「『退屈』を『怠屈』って書いてしまうことって、ありますよね」
「さあ、私はありませんけど」
「僕もないなあ」
「あれっ、僕だけかなあ」
「じゃないですか」
というやりとりが某所であり、調べてみました。
とりあえず『日本国語大辞典』に「春色梅美婦禰」の例が載ってい
ます。
*人情本・春色梅美婦禰-初・二回「人情本の大古板を詮方なしに
繰返し、怠屈してぞ居たりける」
岩波文庫『梅暦(下)』でも同様。板本は未確認です。『日本国語
大辞典』のソースが岩波文庫本のおそれあるか。出典一覧では分か
りません。
インターネットでみると
〔……〕あるいは精力をもて余まし、余暇に怠屈した人間たちが
「最後の耐久消費財」である子供たちを無制限に増加させること
によって気をまぎらわせようとすることから〔……〕
という「潮」1967年2月号(香山健一)の本文が検索される。これは
もとの誌面でも「怠屈」となっているのを確認。
ほかのサイトでは
起きて甲板に出る。気分がよい。風も無ければ彼〔?〕もない。
船員は皆大屈さうに遊んで居る。何時の出帆 かと聞くと、今日は
潮が無くて炭が積めぬと云ふ。
(石川啄木「明治四十一年日誌」・四月四日)
の例も。
杉本つとむ編『あて字用例辞典』(雄山閣)は近代以降の例です
が
堀村は体屈して、「馬鹿を言てるな」といふやうな貌をして
(坪内逍遥「此処やかしこ」明治20年)
永き航海中は無聊にて
(矢野龍渓「浮城物語」明治23年)
の例。
講談社+α文庫『辞書にない「あて字」の辞典』には「大儀」の
あて字として
何時もの冷水摩擦が退儀な位身体が倦怠くなってきた
(夏目漱石「道草」)
ランプを點〔とも〕すのも怠儀だ
(近松秋江「疑惑」)
の例を載す。「退−怠−大」が交替しているのは「退屈」と似て
はいます。
中世の上杉家文書之一 四三三号(大日本古文書)上杉玄清起請
文には
連々世上大くつ、安閑無事ニ残世過し度計候
とある。
「日本古典文学大系」の中世作品の漢字表記は専ら「退屈」。近
世はざっと見ただけですが、「浮世風呂」に「對屈」。
近松・西鶴は「たいくつ」、漱石・鴎外・芥川・太宰・志賀直哉
は「退屈」。
というわけで、どうも「怠屈」があまり出てきません。やはり、
「怠屈」なんてだれも書かないのでしょうか。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 10月 12日 火曜日 13:24:16)
手元のデータでは中村吉蔵・正宗白鳥・里美とん、というところが使っているようです。作品名まで調べるのはちと面倒ですが。
それから、浅野敏彦氏の著書の索引に「対屈」があり、酩酊気質・古契三娼の例が挙がっています。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1999年 10月 12日 火曜日 16:15:24)
さっそくのご教示、ありがとうございます。
作者名の手がかりだけでもあれば、調べて行けそうです。著しく多作の
作家というわけではありませんし――。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 10月 12日 火曜日 18:20:01)
中村吉蔵「剃刀」、正宗白鳥「泥人形」「六十の手習い」・里美とん「極楽とんぼ」であると思います。
違っていてもお許しを。また誤認識でないことを祈ります。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1999年 10月 14日 木曜日 14:11:19)
「怠屈」の用例、図書館にある本で確認しました。
重複して申しわけありませんが、確認した結果ということで、現時点での用例のまとめです。
●為永春水「春色梅美婦禰」(天保12年・板本)初編第二回
仮住居〔かりずまゐ〕と定〔さだ〕められたる別間〔はなれざしき〕に独〔ひと〕りくよ/\寐轉〔ねころ〕びて人情本〔にんじやうもの〕の大古板〔ふるぼん〕を詮方〔しやうこと〕なしに繰返〔くりかへ〕し怠屈〔たいくつ〕してぞ居〔ゐ〕たりける
(〔 〕内のカナはフリガナ)
●中村吉蔵の戯曲「剃刀」は初演大正3年10月。『新社会劇 飯・剃刀・嘲笑 外二篇』(南北社、大正4年4月)ほか2バージョンを参看したところ、「御退屈様」など「退屈」は短い作品中数カ所ありましたが、いずれも「退」の字で「怠」は見当たりませんでした(本によってはあるのかと思います)。
●正宗白鳥「泥人形」(明治44年7月)
煙草を吸ひながら、其處等に漂ふ芝居らしい匂ひを嗅いで、怠屈な時間を過ごしてゐた。(『正宗白鳥全集』3 福武書店 1983年8月 p.41)
●正宗白鳥「六十の手習ひ」(昭和5年6月)
所詮私の佛蘭西語修業は、他の若い人々の酒場通ひやダンス場通ひと同樣の、旅の憂さシらしか、怠屈さましに過ぎなかつた。水の泡見たいな修業であつた。(『正宗白鳥全集』13 福武書店 1985年10月 p.72)
●里見{弓+享}「極楽とんぼ」(昭和36年1月)
