大野晋氏の『日本語練習帳』(岩波新書)が読まれています。
私が購入した2月時点で3万部だったそうですが(ことばをめぐるひとりごと)、
今は何十万部になったでしょうか。
私の知る大学関係者の方々は「『日本語練習帳』は絶対買わない」と宣言
される方が多いようです。「その本は読んでいないが、読む気にならない」
という方も。2刷をすぐ買って、一気に読んでしまった私って一体……
日本語関係の本がベストセラーになるとは予想もしませんでしたが、これ
ほど読まれるということは、人々の需要にうまく適合したのでしょう。
その「需要」の中身はなにか。「ことばを正確に使いたい」というような
ことであれば、それこそ『日本語うんちく本』があふれている。素人の筆
者だけでなく、専門家の書いた本もある。國廣哲彌『日本語誤用・慣用小
辞典』、森田良行『日本語をみがく小辞典』(講談社現代新書)など。
作文術としては中村明『悪文』(中公新書)のような本も。
日本語学に入門しようとすれば、金田一春彦『日本語(上・下)』、柴田
武『日本語は面白い』、井上史雄『日本語ウォッチング』、そして大野氏
『日本語をさかのぼる』『日本語の文法を考える』(いずれも岩波新書)
といった本もあるわけだ。
『日本語練習帳』の中で「独立と孤立の違いは」といった意味論を展開し
ている章は、国広氏の本のほうが詳細でわかりやすいし、「『〜は』は
題目をあらわす」という説明の部分は、大野氏自身の『日本語の文法を
考える』がより正確だし、小池清治『日本語はどんな言語か』(ちくま
新書)がより新しい。
にもかかわらず人々があえて『日本語練習帳』を選んだ理由は那辺にあ
りや。類書をもって代えがたいわけがあるのでしょう。また、日本語研
究者が「読まない先から」この本を嫌う理由もよくわからない。
いろいろ考えさせられることの多い事件であります。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 10月 21日 木曜日 14:34:51)
Yeemarさん、いつも話題を有難うございます。
なぜ売れるのでしょうね。
漢字検定がはやり、日本語力検定も行われる。そこへ岩波書店の「練習帳」。「日本語うんちく本」界の「広辞苑」にして「日本語上達マニュアル」、と考えて売れたのが第1次の売れ。「大野晋+岩波新書」で「売れる!」と見たのもあろう(でも『日本語以前』はそんなに売れなかったかな? 金田一春彦『日本語』と大野晋『日本語以前』を並べて置くと面白い、という意見がありました。)その後マスコミが着目し、ますます売れる。『敬語練習帳』などという亜流の書名も現れる(「敬語」じゃなかったかな。でも「漢字練習帳」じゃあんまりだ)。益々売れる。
読まない理由はジャーナリスティックぎらいかな? タミルショックさめやらずか。
岡島 昭浩 さんからのコメント
( Date: 2001年 8月 01日 水曜日 15:25:23)
町田健『日本語のしくみがわかる本』(研究社2000.11.20)は、『日本語練習帳』を引き合いにした部分があります。
この本、いろいろと比喩が出て来るのですが、どうも私は頭が固くてよくわかりません。
>
岡島 昭浩 さんからのコメント
( Date: 2001年 8月 03日 金曜日 13:19:57)
守沢良『ここがヘンだよ日本語練習帳』(夏目書房2001.6.1)は、文章読本としての『日本語練習帳』に対する批判に1章を使っています。
あえて、『日本語練習帳』を取りあげたのは、近年の「文章読本」のなかで、もっとも知られていると考えたからです。ということです。
2-4章は、『日本語練習帳』とは直接は関係しないようです。
守沢良 さんからのコメント
( Date: 2002年 3月 06日 水曜日 22:07:55)
岡島 昭浩さんへ(「先生」という敬称がどうにも好きになれないので、あえて「さん」とさせていただきました。失礼があったらお許しください)
とあるきっかけでこのサイトの存在はずいぶん前に知ったのですが、どうにもサイトの雰囲気がつかみきれず、コメントをするべきか否か迷っているうちに時間がたってしまいました。国語の専門家の方々の中に門外漢が入りこむことに、無防備に地雷源に足を踏み入れるような恐怖を感じています。
当方は、守沢良という筆名で『ここがヘンだよ日本語練習帳』という書籍を書いた者です。あの本(「拙著」とでも書くべきでしょうが、「著」という言葉に異和感があるので、「あの本」と呼びます)を書こうと思った最大の動機は、『日本語練習帳』を読んで、あまりにもいい加減な内容に怒りすら感じたことです。
専門書としては(おそらく)不十分で、
教養書としては中途半端で、
実用書としてはきわめて価値が低く、
