1999年09月27日

はたして、、(きっす)


言葉のなかで、「はたして○○○なのだろうか」と疑問形に使われるのを
耳にしますが、本当にその使い方だけなのでしょうか。
「はたして○○○であった」と言う言い方には使わないのでしょうか。
「はたして」は「果して」ですよね。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 1999年 9月 28日 火曜日 0:14:03)


「果たして〜だろうか」という言い方はありまして、むしろそちらの
ほうが歴史が古いようです。
それから、「もし果たして〜ならば」という仮定の言い方も。
いずれも、漢文訓読によって伝えられた語法であるようです。

ところが現代の例を見ますと、「果たして〜だろうか」と疑問を表す
例が他の例を制圧しているようで、ちょっと驚きます。

近代の例としては:
 A 果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。(中島敦「山月記」)
 B 自分はこの時始めてちょぅこくと派そんなものかと思い出した。
  果してそうならだれにでも出来る事だと思い出した。
                    (夏目漱石「夢十夜」)



Yeemar さんからのコメント

( Date: 1999年 9月 28日 火曜日 0:21:11)


上記のコメント、意味不明です。すみません。
訂正します。
--

「果たして〜であった」という言い方はありまして、むしろそちらの
用法のほうが歴史が古いようです。
それから、「もし果たして〜ならば」という仮定の言い方も。
いずれも、漢文訓読によって伝えられた語法であるようです。

ところが現代の例を見ますと、「果たして〜だろうか」と疑問を表す
例が他の例を制圧しているようで、ちょっと驚きます。

近代の例としては:
 A 果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。(中島敦「山月記」)
 B 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。
  果してそうならだれにでも出来る事だと思い出した。
                    (夏目漱石「夢十夜」)



ケンタ さんからのコメント

( Date: 1999年 9月 28日 火曜日 8:29:46)


「はて?そして?」〜
と言う意味にもとれそうですが、いかがでしょうか?
よく、推理的な内容で結果を言わずに、ご想像におまかせします〜、などの時
に使われることから、オチに使う流行言葉だったんじゃないかと思います。



森川知史 さんからのコメント

( Date: 1999年 9月 29日 水曜日 7:58:40)


「はたして○○○であった」と言う言い方は使わないのか?との問題提起ですが、無論使いますよね。それも、現在でもごく一般的に使われるのではないでしょうか?「はたして思った通りだったよ」などと、私(47歳)などは当たり前に使っていますが、きっすさんが問題提起されたところを見ると、少なくともきっすさんは、日常的に使わないということのようですね。私は気付いていませんでしたが、「はたして」の肯定的使用に世代差が見られるのではないでしょうか?
それから、同様の例に、「いったい」があるように思いますがどうでしょうか?「一体どうしたんだ?」のような疑問文での使用以外に、「わしは一体豆腐が大好きぢゃ」(浮世風呂)のような肯定的使用が元来はある訳ですが、これが次第に使われなくなって来た経緯があると思うのです。



岡島昭浩 さんからのコメント

( Date: 1999年 9月 29日 水曜日 16:05:51)


38の私は、「はたして○○○であった」は、とても気取った言い方であると認識していました。「はたして○○○なのだろうか」も気取ってはいますが、それ以上に気取りを感じるのです。
「はたして○○○なのだろうか」は耳で覚えたのに、「はたして○○○であった」は文字で覚えた、ということがあるのでそうなっているのだと思います。



ケンタ さんからのコメント

( Date: 1999年 9月 29日 水曜日 18:29:23)


私もきっすさんと、同じく「はたして◯◯だった」は耳にしたことがありません。
「えてして◯◯だった」とは、またちがうのでしょうか?
肯定的な文と疑問文では「はたして」の役割(意味)がちがっているのかな?
肯定的な文の意味が私には、ピンと来ません…



岡島昭浩 さんからのコメント

( Date: 1999年 9月 29日 水曜日 18:51:46)


疑問の形でもそうでない文でも、予測しておいて「その結果」「実際には」というような意味になる、と纏めることが出来ると思いますが。

ちょっと話しが逸れますが、「その結果」と(私なら)いうところを、ただ「結果」とだけいうことがありますが、これを聴く頻度が、このところ増えた気がします。

きっすさんの感覚はどうなのでしょう。「はたして◯◯だった」を自分は使いそうなのだが、あまり使われていないようだ、という意味でしょうか。



きっす さんからのコメント

( Date: 1999年 9月 30日 木曜日 15:12:14)


>「はたして◯◯だった」を自分は使いそうなのだが、あまり使われていないよう
>だ、という意味でしょうか。

まさにその通りです。まわりに使っている人が居ないので、ふと、聞いてみたくなったのです。こんなにもいろいろな方の意見うかがえて、うれしい限りです。



森川知史 さんからのコメント

( Date: 1999年 10月 02日 土曜日 9:04:25)


ケンタさんのコメント、

>私もきっすさんと、同じく「はたして◯◯だった」は耳にしたことがありま>せん。「えてして◯◯だった」とは、またちがうのでしょうか?