〔……〕今や同業者間に重きを成しつゝある謙一にしても、この將來〔さき〕どんな變轉に遭遇しないものでもあるまい。……少々御怠屈でも、われらの主人公の先途、末永くお見屆け願ひたい。(『日本現代文學全集50 里見{弓+享}・長與善囂W』講談社 昭和38年9月 p.158)
岩波文庫版では「御退屈」でした。
●香山健一「二十一世紀の設計」(『潮』昭和42年2月)
巨大な生産余力を「超人的〔スーパー〕消費者」をつくることや、核戦争で浪費することや、あるいは精力をもて余まし、余暇に怠屈した人間たちが「最後の耐久消費財」である子供たちを無制限に増加させることによって気をまぎらわせようとすることから結果するかも知れない〔……〕
*その他の用字若干
▲坪内逍遥「此処やかしこ」(明治20年)第二篇第二回
堀村は体屈〔たいくつ〕して「馬鹿を言てるな」といふやうな貌して只さへ長い奴が手を延して思ひ切り長く欠伸〔あくびのび〕をする(早稲田大学国文学会 昭和31年11月 p.79)
『あて字用例辞典』も上記の本から引用したものだが間違つてゐる。上記が正しい。
▲石川啄木「明治四十一年日誌」(四月四日)
起きて甲板に出る。気分がよい。風も無ければ波もない。
船員は皆大屈さうに遊んで居る。何時の出帆かと聞くと、今日は潮が無くて炭が積めぬと云ふ。(『啄木全集』5 筑摩書房 1967 p.243)
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 10月 14日 木曜日 23:47:56)
私の中村吉蔵は筑摩の『現代日本文学大系』(昭和四十年代に出た二段組みで新字旧仮名のやつ)です。『現代名作集』に入っていたと思います。底本が何かは書いていなかったと思います。
うかんるり さんからのコメント
( Date: 1999年 10月 15日 金曜日 19:26:18)
今はタマウと読むのが普通だったとは、どうもよく現状を把握していなかったようで申しわけありません。それも幕末から退化するようなかたちでタマウになったとは、退化的進化?とでもいっていいんでしょうか。それから関西弁とはあまり関係なかったみたいですね。何にせよ他の活用に引かれたというお考えは参考にさせていただきます。ありがとうございました。
うかんるり さんからのコメント
( Date: 1999年 10月 15日 金曜日 19:49:21)
↑すみません、間違えてしまいました。おわびに私の感想もひとつ。
どうも退屈という漢字は、使用者のセンスを反映するための道具として使われやすいもののように感じます。・・・例を挙げられないから後が続きませんが、現代でも交替か交代かとか注意されるところですので、言葉遊びに興じた数寄者たちはもっと色んな漢字を変えて楽しんでいたんでしょうね。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 11月 06日 土曜日 0:20:40)
筑摩の『現代日本文学大系』の旧シリーズ(3段組旧字旧仮名)をみれば、底本が書いてあるのではと、『現代戯曲集』の中村吉藏を見て見ると、なんと「退屈」
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1999年 11月 06日 土曜日 20:06:44)
「怠屈」使用者が一人減ってしまったようで、残念です。しかし、
どのようなプロセスで、データ化の際に「退屈」→「怠屈」になっ
たのかは面白いことかもしれません。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 11月 06日 土曜日 23:46:56)
『現代日本文学大系』(三段組、旧字旧仮名)の『現代戯曲集』で「退屈」だったものが、『現代日本文学大系』(二段組、新字旧仮名)の『現代名作集』で「怠屈」になっているのですから、過剰校正をしてしまったのでしょうか。他作品で「退屈」を「怠屈」と校正した記憶があったりなどして。「字体は新字体だけど漢字は替えないの!」なんてつぶやきながら校正していたとか。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2000年 1月 30日 日曜日 15:34:21)
福田恆存・宇野精一・土屋道雄『死にかけた日本語』(英潮社1976.4.10)の117頁に指摘あり。『ゲーテ全集』(人文書院)第九巻の、二五〇ページ、二五九ページ、二八二ページに「怠屈」が見えるとのこと。
沢辺治美 さんからのコメント
( Date: 2000年 2月 02日 水曜日 12:39:23)
そういわれると、「退屈」の「退」って、ピンと来ないですねぇ。
意味的には、「滞、待、耐」辺りの方が合いそうに思えるんですが、どうでしょう?
偏屈、卑屈、鬱屈、窮屈とかってなんとなく分かるような気がするんですけど・…。
岡島 昭浩 さんからのコメント
( Date: 2001年 8月 01日 水曜日 15:06:18)
近刊の柏書房『誤字辞典』を見ると、上記『ゲーテ全集』の例が載っていました。