いったいあの内容で、誰が読んで、何を感じたのか、さっぱり理解できません。もちろん、あれほど多くの人に支持された理由はまったく判りません。『日本語練習帳』があげている(あるいは示唆している)心得がどれだけバカげているのかを書きはじめると長くなるのでやめておきます。ここ数年のあいだに出版された「文章読本」はヒドい内容のものが多いのですが(このあたりも書きはじめると長くなるので省略します)、発行部数の多さを加味すると、もっとも罪深い本だと思います。
いまになって後悔しているのは、あの本では慇懃にホメ殺すような書き方をしてしまったことです。あまり露骨に批判すると罵詈雑言を並べてしまいそうなので、できるだけ穏やかな表現を選びました。あまりにも穏やか表現を選んだために、当方の憤りが読者に伝わらなかった嫌いがあります(この点を誤読されるとちょっとつらいものがあります)。
それはさておきまして、このコメントを書くことにしたのは、国語の専門家が『ここがヘンだよ日本語練習帳』をお読みになって、どのような感想をお持ちになったのか、お訊きしたかったからです。
とくに、文法的なテーマに関すること、
なぜ「最適」にはノもナもつくのか(p.36)
「に」はなぜ使われないのか(p.228)
「起点のヨリ」はできるだけ使わない(p.288)
「ラ抜き言葉」を防ぐ方法(p.294)
などについて、後学のためにご意見をうかがうことができれば、と考えています。
もちろん、岡島さん以外のかたでも、あの本を読んくださったかたがいらっしゃったら、ご意見をうかがわさせていただきたいと思います。
岡島 昭浩 さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 08日 金曜日 16:57:01)
地雷原ともお思いになる場所へ、ようこそお越し下さいました。
貴著は、題名に惹かれて手に取りましたが、申し訳ないことに購入もせず、ちゃんとは読んでおりません。題名を見た時には便乗本かと思いましたが、ぱらぱらと眺めて、憤っていらっしゃるであろうことは感じたように覚えております。
文章作法書のつまらなさは以前からのことだと思いますが、ここ数年はそれが増しているのでしょうか。
守沢良 さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 09日 土曜日 21:38:24)
岡島 昭浩さんへ
長文で申し訳ございません。このサイトは、このような長文で投稿してもよかったのでしょうか。
お騒がせしました。ご教示いただいた方法で、どうやら無事に新しい会議室にたどり着けたようです。ありがとうございます。
「題名を見た時には便乗本かと思いましたが」という感想はもっとも至極で、当方としては便乗本を装った「偽装便乗本」を狙っていました。『日本語練習帳』を批判しつつ、既存の「文章読本」全体に矛先を向けたつもりです。
『日本語練習帳』に関しましては、インターネットのある書き込みでは「ボケ老人のたわごと」とまで批判されていました。そこまで言う気はありませんが、誤解を招くような言葉足らずの記述が多い本だと思います。詳しくは……と書くと宣伝めいてくるのでやめておきます。
「文章読本」(「文章作法書」と同義です。この言葉を使わせてください)がつまらないのは以前からでしょうが、それでも古くに書かれて版を重ねているものは、それなりに内容がある気がします(「まだマシ」という言い方もあります)。それらを踏まえているはずなのに、この数年の新刊はどうしようもありません。とにかく新刊点数を増やしたいという出版社側の思惑も感じられ、問題の根は深いかもしれません。
あの本の原稿をまとめはじめたあたりから、批判的な目で真剣に「文章読本」を読んだのですが、この数年に刊行されたものはホントにひどい内容です。読後メモの抜粋の一部をあげておきます。抜粋で不十分な記述になっているので、実名は伏せます。全文なら実名をあげても構わないのですが、とんでもなく長文になるのでやめておきます。
『A』(T文庫/2001年9月8日第1刷発行)
親本に関する記載を見て驚く。99年10月にT新書として刊行されたものとのこと。単行本を文庫化するまでのサイクルが約3年、という認識がもう古いことは感じていた。しかし、新書を文庫化すること自体が異例では? しかも2年経っていない。そこまでして新刊が欲しいか。
内容はきわめてユニーク。類書ではお目に書かれないような話がけっこう出てくる。ただ、「いったいこれは何を目的に書かれた本なのか?」という疑問が湧く。あまりにもムチャクチャで理解に苦しむ箇所が多い。著者は文章心理学などを研究していて、大学で教えている論文の書き方に関してはかなりの成果を上げているらしい(イカン、大学関係者の話はダブーか)。しかし、この一冊を読む限りはほとんどトンデモ本の世界。
