こんにちは、初めまして。(^^)/ tokoと申します。
言葉や言葉あそび大好き人間です。
ところで最近、目からうろこ、のできごとがありました。 @-(・o@)ぽろり
「なしくずし」という言葉です。
実は私、今まで「なしくずし」というのは、「物事がだんだんダメになって崩れていくこと」
と思っていました。ところが!です。先日ラジオを聞いていたら、
「なしくずし」とは「済し崩し」と書いて、本来借金の返済を徐々に返していくこと、と
あるではあ〜りませんか。もうびっくり。決して否定的な意味ではなく肯定的ないい意味
だったのですね。私、これはあの70年代の学生運動が悪いと思うんです。
「国家権力はぁ〜、我々のぉ〜、自由と尊厳を〜、なしくずし的に奪いぃ〜………」
って感じで使っていませんでした?
あれで、すっかり、「徐々にダメにする」っていう否定的な意味で覚えてしまったのです。
これは、いつからそんな風に使われるようになったのでしょう?
学生運動の闘士が勝手に解釈して、そう使ったのでしょうか?
〃ノノ 人ノ)
(c ⌒ .^
人_ ーノ
toko@safins.or.jp
佐藤@岐阜大 さんからのコメント
( Date: 1999年 11月 02日 火曜日 1:17:30)
とりあえず、CDROM版新潮文庫・明治の文豪だと、漱石の『道草』の例などが載っています。
「己のは黙って成し崩しに自殺するのだ。気の毒だと云ってくれるものは一人もありやしない」
これは自虐的に段々に健康をそこねて、ということらしいです。「成し」になっているあたり、第一印象として、「済し崩し」から離れた用法だと言えないこともない。が、借金返済の「済し崩し」のつもりで書いたのだが、用字だけ「成し崩し」にしたのかもしれない(漱石は宛字を使う、とよく言われていますが……)。用字からは、借金返済の意味で使ったのか、他の意味で使ったのかはちょっと判定しにくいようです。
そういえば、「なしくずし」「なし崩し」と平仮名で書いたものが多いようです。このあたり、「なし-」が「済し」であるということが分からなくなっている(=語源の喪失)証拠なのかもしれません。ただし、漢字制限の効果かもしれません(あ、「済」のナスの訓を認めていないことは調べてません。つい書いてしまった)。
ただ、この「語源の喪失」という考え方自体は魅力的(都合がいい)ですね。もともとの語源がなくなれば、新たな語源を求める(きっかけができる)ことになります。そこで求めたのが「成す」だったのかもしれません。と、一応の筋道は付けられそうです。が、判断に苦しむポイントが上のようにあるので、意外に、難しい問題かもしれませんね。
さて、私自身のことを。
tokoさんに言われるまで、「済し崩し」が浮かんでこなかった。また、「成し崩し」と書いて涼しい顔をしていたと思います。ただ、ワープロでしか書かないので、変換で救われていたと思いますけれど。(^^;;;
toko さんからのコメント
( Date: 1999年 11月 02日 火曜日 9:29:15)
こんにちは、tokoです。
遅ればせながらの自己紹介ですが、東北は福島市の小さな塾で子供達に英語を教えている者です。
生来、言葉や言葉あそび、そして読書大好き人間です。
日頃から、言葉に関してギモン、質問を持っていたのですが、お聞きする場がなく
困っておりました。今回、ネットで検索して、佐藤様にたどりつき、こちらを
紹介して頂きました。 どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m
佐藤様、コメントありがとうございました。漱石の「道草」は読んでるハズなのですが、
そこに「なしくずし」が登場してるとは、気が付きませんでした。
ふ〜む、「なし崩しに自殺する」という表現も本来の意味からすると、不可解な言い回しですね。
語源の喪失はそれだけで、一冊の本ができる位、数多くあるらしいですね。
「貴様」などというのは、そのいい例でしょうか?
私は、国語や言語に関しては、全くの素人ですので、
また、いろいろ教えて下さいませ。
楽しみにしています。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1999年 11月 02日 火曜日 10:51:45)
tokoさん、ようこそ。
なす=済すを意識するのは、「なす時の閻魔顔」ぐらいですね。
借金返済から離れ、その後さらにマイナス的意味に限定される傾向にある、ということのようですが、マイナス的意味に限定される(と意識する人が増えている)のはおっしゃるように最近(ここ数十年)のことかもしれませんね。国語辞書類で、そこまでかいてあるものがあるのか。
→ goo大辞林
森川知史 さんからのコメント
( Date: 1999年 11月 04日 木曜日 19:54:17)
「なしくずし」の元来の意味が「借金を返済していくこと」だったとは、私も迂闊にも知りませんでした。
tokoさんのおっしゃる通り、否定的な意味で理解し、また使っていました。
尤も、佐藤さんの指摘のように、漱石の『道草』にさえ現代の用法とさほど違わないものが見られるというのは、少々救われる記がしますが。
現在の否定的用法を定着させたのが「70年代の学生運動」というのは、違うのではないでしょうか?もっと前から、否定的用法が普通になっていたと、私は自分の記憶から思うのですが。