年で、
1948年公布の日本の当用漢字表よりも後)
そもそも、当用漢字表はアメリカ占領軍の意向を受けたもので、
漢字廃止を目論んで作られたものでした。
日常生活の目安という性格を持つ現在の「常用漢字表」とは
全く異なる性質のものと考えたほうがよいでしょう。
(朝日新聞などが記事を未だに「かな混ぜ書き」にするのは、
「当用漢字表」と「常用漢字表」の違いを全く理解していないためです。
そういう会社が「文化」を語るな!と私は言いたい)
→ 解説 字体辞典普及版(江守賢治著)
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 23日 日曜日 22:12:00)
しんにゅうについては、わりといい根拠を得られました。
「手書き文字の教科書」といえば「千字文」。これの画像が、
「角川漢和中辞典」の付録にあります。それで見ると……
「連」「達」「遣」は「ろ」ふうの2点しんにゅう。
「退」「過」「途」は「ろ」ふうの1点しんにゅう。
つまり、両方ある。
ただ、この「千字文」一覧を見ると、多くの字で、康煕字典体とは
けっこう異なりますね。
なお、おもしろいのは「叛」で、これは「半」が「ハ」でなく「ソ」、
つまり下開きでなく上開きになっている。78JIS、83JISでも同様。
いわゆる康煕字典体や、国語審議会の印刷標準字体とは、異なる。
……ここでようやく、略字の問題に結びついた。ずいぶん遠回りしま
したね。 (^^)
ののまる さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 23日 日曜日 23:50:42)
しんにゅう問題を引きずって恐縮ですが、
あれから書道字典等を良く調べると、2点しんにょうの例が、
智永の千字文と、顔真卿の「多宝塔碑」に集中して現れてます。
南堂さんの御覧になった千字文は、多分前者でしょう。
ただこれには、1点しんにょう、更にもっと「行書的」な無点しんにょうも現れます。
顔真卿の場合、2点しんにょうを採用したのは、書体の正俗を判別するための字書
「干禄字書」を編纂したのがおじの顔元孫だったことも関係しているのでしょうか。
で、その後楷書では1点が普通になるのですが、顔真卿の字をまねた明朝体では
彼の特徴の2点しんにょうを採用したのでしょう。
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 24日 月曜日 21:08:15)
「あし」
略字「芦」の正字は「蘆」だけど、「葦」だと混同している人か社も
ありそうな気がする。
「あしかり」は、辞書では「葦刈」が普通で、「蘆刈」が出ていること
もある。だが、ATOK、MS-IME98、VJE-Delta、いずれも「芦刈」だけで、
「葦刈」はない。不足。
そのくせ、「よし」は、辞書では「葦」が主で、「芦」はないのに、ATOK
では「芦」も入っている。余剰。
「よしず」はATOK,MS-IME98とも「葦簀」(だけ)だから、これはよろしい。
それにしてもIMEってのはまったくメチャクチャですね。
「蘆溝橋」はIMEでは出ないことが多い。世間ではさすがにこの用字だけ
のようで、「芦溝橋」は見かけない。でも、一部の人たち(特に名を秘す)は
「芦溝橋」って書いているのかもね。
韓国の大統領も「盧」大統領を、「戸」大統領と書いているのかも。
(この項、冒頭に記したホームページにも記述。)
ただねえ、略字の好きな人って、「ことば会議室」にはいくらかいそうなん
ですよね。とすると、「芦溝橋」や「戸」大統領と書いたりするのでしょうか。
で、私が「戸惑う」ことがあると、「盧惑う」なんて直されたりしてね。
(よく似た例は朝日新聞社の出版物にあり。冒頭のホームページを参照。)
ぜろ さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 25日 火曜日 9:44:44)
>漢字道樂さん
はじめまして。漢字、JISコードに関心を持ってるただの素人です。
「解説字体辞典普及版」は非常に面白い字典ですね。
とりわけ、「康熙字典」本文での字形が序では守られてないことの指摘に
はっとさせられました。
ののまる さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 25日 火曜日 11:07:55)
>漢字道樂さん
> 詳しくは「解説字体辞典普及版(江守賢治著、三省堂刊)」を参照してください。
> (この本は非常に興味深い記述があるのでぜひご一読をお勧めします)
この本ですよこの本!!この前書店で初めて手に取りましたが、
まさに「我が意を得たり」って内容でした。
研究上、中国の韻書・字書の類を見ることが多いのですが、
書体に関しては意外とアバウトなのです。
たとえば中古漢語の発音辞典『広韻』で「コウ・わたる(訓)」という字は、
正字の「亙」ではなく、我々が新字体と認識してる「亘」で出ている。
ただ、略字や異体字がいくら使われても、他の文字との混同をきたすような
字体の変異(略され方)をすることはほとんどありません。
特に混同される相手がよく使われる字ならばなおさら。
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 25日 火曜日 15:00:11)
「楷書」
読者の方々が間違うといけないので、話を蒸し返しますが、
楷書の成立年代は、後漢の末です。
415年というのは、現存する原本、という意味か何かででしょう。
原本はなくとも、それとは別に写本があります。
王羲之(307- 365)は、楷・行・草の三体を芸術的な書体に完成した、
とされています。これよりずっと前に楷書はできていたことになります。
ただし王羲之の原本は残っておらず、写本があるだけです。
p.s.
