1999年11月29日

Macな友人(望月伸司)


上越教育大学大学院言語系M1の望月と申します。
いつも、楽しく拝見させていただいております。
今日、いつも見ているパソコン関係の掲示板を見ていると、
こんな言葉が出てきたので、気になってしまいました。
「こんにちは。Macな友人から先日jpeg画像をもらいました。
ところがどうにも画像をあけることができません。
名前は park001.jepg というように拡張子が4文字なんです・・・」
「Macな友人」という言葉、なんだか聞かない言葉で、こんな言葉
は普通に使われているのかな〜、などと思って気になっていました。
「Winな友人」という言葉はMacな人達の中では使われているのか、
否か、それも気になるところです。一応、この質問にはレスが付いて
いて、「Macな人から受け取ったファイルが開かなかったりすることっ
て、よくありますよね。」という感じでした。
うーん、なんだかおかしいような。それでいて、そう言う使い方もあり
か、と思うような。これって、日本語の揺れになるのでしょうか。



言魔 さんからのコメント

( Date: 1999年 11月 29日 月曜日 15:38:41)


既に投稿受付は終了してしまいましたが、拙サイトにて取り上げました
○○な人」の延長線上にある表現であろうと思います。
もっとも、「馬鹿な人」と「マックな人」で、どこか用法が違うのか?と
問われたら、私には答えられません。

決して重箱の隅をつつくつもりはないのですが、今、大学では
「言語系」という表現をするのですか?私自身は拙ページで取り上げている
ことでもありますが、「言語学専攻」といった表現の方が好きなのですが、
多分、「○○系」という表現もすっかり市民権を得ているようですね。

言葉のよろずや



kazii さんからのコメント

( Date: 1999年 11月 30日 火曜日 0:47:01)


いわゆる形容動詞連体形や一部の連体詞にしか付いてないはずの「な」が名詞にも付くようになったということなのでしょうか。
「〜的」や「〜から」と同じような匂いを感じます。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 1999年 11月 30日 火曜日 8:24:35)


名詞「馬鹿」を形容動詞化した「馬鹿な」が自然なのに、「マック」を形容動詞化した「マックな」が自然でない理由の試論です(長文失礼)。

・「馬鹿」の類例としては、「健康・ひま・平和……」など。(1)
・「マック」の類例としては、「読書・文学……」など。(2)


読書な日々
「今日は問屋が二軒集金に来るというのに、あのブンガクな男はおととい売上金のあらかたを持って印刷屋へ走って行った」(筒井康隆『大いなる助走』文藝春秋 1979 p.15)

(1)の名詞には形容詞性があるので、形容動詞になるが、(2)の名詞には形容詞性がないので、形容動詞にならない、というのは簡単。しかし、これでは一種の循環論だ。そもそも形容詞性とは何?

日本語における形容詞性とは、程度を表す性質のことだと考える。「健康」は、増進・減退する。「ひま」も増えたり減ったりする。「平和」にも「馬鹿」にも段階がある。

一方、「読書」は、増えたり減ったりするものではない。「文学」も同じ。「マック」も、程度はない。「マック度」を決定する基準が分からない。マックに対する愛情の量? 所有する機器の多さ? マックを使っている期間の長さ?

「非常にマックな人」でどのような程度を表すのか、現段階で共通理解はない。そこで「マック」は形容動詞になれないのでしょう。

残る問題。「病気」は、軽かったり重かったりと、程度があると思われるのに、「ずいぶん病気な人」と言えないのはなぜか?(「ずいぶん健康な人」と比較せよ。)

答えは、「病気でない状態」と明確な一線が引かれ、「病気」という定まった範疇があるから。「健康な人」と「健康でない人」の境目は分からない。程度問題である。対して、「病気の人」と「病気でない人」は、程度問題ではない。病原菌に感染しているかどうか等によって、はっきりと分かれている。

「病気」の類例としては、「しらふ・食べかけ・中古・手製・独身・毒入り・にせ・はだか・二重(ふたえ)・無免許・木造・横書き・両開き」など。

「マックな人」も、「マックでない人」との間にはっきりした差(マック製品を持っているかどうか)があるため、どうしても形容動詞にはならないでしょう。

形容詞・形容動詞の条件は、程度の概念を内包していることだといってよいと思います。(よく知らずに書いています。ご批判をいただけましたら幸いです。)