たとえば第2章のテーマは「説得と日本語のリズム感」。ここに書かれている内容は、見出しを追っていくとよく判る。
「ン」がつくと、響きがよく、印象に残る
反復法は快感を与え、印象を強める
日本人に受けいれられやすい七・五調
同じ拍数の語句をくりかえすと、リズムが生まれる
長い文章のリズム
書いてあることは、基本的には「おっしゃるとおり」としか言いようがない。日本語の修辞学に関して、よく聞く話と言うか、きわめて常識的なことを並べているだけ。それが文章の書き方とどう繋がるのかなんて判るはずがない。
商品名などに「ん」がつくと印象に残りやすい、というのは広告業界の常識。ついでに言えば、半濁音と言うか破裂音が入った商品名もインパクトがあるらしい。したがって、「ピンポンパン体操」なんてのは理想的ということになる……という話はずいぶん昔に聞いたけど、昨今のネーミングの傾向を考えると、ちょっと古いかね。
第6章の「宗教家の説得法を考える」あたりになると、もうどうでもいい。いったい誰を対象に書いている本なのだろう。あのテの方々の説得法が、修辞学(別に「文章心理学」でもいいけど)の研究対象としては価値が大きいことは、なんとなく理解できる。しかし、それは詭弁の類いであって、一般人がマネをするべきものではない。詐欺師やハッタリ屋を目指すなら、重要な記述かもしれない。
『B』(M社/2000年4月20日第1刷発行)
95年4月に新書判(750円)で発行したもののリメイク版。2000年版は「完全版」と謳っているし、5年前の新書判の倍近い定価に設定されているのだから、内容を充実させたのだろう……と思った。そりゃ思うよな。知り合いの事務所に95年版があったので比べてみて呆れる。目次を見る限り、コラムに多少の変更はあっても内容はほとんど同じ。しかも2000年版の頭痛のしそうなほどの誤植の多さは、新刊欲しさにヤッツケ仕事をしたと言われてもしかたがない。
内容は、きわめて常識的。新聞記事の書き方の「17原則」(出典は不明)とか、「こうすれば上手な短文を書くことができるという『コツ』」20箇条(こちらはオリジナルか)とか、どこかで見たような心得のオンパレード。新鮮味皆無。
『C』(S新書/2000年10月22日第1刷発行)
著者は「小論文の神様」と呼ばれているらしい。いやいや、この分野にも大家が大勢いるらしい。ひとことで言ってしまえば、「小論文の書き方」の本であって、「文章の書き方」の本ではない。小論文の書き方に関して「確かに……、しかし〜」という具体的な型を示し、細かな留意点も書き添える。小論文の書き方で悩んでいる人には役に立つ可能性が高い。しかし、この手法を作文・エッセイの書き方にまで援用するのはおくらなんでもムチャだろう。
前半の小論文の書き方だけでやめて『小論文の書き方』といった書名だったら良書かもしれない(たぶんそういう本はすでに書いてるんだろうな)。
岡島 昭浩 さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 12日 火曜日 10:49:50)
文章作法書の類については、「以前のものを踏まえて」というのはあまり期待出来ませんね。
上のお書き込みを拝見すると、以前から多かったいい加減なものが、新書・文庫などの形をとって一見まともな本のようにして出されている、という感じがあるでしょうか。
新書の文庫化は、中公では随分前(20年近く?)から行なっています。『騎馬民族国家』がその早い例ではないかと思いますが、文庫化への時間は随分たっています。今の新書は、広告の少ない特集雑誌という感じが強いですから、改めて文庫化ということになりやすいのでしょうか。活字を組み直すというわけではないので、経費的にも安く文庫化出来るわけでしょうし。
長い書き込みも、大学関係者の話も、タブーではありません。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 13日 水曜日 02:18:26)
守沢さんがお記しの
> 「ラ抜き言葉」を防ぐ方法(p.294)
については、日本語学者の井上文雄氏が『日本語ウォッチング』(岩波新書)p.24で簡便な判別法を述べています。また、私も自分のホームページの「よう←→られる」なる戯文で触れていますのでご参考まで。
> 「起点のヨリ」はできるだけ使わない(p.288)
NHKアナウンス室編『失敗しない話しことば NHK『ことばてれび』講座――1』(KAWADE夢新書)p.56では「窓口にて、のちほど一時より開始します」という文と「窓口で、あとで一時からはじめます」という文とを比べ、前者の方が「改まった言い方」である点で異なるということを述べています。文語・口語という観点ではなく、改まり度の観点からみています。