「羲」という字は、よくまあJISに入っている、と思ったが。……
ただ、あとで調べると、「王羲之」はすごい有名人。ブックシェルフ
で12件、大辞林では22件、ヒットします。
「goo で数調べ」ならぬ「辞書で数調べ」
ちなみにブックシェルフでは:
杜甫 29件
李白 29件
で、両雄譲らず。
その他は
始皇帝 40件
楊貴妃 16件
司馬遷 3件
こんなことして遊んでいると、日が暮れてしまいますね。 (^^);
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「朝日の略字」
朝日字体は全部略字かと思ったが、1週間ほど前の「折々の歌」
に「厳」でなく「嚴」を部首にもつ文字(正字)があった。
新たに出た分については、正字をいちいち勝手に書き替える
のをやめたのかもしれない。あるいは、文字を自己流に改造する
のを単に忘れただけで、「しまった!」と思っているのかも。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 25日 火曜日 15:29:18)
漢字道樂さん、
朝日新聞の混ぜがきは、当用漢字の前の常用漢字の時に遡るかと思います。手持ちの朝日新聞の昭和初年の抄出写真版を見ますと、「運ぱん中」「さい錢」などがありました。
『学研漢和大字典』の書籍版の刊行は1978年のことで、ここに楷書の2点しんにょうが載っているのですから、JISの影響ではないわけです。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 25日 火曜日 15:43:00)
南堂久史さん、
「盧」を「戸」と書くのがおかしい、という理由で「蘆」を「芦」と書くのはおかしい、とするのは如何なものでしょうか。
「阜」「邑」の部首に属する「阜」「邑」以外の文字の楷書は、「阜」「邑」とは違う形になっていますし、中国の簡体字でも、単独で使う場合と、文字の一部になる場合では形を違えていることがありますし。
ののまる さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 25日 火曜日 17:05:49)
> 読者の方々が間違うといけないので、話を蒸し返しますが、
>楷書の成立年代は、後漢の末です。
なるほど、「宣和書譜」に、漢の建初年間に王次仲という人が楷書を作ったという記述があります。
ただこの名前は隷書の始まりの伝説にも現れるし、文字制作の伝説はいくつもあるので、
この話自体信用できるものではありません。
確かに、隷書から楷書への過渡期の文字が、後漢の末頃から現れます。
それは隷書のような「うねり」がなく、文字自体も正方形に近いのですが、
楷書の特徴の「終画のとめ」がはっきりしないので、楷書とは言えないのです。
これは広い意味での「楷書の“発生”」とは言えるかもしれませんが、「成立」とは言えません。
「成立」は、やはり「終画のとめ」がはっきり現れるようになる、5世紀初め頃ではないでしょうか?
(先日の「六朝初期」を、このように訂正いたします)
それ以前の楷書の書き手としては、鍾ヨウと王羲之がいますが、
前者の書跡は偽筆の可能性が高く、後者も楷書で残っているのはあまり信用がおけないと言われています
(いずれも石刻の拓本)。
王羲之の比較的信頼のおける行書の中には、楷書っぽいものもありますので、
もしかすると楷書の成立は彼の時代(東晋中期、4世紀中頃)までさかのぼらせてもいいかもしれません。
ただ、彼の時代の石刻文字は、隷書とも楷書ともつかない四角い字のままなであり、
「楷書」という概念自体もあったかどうか。
『学研漢和大字典』の、字解のところの手書き文字は、2点しんにゅうですね。
これは何の影響なんでしょうか... やっぱり明朝体をまねしたのかなぁ...。
藤堂先生は一種独特な考え方の人だったとは聞いてますが...。
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 10:54:08)
岡島さんへ
> 「盧」を「戸」と書くのがおかしい、という理由で「蘆」を「芦」と
> 書くのはおかしい、とするのは如何なものでしょうか。
誤解があるようです。
「芦溝橋」がおかしいのであって、「あし」を「芦」と書くのは、別におかしくは
ありません。国語審議会の簡易慣用字体にも入っていますし、私としても、異論は
ありません。
一般的には、両者を区別した上で、あえて「芦」と書こうとして書くのなら、
何も問題はありません。
一方、この両者をまったく同一視して
「芦」があるから「蘆」なんてのはなくてもいい(使うな)
という意見が困るわけです。
もっとはっきりいえば、「鴎」などに行き着きます。
「こっちの略字を使え」「正字など要らない」
と言っている人がいっぱいいますよね。次期の新JISも、JCS案では、この
方針が踏襲されています。
「鴎」などの100字ぐらいだけは正字を取り込む予定だとか。
つまり、ほかの文字(百数十字)については、
「正字は要らない。正字は使うな」
ということのようです。
今回、私がこの会議室でテーマにしたのは、まさしくこのことです。
国語審議会で示された正字の大半は、新JISでは使えなくなる予定なのです
から。
ところが、世の中のほとんどの人は、
「新JISでは、いっぱい字が入る。ラララ……」
と喜んでいるばかりで、「正字が排除される」ことには、のほほんとしている
んですよね。
新JISでは、あらゆるコードポイントがすべて埋めつくされます。ゆえに、
今回排除された正字は、今後、永久に、JISでは使えなくなります。