には、驚きました。「いろいろ試みたんだけど、はたして巧く行かなかったよ」などという言い方を日常的に使っている私としては、「耳にしたことがない」と言われると、「どうして?」というのが率直な印象です。
「えてして」と「はたして」は、全く意味・用法が異なります。
「得てして」は、「ややもすると」と同義ですから、「果たして」の「案の定」「思った通りに」の意味合いとは全く別物と言わねばなりません。
「はたして」の肯定的用法を日常的に用いていた私自身は、全く気付かなかったのですが、これは「死語の世界」へ殆ど入りかけてしまっているのでしょうか?
だとすると、先に書いた「いったい」の肯定的用法(私は、いったい気の小さい方なのだ)などは、若い世代の皆さんには「死語」どころではなく、そんな用法があったこと自体、認識されていない、ということでしょうか?



ケンタ さんからのコメント

( Date: 1999年 10月 04日 月曜日 9:34:17)


きっすさん、大変失礼しました。私の常識と同じなのかと勘違いしていました。
岡島さん、森川さんのご指摘がなかったら自分の非常識に気が付きませんでした。
ありがとうございます。

「はたして思った通りだったよ」「わしは一体豆腐が大好きぢゃ」などの
使い方を私自身、耳にした覚えはありませんが、たぶん耳にした時にちょっとした
ことばの早とちりなんだと決め付けて気にしないでいたのかもしれません。
無知なことは失礼になるんだと勉強しました。

私自身ビックリしています、私の常識では、小さかったころに
紙芝居で必ず演者が最後に「はたして◯◯君の運命やいかに?」
と言って演者が自転車に乗って去っていく…
そのあたりから「はたして」の使い方を覚えたのだと思います。
決して若い世代ではないと思いますが(一層にはずかしい)。



きき さんからのコメント

( Date: 1999年 10月 04日 月曜日 19:04:43)


「はたして」も「いったい」も、後ろに肯定の表現が続くのは、小説とか小難しい文章だけだと思っていました。
日常の会話の中では、出てきません。少なくとも私の生活の中では。

ここでふと思ったのですが、「はたして〜だろうか?」も、日常会話のなかではそんなに出てこないような気がしますね。
格式めいているような、またはそれをねらって意識的に使っているような、そんなイメージです。
岡島昭浩さんが、気取った表現と認識されていたのと、感覚は同じではないかとおもいます。



小矢野哲夫 さんからのコメント

( Date: 1999年 10月 04日 月曜日 21:01:34)


「はたして○○○であった」は、岡島さんがおっしゃるように「気取った言い方」、ききさんの「格式めいているような、またはそれをねらって意識的に使っているような、そんなイメージ」だと思います。ということは発話場面がフォーマルであるということになるのではないでしょうか。授業では「はたしてこのような見方は妥当なんでしょうか。それを検証する方法としてどんなことが考えられるでしょうか」などと言っているように思います。(小矢野:50歳)
「はたして○○であった」というのも、日常的ではありませんが、いくぶん気取って使うことはありそうです(最近使った記憶はないのですが)。
情報源はケンタさんのおっしゃるように、
>紙芝居で必ず演者が最後に「はたして◯◯君の運命やいかに?」
>と言って演者が自転車に乗って去っていく…
こういう言い方って記憶の片隅にありますね。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 1999年 10月 05日 火曜日 0:01:19)


一体に」は丸谷才一氏の口癖のようです。

語りおろしの近著『思考のレッスン』(文藝春秋、1999.09.30)には

一体に大岡〔昇平〕さんの書くものには、言論によって戦う人を主人公
にするという、そういう姿勢があるんですね。        (p.35)

一体に大野〔晋〕さんの挙げるタミル語の語感は、現代日本語ではなく、
日本の古語と実によく対応している。            (p.37)

僕は一体にね、日本の昭和時代の思想というものは、マルクシズムに振
り回されすぎてきたという気がするんです。         (p.46)

一体に昭和時代の日本人は、マルクシズムを重視しすぎて、そのために
大きな損失を被ったんじゃないかなあ。           (p.46)

それに山崎〔正和〕さんは一体にガラがいいですよ。道学的な言説をふ
りまわさないでしょう。                  (p.98)

一体に山崎〔正和〕さんが「論壇時評」を書き、池澤夏樹さんが「文芸
時評」を書いたあの二年間、時評が二つそろってあんなに立派だったの
は、朝日新聞百年の歴史で初めてのことじゃないかなあ(笑)。
                            (p.115)

一体にマクルーハンは奇抜な趣向が好きでしてね、『ジョイス・マラル
メ・新聞』という題のジョイス論も書いている。      (p.117)

一体に日本人の文章は、「そして」とか、「それなのに」とか、「運悪
く」とか、そういうのを文章の初めにみんなつけるでしょう。(p.248)

一体に、関係詞の多いゴタゴタした文章は、変にがんばって、不必要に
力が入ってるときに書かれるようですね。         (p.255)

一体に、考える時間が短いから、書く時間が長くなるんです。(p.277)


と、ぞろぞろ出てきます。「一体〜だ」を使わない人もいるいっぽうで、
この多さですから、やはり口癖というべきでしょう。「むやみに」なども
多いような印象を受けます。


posted by 岡島昭浩 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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