> なぜ「最適」にはノもナもつくのか(p.36)
> 「に」はなぜ使われないのか(p.228)
これはきわめて高度な問題ではないでしょうか。修飾語となりうる語に「だ」「な」「に」「の」のいずれが付くか付かないかは微妙なので、たとえば『岩波国語辞典』ではそれぞれの語ごとに「ダナ」「ダナノ」「名ノナ」「副ノナ」などと表示しています。飯豊毅一氏は『品詞別日本文法講座 形容詞・形容動詞』(明治書院)で、任意の50語を取り上げて、それらに「の」が付くか、「な」が付くか……というテストをしてみて、結局、名詞・形容動詞・副詞が画然とは分かれていないさまを示しています。いわれてみれば、さまざまな個性(意味・用法)をもったそれぞれの語を「品詞」という決まったワクに押し込めようとすること自体に無理があります。
「最適」には「だ・な・に・の」が付くのに「快適」には「だ・な・に」しか付かなかったり、また、「ふわふわ」に「だ・な・に・の・と」が付くのに「じめじめ」には「と」以外は付きにくかったりしても、どちらが正しくどちらが間違っているということではないでしょう。大まかにいえば、何も付かないか「と・に」が付く語は副詞的性格が強く、「な」が付く語は形容動詞的性格が強く、「の」が付く語は名詞的性格が強いと考えてよいと思います。
守沢 良 さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 15日 金曜日 10:13:10)
●岡島 昭浩 さんへ
当方の知る限りでは、「以前から多かったいい加減なものが、新書・文庫などの形をとって一見まともな本のようにして出されている」というふつうに考えられる事態よりも、もっと悪質な気がします。
先回書き込んだ2例は、「新書→文庫本」「新書→単行本」です。M書房は、94年に出した書き下ろし文庫本を2000年(1999年かも)に単行本化しています。文庫を改訂したものであることは明記されていましたが、文庫判がヒドい内容だったので購入する気にはなれず、どの程度変わっているのかは未確認です。一方、近年の単行本の「文章読本」が文庫化された例は記憶にないので、さほど売れていないのかもしれません。
『文章読本さん江』(斎藤美奈子/筑摩書房/2002年2月5日初版第一刷発行)は、「文章読本」の有名なものとして、次の6冊をあげています。
・文章読本界の御三家
谷崎潤一郎『文章読本』(中央公論社・一九三四/中公文庫・一九七五)
三島由紀夫『文章読本』(中央公論社・一九五九/中公文庫・一九七三)
清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書・一九五九)
・文章読本界の新御三家
本多勝一『日本語の作文技術』(朝日新聞社・一九七六/朝日文庫=改訂版・一九八二)
丸谷才一『文章読本』(中央公論社・一九七七/中公文庫・一九八〇)
井上ひさし『自家製 文章読本』(新潮社・一九八四/新潮文庫・一九八七)
さすがにいいところをついていると思います。この6冊は、並みいる「文章読本」のなかでも別格扱いされてしかるべきでしょう。
ただし、清水読本と本多読本以外の4冊は、一般の人が読んでどの程度参考になるのか疑問です。4冊の趣旨は、極論してしまえば、「名文を読め」ということにつきます。最終的にはそれしかないのでしょう。しかし、ふつうの文章を書くにはあまり効果がないと思います。このあたりのことは、あの本に書いたとおりです。
清水読本と本多読本は、ふつうの文章を書こうとしている人でも、読む価値はあると思います。いかんせん、この2冊はむずかしい。「むずかしい」というのは感覚的な表現ですが、具体例をあげていくと長くなるので、この言葉にしておきます。あれを理解できるほど文章を論理的にとらえることができる人なら、わざわざ読む必要はないんじゃないか……と考えると迷路に入ります。
●Yeemar さんへ
いろいろ勉強になりました。ありがとうございます。さほど恥さらしなことを書いたわけではなさそうなので、安堵しています。
> 「ラ抜き言葉」を防ぐ方法(p.294)
については、ホームページの記述を拝見いたしました。
この問題に関して『ホンモノの文章力』(樋口裕一/集英社新書/2000年10月22日第1刷発行)も井上氏と同じようなことを指摘しています。古くからある判別法なのかもしれません。その部分の【抜粋】と、それに対する【メモ】を書いておきます。
【抜粋】