つまり、略字主義者が天下を奪い、多くの正字が閉め出されされます。
(常用漢字に対応する旧字も、数百字が閉め出されされます。)
結局、JISによる古典の表示は、永久に無理となります。
私としては、もうちょっと、危機意識を持ってほしいですね。
みんなが黙っていれば、そうなるんですから。
※ 詳しい資料は、私のホームページを参照。
※ JCSの某氏の話では、「現代語だけが重要」「正字も古典もどうでも
いい」ということらしい……かもしれない。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「ののまる」さんへ
手書きでの省略体は、略字に関する話の対象外です。
国語審議会でも、手書きの文字については対象外だ、という旨を明示しています。
まだれのKOだろうと、簡体字だろうと、草体だろうと、崩し字だろうと、何でも
かまいません。個人的に手書きで使う限りは。
問題は、公的な場での、印刷物での表現です。
たとえていえば、おしゃべりで「だろー、だよなあ、だもんね」といっても
全然問題になりません。ただしNHKのニュースでそんなことを言われたら、
たまったもんじゃありません。
「総理大臣がさあ、だべってよお、うれぴーそうなツラしてたんだっちゅーの。
チョーむかつく。かましたろか」
なんてニュースは聞きたくありませんね。そういうことです。
岡島昭浩 さんからのコメント
(Date: 1999年 5月 26日 水曜日 12:10:20)
誤解と言えば誤解ですが、
「蘆」を「芦」と書く人は、「盧大愚」を「戸大愚」と書くだろう
とおっしゃっていると思いましたもので、それは別でしょう、と書いたものです。
ところで、「よし」で「芦」が出たら、なぜ、いけないのでしょうか。「よし」でも「あし」でも「蘆芦葦葭」が全部出る方が、私には望ましいことです。これはIME観のちがいでしょうか。
ぜろ さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 12:38:38)
漢籍が常に戦前の旧字を使っているかというとそうでもない時があって驚くと
きがあります。特に清朝の文献は古文字研究が盛んだったため、期せずして現
行の略字と一致したりしてます(略字に古字起源のものがあるため)
それを敢えて旧字に直すことはやり過ぎになってしまうことはありませんか?
何をもって正字とするか疑問にぶつかりますね。前に挙げた「康熙字典」でさ
え序で使用されている文字と本文で違いが有りますし。
漢字道樂 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 12:57:51)
岡島さん、貴重な情報のご教示頂き、ありがとうございます。
>朝日新聞の混ぜがきは、当用漢字の前の常用漢字の時に
>遡るかと思います。
>手持ちの朝日新聞の昭和初年の抄出写真版を見ますと、
>「運ぱん中」「さい錢」などがありました。
朝日が戦前からかな混ぜ書きを使用しているということは、
僕は初めて知りました。
現在忙しいのでちょっと確認している時間がないのですが、
戦前、多くの新聞は漢字にルビを振っていたはずですよね。
ひょっとすると、戦前の一時期に朝日はルビの活字システムを
どこかで廃止したのでしょうか?
>『学研漢和大字典』の書籍版の刊行は1978年のことで、
>ここに楷書の2点しんにょうが載っているのですから、
>JISの影響ではないわけです。
このことに関しては、学研漢和大字典』の書籍版、CD-ROM版共に
未見の状態で発言したもので、僕の確認不足でした。
ただ、学研が発行元になっているということは、
ののまるさんがおっしゃっているように藤堂明保さんが
監修していますね。
これは「解説字体辞典普及版(江守賢治著)」に載っている話
なのですが、「環」という字に関して、右下の「衣」に似た部分を
はねるか、はねないかに関して、江守氏のところに
「貴方の楷書の時点には「環」がはねたかたちで掲載されているが、
学研の漢和辞典にははねた形は旧字体とある。これは間違いではないのか」
という質問が来たので、三省堂の編集部を通じて藤堂氏に直接尋ねたところ、
「はねた形を旧字体と明示したのは誤りであった」
との回答が来たという話があります。
(これに関しては、戦前の明朝体でははねていたのを戦後の当用漢字体で
はねない形にしたということであって、楷書ではどちらでも構わない、
ということなのですが)
さて、ここで2点しんにょうと1点しんにょうの話に戻るのですが、
「解説字体辞典(江守賢治著)」にあるとおり、漢字には
[1]甲骨文字→隷書→楷書(手書き)
[2]甲骨文字→明朝体(干禄字書、康煕字典)
という2系統の流れがあって、これが混乱の元になっているのですが、
藤堂氏は甲骨文字を中心とした文字の専門家だったので、
[1]の系統の文字(楷書)に関する知識が少なく、そのために楷書の
例示字形まで明朝体に影響を受けた、誤った形の2点しんにょうと
なったのではないでしょうか。
「環」の話からは、そういったことが読み取れるのですが…
(この点ちょっと自信がないので、もし誤っていたらご教示ください)
あと、ののまるさんがおっしゃっているように、
顔真卿の字体はかなり[2]のほうに偏っており、
しんにょうの字形が2点しんにょうになっているのは当然なのです。
つまり、楷書の字形としては顔真卿を初めとした、[2]系統の字形に
影響を受けたものは当てにならないということなのです。
これは「解説字体辞典」に詳説されています。
智永の千字文も[2]系統の影響を受けているのではないでしょうか?