言魔 さんからのコメント

( Date: 1999年 11月 30日 火曜日 15:20:06)


Yeemar先生、わかりやすい例を有り難うございました。
この「マックな人」同様、「渋谷な人」とかいう表現も最近聞きますが、
この辺も「どのくらい渋谷なんだ?オマエは?」とでも突っ込んでやろうかな..
もっとも、そうなると、渋谷へいっている頻度とかで区別できるとか..
なにしろ、私は「サイタマな人」且つ「SOHOな人」なので、言葉の採集
(本当は「言葉狩り」と言いたいのですが、別の意味で使われているようなので)
ができない日々です。

ところで、この度、インターネット上でのオアソビが昂じて「架空商品」を
現実化してしまいました。(岡島先生、もし、「商用」とご判断されたら、
このリンクは外してください)トップの「言葉」を考えるのに2人で3日
かかりましたが...

株式会社 マップス



森川知史 さんからのコメント

( Date: 1999年 12月 01日 水曜日 8:55:25)


>これって、日本語の揺れになるのでしょうか。
おそらく、望月さんも皆さんもご承知の上で発言なさっているに違いないことから書きますと、この「Macな人」は、「日本語の揺れ」と言うよりは、使う本人が充分知った上で少し戯けて口にする類のことばだろうという点です。
いや、それは、お前ひとりがそう受け取っているだけで、決して「戯け」ではないのだ、と指摘されたら、私はむしろぎょっとしてしまうのですが。
それに、何より私自身が「Macな人」なので、この表現のニュアンスは非常によく分かる、とも思うのです。どうも「Winな人」というのは「Macな人」との対局には存在しない感じがして違和感があります。



望月伸司 さんからのコメント

( Date: 1999年 12月 02日 木曜日 0:28:57)


みなさま詳しいご回答ありがとうございました。とても勉強になりました。

私の思うところは、「戯け」で使っている表現というものがいつのまにか、自然な表現として違和感なく定着していくところに「日本語の揺れ」というものがあるのではないか、というものです。もちろんこの「日本語の揺れ」や変化に危惧などを抱く年齢ではありませんが、「おっ、それってうまい表現じゃん」というところに日本語の可能性の発見があったり、「なんかおかしいけど、それもありかも」というところに、表現の多様性生まれたりするところが面白いんですよね。その部分をみなさん楽しんでいらっしゃるようで、それがこの「ことば会議室」の見ていて飽きないところです。

確かに森川さんがおっしゃるように、「Winな人」は「Macな人」の対局には存在しない感じがします。ニュアンスをことばで説明するのは難しく、それも特に「Winな人」の私にはおこがましくて、説明する事はとてもできません。身近にいる「Macな人」にちょっと、聞いてみようと思います。

ちなみに、私の「言語系」というのは、大学院の「言語系(国語)」という所属なので使いました。言魔さんの言うとおり、「言語学専攻」というほうかっこよく、私も好きです。




天野修治 さんからのコメント

( Date: 1999年 12月 02日 木曜日 2:45:40)


間違って「病状表現の細分化」のほうに投稿してしまいました。でも関連したテーマでしたね。(私の新しい掲示板はhttp://shibuya.cool.ne.jp/brnです。遊びに来て下さい。)



言魔@元言語学専攻 さんからのコメント

( Date: 1999年 12月 02日 木曜日 18:03:33)


望月さん
やはり...私の近くでも「○○学系」は使われている様子で、
先輩が筑波大学体育系の教授になったりしてますから...
良く考えると、ウチのカイシャのページでも「SOHO系企業」なんて
表現使ってますしね...

と、あくまでも、「体育会出身」であって、体育会系ではない
言魔でございました...