ところで、このbの文に「教えれる」という表現が出てきた。「れる」「られる」について自信のない若い方も多いと思うので、少し整理すると、こういうことだ。「れる」は五段活用とサ行変格活用の未然形に、「られる」はそれ以外の活用形の未然形につく。が、そうは言ってもわかりにくい。正しくきちんと整理しておいてほしいが、もっと簡単な見分け方として、命令形が「れ」で終わる言葉に対しては「れる」、命令形が「ろ」で終わるものについては「られる」と考えておくと、ほぼ合致するはずだ。
「走れ」「放れ」だから、「走れる」「放れる」が正しい。「投げろ」「見ろ」「食べろ」「止めろ」「やめろ」だから、「投げられる」「見られる」「食べられる」「止められる」「やめられる」が正しい。「投げれる」「見れる」「止めれる」とは言わない。(P.61)
【メモ】
ちょっと言葉足らずだと思う。
辞書的には、レルが「五段活用とサ行変格活用の未然形」につくのは間違いない。ここで問題です。該当するサ行変格活用の動詞をあげなさい。真っ先に浮かぶ「する」は、「せレル」とは言わないはず。「論ずる」「信ずる」の類いはほとんど古語だし、これにレルをつけて「論じレル」「信じレル」(活用はこれでいいのかしら)にすると、上一段のラ抜き言葉と判断されてしまうだろう。わが文法力では、「正しくきちんと整理」するなんてことはできそうにない。
「命令形で判断する」というのはひとつの方法ではあるが、いささか乱暴じゃないだろうか。サ行変格活用動詞の命令形はロ。それよりも大きな問題なのは、命令形で判断すると、ラ抜き言葉の筆頭格であるカ変の「来れる」「来られる」の話が抜けてしまうこと。そういや、同書の186ページには堂々と「来れなかった」って使ってある。
もし文法の話を持ち出すなら、サ行変格活用の話をあえて無視して、五段活用とそのほかで考えるほうが判りやすいはず。やっぱ「切る」と「着る」の違いあたりを出すのがいいのかな。そんなことより、迷ったら「……ことができる」にしてしまうのがいちばん実践的(あんまり使いたくない表現だけどね)。
そう言えば、少し前にテレビのバラエティー番組で、司会者がおもしろいことを言っていた。元ストーカー常習者に対し、「ちゃんとやめられたんですか?」と訊いたあと、「やめられた、って言っても別に敬語を使ったつもりじゃなくて、ちゃんとやめれたのか、って訊きたかったんだよ」と困惑しながら言っていた。正しい日本語を使うのはむずかしい。口語では少し堅い気もするが、やはり「やめることができたんですか?」とでも言うしかない。
ちなみに、当方が生まれ育った北海道でも「やめれ」のほうがふつうなので、命令形による判別法を正しく利用す自信がありません。
〈「よう」が付くなら「られる」も付く。〉に倣い、当方も〈「ない」が直接つくなら「られる」もつく〉というスローガンを広めようかと思います。
> 「起点のヨリ」はできるだけ使わない(p.288)
『井上ひさしの日本語相談』(朝日文芸文庫)には〈「よりは格調」「からは口語」とおぼえておくのがいいかもしれません〉などと書かれています。
「格調」「改まり度」のニュアンスを、あの本では「文語調」と書きました。いずれにしても、わけのわからない例文をあげて「カラにしなければいけない」と断言する「文章読本」に対するアンチテーゼとして書いたつもりです。
とはいえ、編集者として仕事をするときは、ライターさんがヨリを使っていても、一部の例外を除いてカラに換えています。そういう修正を加えることの根拠がないものかと、長年探しています。ネタバラシをすると、原稿を書きはじめた段階では「カラにするべき」とするつもりでしたが、論理的な説明が見つからず、あのような腰砕けの表現になってしまいました。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 16日 土曜日 19:12:51)
樋口氏の判別法は存じませんでした。井上文雄氏のものと結局同じようにもみえますが、やはり違うようです。
井上氏は、動詞の可能形から「る」を除いて命令形になればら抜きではない、ということを述べているので、サ変・カ変動詞の場合も問題は起こらないのです。「来れる」から「る」を除くと「×来れ」であり、命令形ではないので、これはら抜きことばだと分かります。また、サ変動詞「する」は、可能形は「できる」なので、そもそもら抜きの問題が起こりません。
樋口氏は、動詞の可能形ではなく基本形のほうに着目して、命令形が「ろ」で終わればその動詞には「られる」がつく、と述べているので(私は原著を見ていませんが)、サ変動詞の命令形「しろ」が問題になります。「はてな、『しられる』と言うのかな?」と思う人が出てきてもしかたがないでしょう。井上氏が広めた判別法を、樋口氏が誤解して紹介した面があるのではないでしょうか?