漢字道樂 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 13:36:24)
漢字の字体ではなく、JIS漢字の話題になるので、
別記事としました。
南堂さんへ>
JISが旧字体を排除するのは、おそらく一部の業者の利権が絡んでいる
ためではないか、と私は見ます。
下記の「ほら貝」のページを見ていただくとわかりますが、
JISの現在の漢字コードを批判されている加藤弘一さんのところに、
昨年このような卑劣な脅迫があったのです。
(これは、本来威力業務妨害で警察に訴えても構わない行為です)
ここでは(加藤氏の配慮によって)匿名になっているのですが、
私は実名でかかれている時点でこのページを見たので、
この人物を把握しています。
加藤氏を脅迫した人物は、JISの文字コードに関係する印刷業者で、
実際規格制定の協力者としてJIS X 0208:1997の規格書にも
名前が載っています。
また、この人物とは別の印刷業者も、コンピュータで扱う
漢字の増加に対し、批判にもならない低劣な論点すり替えで
批判しています。その人物もJIS漢字字典の出版関係者の1人です。
(それにしても彼らが自分たちの文書をPDFで配布しているのが
実に滑稽です。つまり、彼らは今のJIS規格では漢字が
十分表現できないことを自ら認めているわけですから)
今年発行された井上ひさし氏の「東京セブンローズ」は
全て旧字体で版が組まれていることからもわかるように、
現在でも旧字体に対するニーズは結構多いのですが、
彼らのような一部の印刷業者は、旧漢字を初めとした
ニーズのある漢字がJIS規格に取り込まれると困るのです。
なぜなら、それらの漢字を一般のコンピュータで扱えないように
することによって、追加料金を別途取ることができるからです。
(実際、その印刷業者のページには高価なJIS78・83切り替えソフト(業務用)
のPDFパンフレットがありました。要するにコンピュータの文字セットを
通常印刷で使用されているものと異なるものにすることによって、
莫大な利権が生まれるのです)
全ての印刷業者がそのような態度ではないのですが、こういった輩が
JIS規格制定に携わっているというのは、本当に情けない話です。
(だから、今回の新JISでも、国語審議会の審議結果を無視してまで、
JISの1983年の改悪で生み出された文字(例の「朝日文字」に準じたものは
「混乱が生じる」といってそのままにしておきながら、
実際にはほとんど需要がない「濾」の略字(?)の「さんずい+戸」
といった俗字を入れて、漢字を5000字増やしたというポーズを
取っているわけです。今度の拡張JISでは補助漢字同様に、
実際にはほとんど使わないような文字が多いようですが)
おまけ
そもそもJISの漢字規格を決めた人物は、当用漢字制定に携わった
人物だったので、規格制定時にできる限り旧字体を排除しようとしたようです。
(私の調べでは「包摂」されて使えない旧字体は約400字程度に過ぎない。
これらの文字を入れないことによって、新たな「利権」が生まれるのは
先に述べたとおり)
その割には、「包摂」してよさそうな旧字・新字が別字として
文字コード化されています。
・顔と顏
・殻と殻
・飲と飮
・煕と熙
こういった漢字に別コードを振るくらいなら、旧字体の全てに
別コードを振ったほうがよいのは明らかでしょう。
(ちなみに、これらの文字の旧字体のうち、ほとんどは
IMEでは出力できません。)
→ ほら貝
漢字道樂 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 13:47:49)
上記の記事の補足ですが、「熙」は常用漢字ではなく、
1990年に追加された人名用漢字です。
(JIS X 0208でも1990年に追加)
ただ、人名には「熙」は使用できるが「煕」とは
使用できない、といった妙なことになっているようです。
さて、ここでひとつ面白い現象があります。
実は、プリンタの内蔵フォントの多くはこの漢字追加に
対応していないのです。
そのため、このページをパソコン内蔵のTrueTypeフォントを使用せずに
印刷すると「熙」の部分が空白になってしまいます。
(JIS規格で正式に定められた文字であるにもかかわらず)
また、UNIX系のOSのフォントでFixed(JIS)を使用している場合にも
同様の現象が起きます。
それにしても、「鴎」と「區鳥」を同じ字といいながら
「煕」と「熙」を別字扱いするJIS規格って一体何なんでしょうね。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 14:10:55)
新聞の漢字まぜがきですが、『朝日新聞に見る日本の歩み』(昭和49.1.20発行)で見たものです。復刻に際して書き換えたのかもしれない、と思うかもしれませんが、「いう然」「いう揚」などというものもあります。
また「要撃」も使っています(浜口雄幸総理の)。「要撃」も以前からあるものですが、「邀撃」が普通ですね。
これは毎日新聞の『校正の研究』(昭和3)の「本社の漢字制限」でも「漢字制限に伴ふ新用語」としてあげられています。まぜがきは目立ちませんが、「とつ弁」というのがありました。
この本には、常用漢字を受けての新聞界の動きが書いてあります。総ルビからパラルビへの移行についても書いてあります。
朝日新聞の資料は知りませんが、この本によれば、
大阪毎日と大阪朝日が漢字について協議したりもしているようです。
漢字道樂 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 16:13:59)
岡島さんへ:
戦後、文部省の漢字制限政策に率先して追随したのは
日本新聞協会に加盟する新聞各紙だということはわかっていましたが、
戦前からそういったことが行われていたというのは初めて知りました。
この件に関しては、時間ができたらいろいろと確認してみたいと思います。
(私は漢字をむやみに使うのは好ましくないと思いますが、
漢字かな混ぜ書きは間違いだと思います。
難解な漢字にはルビを振ればすむのですから)
それと、自分の書き込みをもう一度読み返してみたら、
いくつか間違いがありましたので、訂正します。
誤:殻と殻→正:殻と殼
誤:貴方の楷書の時点→正:貴方の楷書の字典
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 17:48:15)
岡島さんへ
> 「よし」で「芦」が出たら、なぜ、いけないのでしょうか。
どうしてもいけない、というのではなく、好ましくない、ということです。
