初めて寄らせていただきます。田島と申します。
今回は質問があってこちらへ伺いました。
お訊きしたいのは、ものごとをぼかして言う「うん」はいったいいつごろから使われ始めたのかということです。たとえば、「うん十歳」とか「うん万円」とか言いますよね。その「うん」です。
『三省堂国語辞典(第五版)』で「うん」をひくと、〔かなもじ「ん」「ン」の呼び名から〕という註釈を附しています。『日本国語大辞典(第二版)』には「うん」にその用法を示しておらず、「ん」の項に「ん万円」「三十ん歳」とあるだけです。語誌欄もないので、これがどれくらい古いことばなのかはわからずじまいです。
この「うん」あるいは「ん」は現在よく聞きますが、やはり新しい俗な用法なのでしょうか。新しいとすると、いったいつごろから使われるようになったものなのでしょうか。どうかご教示ください。
益山 健 さんからのコメント
( Date: 2002年 03月 29日 金曜日 22:30:41)
「大学かぞえ唄」という歌に「ン大生」という歌詞があって, 子供のころ意味がわかりませんでした。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2002年 04月 01日 月曜日 11:05:45)
「ん万円」の「ん」は伏字に当たるものですね。ただ普通の伏せ字は、「訳あって表に出せないので伏せている」のですが、この場合は「数字」に限られて、しかもそれが「不確かにしか把握していない」ので「ん万円」とななっているのでしょう。「チョメ万円」でも別にかまわないのではないかと。
「ん」が表すのは意味は「数万円」の「数」に当たると思います。「ん」がつく数字としては「3(サン)」「4(ヨン)」が考えられますが、「ん」=「3or4」とは限らないでしょうね。
田島照生 さんからのコメント
( Date: 2002年 09月 01日 日曜日 20:51:11)
返事が遅れて済みません。益山さん、道浦さん、どうも有難うございます。それから、道浦さんのホームページもたいへん興味ふかく拝見しました。昨今はなぜか日本語がブームですが、ブームに止まるだけでは見えてこない日本語の姿が見えてきて面白うございました。
ここで唐突に話は変わるのですが、辞書に載っている最後の言葉は「んとす」とか「んば」とかかなと思っていたら、実は「んん」という項もあるのですね。『日国大』はこれで終わっています。ところが、『三国』には「んんん」があって(第三版になって採録されたそうです)、さすが見坊さんの辞書だなと感心していました。ところが、この間『文學界』(2002年三月号)を読んでいたら、武藤康史さんの文章に「映画『麦秋』の終わり近く、(略)原節子ははっきり『んんん』と言っている。『んんん、あのときは好きでも嫌いでもなかったわ』と言うのである。」とあって、また、「よく聴くと『ん(低)・ん(高)・ん(低)・ん(高)』のようでもある」とあります。音声言語としての「んんんん」が辞書に採録されることはあるのでしょうか?
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2002年 09月 01日 日曜日 21:13:04)
「んんん」が「んんんん」になるのは、「はい」が「はいい」に、「こら」が「こらあ」になるようなもので、〈知的意味に関わらない〉違いではないかと思います。だからは辞書には載せないのではないでしょうか。
4拍目の「ん」の「(高)」は、イントネーションでしょう。3拍目までの「低高低」はアクセントと考えてよいかと思いますが、普通のアクセントとは性質が違いそうにも思います。
田島照生 さんからのコメント
( Date: 2002年 09月 01日 日曜日 22:10:51)
岡島さん、早速の御返事ありがとうございます。
なるほど。「んんんん」は「きみい」とか「こらあ」とかと同列に論じるべきだということですね。ということは、「んんん」が「否定の意」の場合ではなくて、「言葉につまったときに発する音」だとしたら、「んん」と「んんん」とを敢えて弁別する必要はないとも言えるかもしれませんね。『三省堂国語辞典』では「んんん」を「ひどく言葉につまったとき」に発する音だとして、「んん」(これは「ことばがすぐに出ないとき」の音だと説明しています)と区別していますが、この場合、三拍めの「ん」はイントネーションと見てもよいでしょうね。
岡島 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 08日 土曜日 22:28:54)
道浦さんが書きました。
→ 平成ことば事情「んんん」
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 08日 土曜日 23:18:03)
岡島さん、ありがとうございました。このスレッドの存在はトント失念しておりました・・・。
田島照生 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 09日 日曜日 01:34:30)
昨年の十一月頃、小津安二郎の『麦秋』(1951)をレンタルして観てみました。私には、原節子のセリフは「んんん」と聞こえました。
話題からは大きく逸れるのですが、ラストシーンの麦畑をダーッと駆け抜けるショットは、D・リチーさんが絶賛していただけあって、さすがに素晴らしい映像でした。
それと、もうひとつ。小津映画では、恋人とか婚約者とかがいることを、「いる」ではなくて「ある」と表現している(例:「好きな人はあるのかね?」)場合が多いのですが、こういう表現はかつて一般的だったのでしょうか。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 09日 日曜日 12:25:05)
金水敏「存在表現の構造と意味」(近代語学会(編)『近代語研究』第11輯、
武蔵野書院 2002年12月)に、
筆者の直感では、有生(animate)の主語を取った場合、厳密に「いる」しか用いられない種類の存在文と、有生の主語を取っていても「ある」が許容される種類の存在文とがある。ただし、この直感を共有しない日本語話者が、特に若い人に増えてきているように見える。このような話者においては、有生の主語であれば必ず「いる」を、そうでなければ「ある」を用いることになる。以下の記述では、基本的に有生・無生の区別とは独立に「いる」「ある」の使い分けに関わる要因が存在するとする筆者自身の直感に基づいて、議論を進めていく。とあり、
論文末尾には、
5 筆者の直感では、「いるs」は有生の対象のみ、「あるQ」は無生の対象のみ項として選択する。また「いるQ」は有生の対象のみ選択するが、「あるQ」は有生・無生両方の対象を選択する。ただし近年は、「あるQ」が無生の対象しか選択しないという直感を持つ話者が増えていると思われる。としていますが、QやSは、
1 主要な存在表現は、大きく空間的存在文(SE)と限量的存在文(QE)に分類できる。前者は、存在の対象物が物理的な空間を占める表現であり、後者はある集合の要素の有無多少について述べる表現である。というようなことです。詳しくはお当たり下されば幸いです。
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 09日 日曜日 23:23:50)
『明解国語辞典』初版は「ん」のあとに19項目もありますが、見たらがっかりするかもしれません。
田島照生 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 12日 水曜日 01:52:27)
岡島さん、どうも有難うございます。私はまだ大学生(学部生)なので、「若い人」ということになりましょう。有生物に「あります」を用いると、やはりすこし違和感があります。「みんなもう、お子さんがおありで、活躍しておられるんだからなあ。」(『父ありき』1942)などという表現には、違和感がありません。