言葉のよろずや



Yeemar さんからのコメント

( Date: 1999年 12月 05日 日曜日 9:36:09)


ちょっと前の週刊誌から。連発されるとどうも……。この人は「〜的には」も使っている。

〔バレーボールのワールドカップで、タモリ団長と観衆が〕「応援してくれるかな?」「いいともー!!」のやりとりがあり終了(テレビ的にはCMへ)。なんだろうか、この「あえて式次第は。

「何をやったところで白々しいというのは、テレビの中の持ちつ持たれつなパブリシティーの楽屋裏を隠そうとしなくなったときから、認めざるをえない大前提である。
(ナンシー関の小耳にはさもう「週刊朝日」 1999.11.19 p.129)



kazii さんからのコメント

( Date: 1999年 12月 08日 水曜日 2:54:11)


>Yeemarさま
11/30のコメントについて。
私は何が問題なのかさえもわかってなかったのですが、なるほど良く分かりました。以下、議論を深めるために。

>形容詞・形容動詞の条件は、程度の概念を内包していることだ
ということですが、それならば「完全」または「不完全」はそれぞれ程度問題ではなく、「完全な」状態と「不完全な」状態ははっきり
していると思われるが、にもかかわらず「完全な」も「不完全な」いえるのはなぜでしょう。合せて、これらはどうして直接、名詞に
ならないのでしょうか。
類例: 「未完成な」(これは直接は名詞にならない。完成していなければ「未完成」。でも「完成な」はいえない。)
「無理解な」(これは直接、名詞になる。「例:親の無理解が子供の非行を招く。」 理解はあるかないかのどちらか。でも「理解な」はいえない。)
「?中立な(もしかしたら形容動詞化しません?)」(これは直接、名詞になる。「中立」は程度ではなく、どちらのもかたよっていないという一点の状態。)

「完成な」「理解な」がいえない、というあたりはこれらは「程度」ではないから、で押せそうな感じですが、「完成な」はいえないにもかかわらず、同じ「まったき」
状態である「完全」のほうは「完全な」がいえてしまうあたりは「動詞性(サ変化すること)」というものも考慮しなければいけない、ということでしょうか。



Yeemar さんからのコメント

( Date: 1999年 12月 08日 水曜日 9:15:25)


kaziiさんへのお答えになるかどうか分かりませんが、「程度を表す」だけではあいまいなので、条件を設けましょう。(1)「より」「さらに」「もっと」などの副詞がつくこと(2)「〜さ」がつくことを程度性の指標とします。

CD-ROMの「新潮文庫の100冊」から「完全」を探すと、「より」「もっと」「さらに」などと共に使われる例はあります。

・衛生局は当局が直接にやったほうがより完全なものになると称し(星新一「人民は弱し官吏は強し」)
・それよりもっと完全なの。(曾野綾子「太郎物語」)
さらに完全な防諜態勢をととのえること(吉村昭「戦艦武蔵」)
「不完全」「完璧」なども同様です。よって、これらの語は程度を表すと考えられます。

>>これらはどうして直接、名詞にならないのでしょうか。
形容動詞はかならずしも名詞として使われませんから、これはOKでしょう(「キレイをつくる」のような広告がありますが、違和感あり)。

一方「より未完成な」「もっと未完成な」は言いにくいようで、今までの論からいうと都合が悪い。ところが「新潮文庫の100冊」をみると、「未完成」はそもそも「未完成な」の形で出る例は0で、「未完成のものではあるが」(山本有三「路傍の石」)のように「未完成の」の形で出ており(8例)、形容動詞として使われにくいと考えられます(他の資料も探せば「未完成な」もあるでしょうが、少数派でしょう)。「未完成」に程度性がないため、形容動詞にはなりにくいのです。

「無理解な」「中立な」は資料不足でした。(1)(2)の条件に当てはまるでしょうか。

「完成」「理解」は、おっしゃるように動作性を考慮する必要があると思います。動作性の名詞に「無〜・未〜・不〜」がつくと一般的に状態性を表します。しかし「未入籍」「未発表」は状態性はあっても、「より未入籍な」などといえず、程度性はないものと考えられます。

「名詞・形容動詞・形容詞の違い」についてこのような観点から扱った論文は、あるようで数が少ないように思います。この件については、もうすこし研究してみるつもりです。


posted by 岡島昭浩 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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