見解の差、ということもありますが。
なぜなら、国語辞典には掲載されていないから(主流の使い方ではないから)
です。
同様の例としては、「むすめ」で「女」という漢字を許容するか、という
問題があります。
もちろんこれは日本語の伝統的な書法であり、是が非でも排除するべきだ、
とはなりません。一定の許容範囲内にあります。
でも、普通の現代日本語の文書中で、「うちのむすめがね」を「うちの女
がね」と書かれることはあまり好ましくありません。「娘」が標準的であり、
こちらを使うべきです。
「白」も同様であり、平野啓一郎の用例があるからといって、特殊な文字
を日常的に使うことは好ましくありません。
これらの文字を「絶対に使ってはいけない」と言っているのではありません。
IMEというのは、あくまで日本語の標準的な用字を示せばいいのであって、
特殊な用字までも列挙するのは混乱を招きます。ユーザはIMEで現れれば、
それを標準的な用字と解釈するのが普通だからです。
「よし」を「芦」で書きたい、というのなら、それはその人の主義ですから、
干渉はできません。平野啓一郎氏が特殊な難解な文字を使っても、文句は言い
ません。しかし、だからといって、そういった特殊な用字をIMEにすべて
入れる、というのは、行き過ぎでしょう。特殊な用字をしたければ、IMEに
頼らず、自らの責任で、別の手段により出力するべきです。
何でもかんでもIMEに入れるとしたら、「まっぽ」で「警官」、「だち」
で「友達」、「はな」で「桜」が出る、ともなるでしょう。そういうIMEは
嫌いです。
でしゃばりでおせっかいなソフトよりは、節度あるソフトが好きです。
……ところで、以上のすべては、余談です。
私は「いっぱいあってはいけない」と言ったのではありません。
「あるときは不足、あるときは余剰で、IMEはメチャクチャだ」
と言ったのです。
IMEに期待するのは、国語辞典の用字をそのまま出してくれることです。
それぞれのIMEが、それぞれ自己流の用字をするのでは困ります。
p.s.
ATOKのキャンペーンで誤変換を例示して、自己の優越性を誇っている。
「入れ立てのお茶」「ベートーベンの大工」「濃い多き女」など。
あきれたもんだよね。ATOKの例で言うと:
「いれたてのおちゃがしぶい」をATOKで出してみてください。笑える。
一般に、普通使う日本語のレベルは、5万語ぐらい。ATOKはかなり少なくて、
3万語ぐらいしかないようだ。ちょっと難しい漢語は、たいていダメ。
例 「叡智」「疑懼」 (いずれもVJEでは出る。)
それでいて、くだらない略字はいっぱい入っている。「波涛」とか。また、
交ぜ書きの「おう歌」とか。(いずれも国語辞典になし。)
バランスが悪い。
p.s.
大統領の名は「泰愚」です。「大愚」ではあまりにもかわいそうです。 (^^);
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ぜろ さんへ
> 何をもって正字とするか
これも、国語辞典・漢和字典に従います。それだけのこと。
簡単に言えば、主流に従う、ということ。
もちろん、例外的な異体字もあるでしょうが、それらは異体字として採用すれば
よい。それだけのこと。
大昔にたまたま少しだけ今の略字と同じものがあった、としても、大勢には
影響しません。たとえば昔、「区鳥」と書いていた人が少しいたとしても、
あまり関係ありません。
現代の日本では、ほとんどの場合で「區鳥」と書かれている、ということが
大事なのです。
これがつまり、国語辞典・漢和字典に従う、ということです。
例外については、別途考慮すればいいのであって、例外を本筋に据えるのは
話が主客転倒です。
( なお、略字をすべて追放しろ、と言っているわけではありません。
「叛」など、古い用例がある略字は、ちゃんと生き残ります。
私のホームページの「資料」にも記してあるとおり。)
漢字道樂 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 26日 水曜日 21:53:21)
IMEがいい加減という話ですが、MS-IME(97以降)では面白い現象があります。
[1]「こうき」と入力して変換すると「康煕」になる。
[2]「こうきてい」と入力して変換すると「康熙帝」になる。
[3]「こうきじてん」と入力して変換すると「康熙字典」になる。
さて、先ほども書いたように、この字には
「煕(JIS-5F66番)」と「熙(JIS-7426番、1990年追加)」の2種があります。
これを上記のIMEにあてはめると、
[1]「こうき」では「煕(JIS-5F66番)」
[2]「こうきてい」では「熙(JIS-7426番)」
[3]「こうきじてん」では「熙(JIS-7426番)」
なかなか面白い結果です。
要するに、JISのコードの漢字の字形がいいかげんな形をしている
こと以上に、IMEはデタラメな漢字を出すのです。
これを直すには、やはりIMEの開発者がもっと漢字に詳しくなる必要が
あるのではないでしょうか。
また、私が持っているシャープの電子辞書では、
「けいどうみゃく」を引くと、「頚動脈」と出てきてしまいます。
正字の「頸」はJIS規格に収録されているにもかかわらずです。
要するに、こういったソフトの開発者の漢字知識の乏しさが
JISの1983年改悪を許すような結果になったのではないでしょうか。
※何気なく「JISの1983年改悪」という言葉を使ってしまいましたが、
おそらくコンピュータの文字コード問題をご存知ない方も
いらっしゃるでしょうから、そういった方は先ほども引用しましたが、
文芸評論家の加藤弘一さんが主宰するHP「ほら貝」を参照してください。
JIS規格の1983年改悪に関しては、続・漢字編
(http://www.horagai.com/www/moji/code3.htm)
に詳しく載っています。
→ 「ほら貝」―文字コード問題を考える
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 29日 土曜日 10:18:04)
【 カナ交ぜ書き 】
カナ交ぜ書きですが、昔は、ひらがなでなくカタカナを使っていたと
思うのです。たとえば、
彼のけい眼は → 彼のケイ眼は
彼ががい骨を → 彼がガイ骨を
後者ならあまり奇妙には思えないので、許容範囲だと感じます。
昭和五十年ぐらいまでは、カタカナを使うのが普通だったと思います。
それがいつからか、ひらがなになってしまった。
詳しいことは調べたわけではないのでわかりませんが、どなたか、
ご教示いただけますか?