『井上ひさしの日本語相談』(元の本は『日本語相談 一』朝日新聞社、1989ですね)に「より」「から」が載っているのは気づきませんでした。この使い分けに関心を持つ人は多いのでしょう。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 16日 土曜日 20:39:18)
> はてな、『しられる』と言うのかな?」
これは私の「『よう』がつくなら『られる』もつく」という判別法にも共通する欠点ですね。「しよう」と言えるので「しられる」と言うのかな、と思われても仕方がありません。墓穴を掘りました。
守沢 良 さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 19日 火曜日 22:16:06)
●Yeemar さんへ
別に墓穴を掘ってはいないのでは……。
「可能表現」がレルかラレルか迷うようなときに、というのが大前提ですから、問題はないでしょう。「する」の「可能表現」は「しレル」なのか「しラレル」なのかと本気で迷う人がいたら、もう少し根本的なことを考え直すべきだと思います。
無理に例外になるものを考えてみました。「飽きる」は「飽きラレル」が正確な「可能表現」でしょうが、まず使わないでしょう。
「見える」「言える」「できる」……etc.などの「可能動詞」などと呼ばれているものも例外かと思います。釈迦に説法じみて申し訳ございません。
ヨリとカラについて、手元にある資料から索いておきます。
愛用している「朝日新聞の用語の手びき」の「慣用句」の使い方の注意に、次のように書いてあります(これは1986年発行の第22刷のポケット版です。現在のものは違っていると思います)。
【引用部】
蛍光灯より冷たい光線が流れている
この文は「冷たさ」を比較しているようにも受け取れる。場所・時間の起点を示す場合の助詞は「から」を使い、「より」は使用しない。同様に引用の出所を示す場合も「〇〇図鑑より」とはせず「〇〇図鑑から」とする。「より」は比較の場合だけに使う。
この解説を信じて、基本的に「起点のヨリ」を使わずにきました。しかし、引用の出所を示す場合は「ヨリ」のほうが自然な気がして、例外にしています。ただ、ここであげられている例文が「比較のヨリ」と解釈できるか否かは微妙だと思います(個人的には、「起点のヨリ」としか思えません)。
1998年にP社から発行された「文章読本」には、次のような例文が紹介されています(この本はあまりにも問題も多いので、名前は伏せます)。
「彼より、あなたが好きという手紙が来た」
「比較のヨリ」と解釈して、「彼とあなたを比較して、あなたのほうが好きである」という意味に誤解されかねないそうです。
よく判らないのは、なんで「彼より、」と読点をつけたのか、ということです。読点があると、「起点のヨリ」としか読めません。読点を削除すると、たしかに「起点のヨリ」とも「比較のヨリ」ともとることは可能でしょう。しかし、受取人の性別を考えれば、その問題も解決されます。そんなことより、この例文はいかにも人工的で無理があります。といったことを考えると、「起点のヨリ」はまぎらわしい、という主張自体に無理がありそうです。
『理科系の作文技術』(木下是雄/中公新書/1981年9月25日初版)の149〜152ページには、「私の流儀の書き方」が紹介され、次のように書かれています。
【引用部】
「よい」、「ゆく」、「より」、「のみ」は、私の語感では、話しことばとしてはもう死語になっているからだ。実をいうと私は「10時より午前の部の講演をはじめます」、「これより先、空港待合室では……」などと言われるとぞっとするのである。
ちょっと補足します。この前には、「書きことばは話しことばとは明らかにちがう」としながら、「書きことばが話しことばに接近していく傾向があることも事実」とし、「その変化を先取りするほうらしい」木下氏は
……するほうがよい
……読んでゆくうちに
8時より9時までのあいだ
下地に膜をつけた場合と下地のみの場合とをくらべて……
とは書かずに、それぞれ「いい」「いく」「から」「だけ」とするそうです(ただし、goの場合には「行く」と書き、読み方は読み手にまかせる)。
ヨリとカラ以外に関しては賛成できない部分もありますが、ヨリとカラに関しては同感です。ほかの記述などを見ると、木下氏は1917年生まれとしては驚異的な若々しい言語感覚をもっていると思います。