山科 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 29日 土曜日 10:45:39)
はじめまして。
ペンネーム山科です。
プロ(この手の知識・経験でお金を稼いでいる人)じゃありませんが、、
平凡なプロよりは少しましだと思ってます。Ref.はできるだけつけましたので
裏は簡単にとれるはずです。
楷書の起源について、
1982年安徽省で、呉の将軍「朱然」(A.D.182-249)の墓が発掘されました。
そこからでた、朱然の木簡型の名刺 に書いてある文字は
確かな楷書です。
したがって、楷書の起源は後漢末ということになります。
それ以前では年記のある確かな最古の楷書は東京台東区書道博物館蔵
の持世経跋断片 (AD 449)でした。
オーレル・スタインがニヤから発掘した手紙ケースの上書き
に楷書「[善邑]善王にたまう」という題記があり、近年再研究されて
まして、AD269ごろの楷書だという結論が同じところから
出土した紀年木簡から推定されました。そのあと、上記呉の
楷書が出土し、さらに楷書成立年代をおしあげました。
ref. 西林昭一, 書の文化史, 上, 1991
ref. 西林昭一, 書の文化史, 中, 1997
ref. 伏見冲敬, 書の歴史 中国篇, 23版, 1982(初版は1960)
古代のしんにょうについて。
王羲之が蘭亭序で
「之の字をさまざまに変化させて書いた」という
ことでも賞賛されたように、書の美は正字意識とは正反対の方向にあるのです。
変化させたりしたら、現代の先生たちに王羲之は落第させられるでしょう。
干禄字書が科挙の試験にうかるためにものであるように、正字は試験を
するほうがきめるものでしょう。
あるサイトでは王朝を創始して欽定フォントをつくると良い、
という冗談をききましたが、正字の本質にせまるジョークでしょう。
智永の千字文 の現在残っているもっとも古い墨跡は京都にあります。
3度実見したことがありますが、真跡である可能性が高いようです。
精密な複製でみると、点なし、1点、2点、3点とぜんぶあります。
これも「変化を求めた」ものでしょう。「逍遙」という句では
逍は2点、遙は3点です。2つの字体が隣あっているわけです。
ref. 国宝真草千字文, 京都, 便利堂,1979
石碑や墓誌銘(大きな石板)に彫る文字は当時の
能書が書いたのでしょうから、筆写体というより銘石の書というべき
きどったもので、わざと古風なスタイルをとることもあります。
漢から唐までの
2000種ぐらいの石碑や墓誌銘(大きな石板)から、文字の異体を
集めた本には
秦公, 碑別字新編, 北京,1985 というのがあります。
これでみると1点が多いようですが、2点。点無しもあります。
でも、それ以上に異体字の多さすざましさに唖然とします。
印刷本の書体でいうと、
南宋の印刷本では1点が多いようで、明にはいると突然
2点が出現する感じがします。
ref. 国立故宮博物院, 沈氏研易楼善本図録, 台北, 1986
日本の例で、ちょっと苦しくなるのは、
日本では、中世以来習字はまず行書から習いました。
公文書も契約書も手紙も行書だったわけで、楷書は写経のときや
特殊な用途にしか使わなかったわけです。
したがって、楷書の例は写経をみるほかないのですが、、
ちょっとこれは調査がいきとどかないのでパスします。
ちらとみたかぎりでは1点2点両方あるようです。
ちなみに弘仁7年の興福寺南円堂燈台銘は1点
神護寺鐘銘は2点です。江戸末期のベストセラー
「服部南郭、唐詩選国字解」という講義録
では律儀に2点ですが、これは明朝体印刷本の影響かしらん。
ref. 書藝文化院、書道名品体系、12、日本金石文集、1956
ののまる さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 29日 土曜日 14:41:42)
>山科さん
ありがとうございます。
呉の時代の楷書があるのですか。
西林先生や伏見先生の本はフォローしてたつもりだったのですが、見落としでした。
これから確認してみます。
前言は撤回せねばなりますまい。
> あるサイトでは王朝を創始して欽定フォントをつくると良い、
> という冗談をききましたが、正字の本質にせまるジョークでしょう。
わっはっは。こういうことは是非38度線の向こう側にやってもらいましょう。
#漢字を廃止してるけど。
中国の簡体字政策も本質は同じですし。
智永千字文は、もとは800本もあったせいか、真跡がいくつかのこっており、
そのうち谷氏本というのが日本にあります。
私が本で見たのは石刻本ですが、1点も2点もありました。
無点のしんにょうもあったような。
江戸時代の楷書は、印刷物を除けば写経と石刻や銘文、
あと儒者の著書で、楷書カナ交じりの手書きを見たことがあります。
手書きは御家流ですからね。
これからもいろいろご教示下さい。
南堂久史 さんからのコメント
( Date: 1999年 5月 30日 日曜日 10:07:24)
【 山科 さんへ 】
メールでご教示をお願いしたところ、さっそく書き込みをしてくださり、
ありがとうございました。他の人も喜んでいるようで、インターネットを
検索した甲斐がありました。
こうして未知の方のご教示をいただけるというのも、インターネットの
威力ですね。
私としても、生半可な知識を出して恥をかくこともなく済み、 (^^);
また、専門家のご意見を聞くごとができて、とても有益でした。
なお、私が検索した山科さんのページは、下記の通り。
とてもすばらしいページ(王羲之 関連)です。みなさんもぜひご覧を。
http://www.netlaputa.ne.jp/~aasianet/tw_other.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【 しんにょう 続き 】
さて。
ちょっとまだ残る問題があるので、質問ふうに。
学研漢和大字典では、2点しんにょうですが、これは、次のことが理由
であると私は推定します。いかがでしょうか?
(1)
字形変化の流れとして
2点 → 1点
という流れがあったので、起源を記すときは、最初の方を記した。
1点 → 2点
という流れがあったとは思えない。
(なぜなら、簡略化はされて画数が減ることはあっても、逆に、複雑化
して画数が増えることがあるとは思えないから。)
(2)
しんにょうの篆書体は、「従」という字に似た字形をしていますが、
これの字形は、上半分が「〃」というような形をしています。
これは2画。だから、この2画が、しんにょうの2点になった。
ゆえに、初期の楷書体では、2点しんにょうだった。……と推定され
ます。
さて、以上は、素人の推理ですが、いかが?
山科 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 01日 火曜日 10:37:07)
漢字の字体が簡略になっていく方向へ変化したとは限りません。
例えば、顔真卿の「明」字のヘンは篆書の字形を取り入れて王羲之、欧陽詢より
複雑になっています。顔真卿のの正字意識は当時伝わっていたかなり歪曲された篆書を
正字として楷書の書体をその篆書に近づけようとするかなり無理な試みです。
このように、その時代に「古代の正統」と思われた字体を復興したり、
それをもとにして、「その時点で立派だと思われる」字体を作ってしまう
ことがあります。
てもとに、明後期 萬暦年間の印刷本の複製「李孝美墨譜」がありますが、
これには、明朝体の部分と写刻(書いた書をそのまま刻したもの)
部分が混じっています。明朝体部分は2点しんにょう、写刻部分は
どんなに謹直な楷書でも1点です。
古い時代は中国日本とも印刷体を正字・書の模範として
学ぶということはなかったのですが、
明治以後 伝統的慣習にたいして無学な官僚が、それをやりだした
ようで、大正昭和初期に天来が雑誌で嘆いています。
現代では正しい書体というと字書をみる場合が、残念ながら多いのですから、
字書に書写体をつけるのがいいのではないかとおもいます。
康煕字典の書体は当時でも書写体ではなかったはずです。
確かに繁体の基準としては便利なものではあります。
もうひとつ考えると、
南宋の印刷体をベースにして、印刷体を再構成するといいかもしれません。
こちらがより書写体に近いので。
宋の印刷体はどんな保守的な学者でも賞賛するでしょうから。
漢字書体の発達系統について、、
>「解説字体辞典(江守賢治著)」にあるとおり、漢字には
[1]甲骨文字→隷書→楷書(手書き)
[2]甲骨文字→明朝体(干禄字書、康煕字典)
>という2系統の流れがあって、これが混乱の元になっているのですが、
この図式は少々簡略化しすぎのようです。
現代の楷書につながる部分だけを古代から唐までみると
秦の隷書→漢の隷書→漢の行書→楷書(手書き)→欧陽淳の単純化された楷書
秦の隷書→漢の隷書→漢の行書→さまざまな楷書と装飾的隷書(手書き)、大字用の
装飾楷書→顔氏による復古的楷書←小篆書を加味する。
楷書は隷書の直接の子孫ではなく、漢の行書の子孫ですし、行書も後漢の美しい
八分体の洗練された隷書がくずれたものと、前漢以前からあった行書(古い隷書が
崩れたもの)、楷書を速書きしたもの混合です。
ののまる さんからのコメント
(Date: 1999年 6月 01日 火曜日 13:58:05)
> 南宋の印刷体をベースにして、印刷体を再構成するといいかもしれません。
> こちらがより書写体に近いので。
> 宋の印刷体はどんな保守的な学者でも賞賛するでしょうから。
いいですね、これ。
私は残念ながらフォントデザイナーではないのですが、誰かに是非やってほしいです。
宋版のすっきりした印刷書体はたくさん資料が残ってるはずですし。
ただ、書写体をそのままフォントにすると、「土の吉」とか「梯子の高」とか「立の崎」とかが、
「吉」「高」「崎」のところにそのまま出てくるので、
そういうのを別字として用意してほしい方々が文句を付けるかもしれませんが(^^;)。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 01日 火曜日 16:49:57)
本筋とは違う、混ぜ書きに関することです。調べたわけではありませんが、たまたま次のものが目につきました。
白水社編『ふりがな廃止論とその批判』(昭和13.12.22)所収の、「国語・国字についての座談会」(阿部知二・岡崎常太郎・山本有三、『読売新聞』昭和13.6.1-4)の中で、山本氏曰く、
前には「報知」や「朝日」なども、漢字制限をやってゐたが、今では無制限になってしまった。
いつごろかわったのでしょうか。
山科 玲児 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 09日 水曜日 13:01:44)
>漢字書体の発達系統について、、
..cut..
>楷書は隷書の直接の子孫ではなく、漢の行書の子孫ですし、行書も後漢の美しい
>八分体の洗練された隷書がくずれたものと、前漢以前からあった行書(古い隷書が
>崩れたもの)、楷書を速書きしたもの混合です。
すみません。ここにはちょっと、誤りがありました。
現代の行書には
前漢以前からあった行書(古い隷書が
崩れたもの)の要素はまずないようです。
むしろ、草書のほうにこのようなおそろしく古い字形
さらにもっと古い字形
が残存していて、草書を憶えるのは、丸暗記のような
無理をしなければならないことになってます。
山科 玲児 takaki@cac.co.jp
玲児のテイストシリーズ (主に中国美術・文化)
http://www.isize.com/column/
「学び」チャンネル 10,140,234(中国書道珍品集),269,301(中国only),354,467(日本美術),512
漢字道樂 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 15日 火曜日 13:17:47)
解説字体辞典(江守賢治著、三省堂刊)の漢字の字体の流れを
引用した件に関し、多少説明不足で誤解を招く点があったので、
もう一度江守氏の説を詳しく書きます。(解説字体辞典p.24の図より)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
(1)漢字の流れには2つの流れがある。
[A]楷書(書写体・筆写体)
篆書→古隷・八分→章草・木簡の字→楷・行・草→王羲之→初唐の三大家
[B]字典体・活字体
篆書→説文――→干禄辞書―――(宋版・元版)――――→康煕字典
(2)顔真卿は[B]系統の文字に関心があったので、顔真卿の書は
かなり[B]系統の文字の影響を受けている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
というのが江守氏の説です。
山科 玲児 さんからのコメント
( Date: 1999年 6月 21日 月曜日 12:59:00)
解説字体辞典(江守賢治著、三省堂刊)の漢字の字体の流れ
って ほとんど トンデモ ですね。
たぶん、もっと詳しい解説がついているのでしょう。
説文の篆書からいきなり――→干禄辞書(これは正・俗・通の
字体を解説して、官吏の給与をゲットしようという
ハウツーものです。)になるとはすごいなあ。
顔元孫 のこの本は初唐までのさまざま
な楷書を整理するのに、説文 の小篆 を 基準にしようとした試みだとおもってましたが、、
それに 宋版の字体っていろいろですけど、欧陽じゅん風が多く
・元版は松雪体 とされた王ぎ之風で、顔体とはますます関係
がない。
漢字道樂 さんからのコメント
( Date: 1999年 7月 06日 火曜日 16:01:12)
上記のコメントを読む限りでは、山科さんは「解説字体辞典」を
まだご覧になっていないようですね。
僕はあまり書道に関する知識がないので、自分が「解説字体辞典」から
引用した部分のどこがどうトンデモなのかが皆目見当がつきませんが、
山科さんのように詳しい知識を持った方からの問題点の指摘があると、
多くの方は納得できるのではないでしょうか。
「解説字体辞典」をご一読された上での問題点の指摘をお待ちしています。
→ 解説字体辞典(江守賢治著)
山科 玲児 さんからのコメント
( Date: 1999年 7月 12日 月曜日 11:30:36)
貴方が提示されたURLを読みました。
並びに東京神田三省堂で、江守さんの著書をチェックしました。
江守さんの見解は、おそらく、、
書写体とほとんどの印刷体は宋時代以前から分かれている。
したがって印刷体を書写体の標準にしてはならない。宋以降
蓄積された法帖・真跡による書写体を研究して、標準とすべき
である。
ということではないか、と愚考しております。
この意見には、賛成です。彫るために便利なように構成された印刷体
を書写の標準にするのは無茶です。現在ではフォントは彫っているわけでは
ないのですから、なおさらです。印刷体を逆に書写体に近づけるべきでしょう。
ただし、
甲骨文字ー>説文解字ー>干禄辞書 という系譜はむちゃです。
説文の篆書を実際にみられることをお勧めします。
直接に楷書を導き出すことが無理であることがわかるでしょう。
これは、干禄辞書の著者、顔元孫、さらに親戚の顔眞卿 が
隋唐 の多彩な楷書字体を整理するために、説文の篆書を参考
にして、正字をでっちあげただけです。根幹は楷書です。
説文の篆書は2次的な役目しかしていません。
楷書といっても、東魏北斉の大字楷書、たとえば文殊はんにゃ経とかいうような山東省
の地方書風がベースになっていると、考えています。
ただ、この書風が、そのまま明朝体につながるのかどうか、
調べるとますます疑問に思ってきました。明代後期に
彫るときもっとも楽できる書体を
さがしていたら、偶然そうなった、、というようないい加減
なことではないか、、という気もします。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 11月 04日 木曜日 15:25:01)
コピーの山の中から、久しぶりに広島大学1961.5.5の『干禄字書』校勘本が出てきました。どうも一部抜けているみたいですが。
それによりますと、しんにょうを2点にしているのは「景明刻本夷門広牘所収本」「宝永4年板本」、1点なのは「後知不足斎叢書所収本」(光緒八年)「文化十四年板本」であるようです(おおむね)。