「してき」でなく「わたしてき」と発音するのですが,
「私の考えでは〜」「私としては〜」という用い方がされているようです。
この他,自分の名前を頭につけて「○○的にぃはぁ〜」などという
使い方もあるようです。
数年前には,若い人たちどうしの間のみで通じる隠語のようなもんかいな
と思っていましたが,ここ最近は,そういう意識も薄れてきたようで,
(半)公的な場でも,このような使い方をするひとがかなりの数いるようです。
本来の「的」の意味からすると,必ずしも誤用とは言えないのではないかと
考えていますが,一体なぜこのような使い方が広まったのでしょうか・
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 04月 15日 月曜日 22:06:24)
この手の言い方、驚くべし、すくなくとも100年前からあります。
言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、況や誨ふべき事ではない、止だ僕一箇の了簡として肚の中に思うたまでの事、究竟荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、これは荒尾という人が語っているせりふです。さすがに「荒尾的にはァ〜」ではありませんが。(尾崎紅葉「続金色夜叉」〔1902.04発表〕新潮文庫『金色夜叉』p.302)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 04月 15日 月曜日 22:12:57)
……という話は、以前にいたしておりました。ネタの使い回しになってしまいました。
→ せんせい
武市祥司 さんからのコメント
( Date: 2002年 08月 01日 木曜日 09:21:58)
Yeemarさん,どうもありがとうございました。
バックナンバーにもあたってみたつもりだったのですが,どうも見落としていたようです。
大変失礼いたしました。
中国語の「の」に相当する「的」からの転用から広まったのかもしれないとも
私は思っていたのですが,どうやらそういうわけでもなさそうですね。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 03日 木曜日 18:12:36)
NHK放送文化研究所「ことば ウラ・オモテ」42(2001.12)「○○的はことばの敵」では、柴田実氏が「NHK的にはどうだろうか」「ページ的に入るか?」という格好の例を出されています。ただし、
> 「○○的」「○○系」に共通するのは、「○○」の部分をぼかしたいという表れのようです。
という「ぼかしことば」というとらえ方は正当か、いささか疑っています。平成11〔1999〕年度の文化庁「国語に関する世論調査」でも、「〜的には」は「〜ほう」「〜とか」と併せて「ぼかしことば」ととらえられているところですが(「国語に関して」参照)。
なるほど「わたし的にはそう思います」は「私はそう思います」の「ぼかしことば」かもしれないとしても、「NHK的には問題のある映像だ」は「NHKは問題のある映像だ」とは言い換えられず、「ページ的に入るか?」も即座に言い換えられる表現はありません。「〜的には」は「ぼかしことば」でしょうか。
「ぼかしことば」という言い方自体も、成立年代が知りたいものです。平成11年度調査に発するものでしょうか。
→ 「ことば ウラ・オモテ」42
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 04日 金曜日 13:26:11)
「NHK的」の場合、この「的」は二つの意味がある可能性があると思います。一つは「〜としては」。そしてもう一つは「〜らしさを守る立場からいうと」という意味。二つ目は「きわめてNHK的」の時に使われる「的」です。「ページ的に入るか?」の「的」は、最初の「〜としては」の意味でしょう。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 05日 土曜日 00:49:58)
「〜的には」は、おっしゃるように「〜としては」「〜らしさを守る立場から言うと」のように言い換えられます。そこで、単なる「ぼかしことば」ではないというのが私の趣旨です。
「わたし的には」は、「わたしとしては」とほぼ等価です。そう考えると、大人が使う「私としましては……」が、新しく若者ことばとして「わたし的には……」に外見上リニューアルされただけで、意味はちっともぼけていないと思うのです。少なくとも「私としましては……」に比べてぼけているとは思えません。
「ページ的に入るか?」は、「ページとしては入るか?」に言い換えられますが、そう言い換えても何かがより明確になったわけではないので、ここでもまた「ページ的に入るか?」は「ぼかしことば」とは言いがたいと思います。
「時間的に入るか?」「栄養的に問題はないか?」などと、漢語に「的」をつける言い方は認められているところで、それが漢語でない言い方に拡張されたのが「ページ的に入るか?」です。使われる語彙が拡張されただけで、意味はぼけていないと思います。むしろある種の意味が明確になって、便利なことばだと思います。
かといって、私自身はふだん使いません。よほどふざけた時に、「わたし的にはオッケーなんですが」と言って笑わせようとすることはあります(だれも笑いませんが)。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 05日 土曜日 19:55:32)
「わたし的には」と「わたしとしては」は等価としても、この場合「わたしは」で充分じゃないでしょうか。「わたしとしては」も(「わたし的には」と同じく)「ぼかし言葉」ということは考えられませんか?
畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 05日 土曜日 21:40:12)
私も双方ともぼかし言葉と考えます。
ストレートだと多少ごう慢な印象を与えることから、「的」を使うことにより、これを和らげているのでしょうか。
わたしは極力、「的」は使わないようにしています。
だって、道浦さんが言われるとおり「わたしは」で充分なのですから。
曖昧Me さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 05日 土曜日 23:31:57)
「わたしは」の方が「わたしとしては」より曖昧じゃない?
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 06日 日曜日 00:01:41)
え!!そうお感じになりますか。感覚は個人によって違いますが、それは意外。
(以後、「わたし=私」と書きます)
「私はやります」
「私としてはやります」
「私は反対です」
「私としては反対です」
こう並べてみると、「私は〜」というのは文字どおりの「一人称の本人」の意見表明ですが、「私としては〜」は「自分の中の、『一人称の自分』を客観的・冷静に眺める、もう一人の自分」の意見表明のように思えます。
ダイレクトでない分(つまり間接的。ワン・クッション置いているということで)、「あいまい」になっていると思うのですが。いかがでしょうか?
曖昧Me さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 06日 日曜日 11:04:04)
「あいまい」の意味を曖昧にして使うから議論がかみ合わないのでは。
「は」を単独で使うと曖昧になりやすいんじゃないかと、文法的に思ったわけ。
>『一人称の自分』を客観的・冷静に眺める
自分の立場の曖昧さを消そうとしている、とも言えない?
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 06日 日曜日 13:49:13)
「わたし的には」と「わたしとしては」の「ぼけ程度」に差はないということでは、道浦さんと畠中さんとに賛成していただけていると思います。そこで、「わたしとしては」はよくて「わたし的には」はダメ、と思う人がいるとすれば、その人は、ぼかしことばという以外の理由(新しい語形だから、etc)で「わたし的には」に違和感をもっているのだと思うのです。
「わたしは」と「わたしとしては」のどちらが「ぼけているか」は、曖昧Meさんの言われるように、何を以て「ぼけている」とするかによりそうです。 「わたしとしては」のほうが「として」という立場を表す語を加えている分だけ意味が精密になっている(ぼけ度が減少)ともいえますし、「ではどういう立場で言っているのか」については何も言及していないため、この「として」は不必要な情報である(ぼけ度が増加)ともいえます。
「○○政策に一貫して反対しているわが党としては、この法案には賛成できない」ならば、「○○政策に反対の立場の党」という立場で言っているので、この「として」は「ぼかしことば」にはならないと思います。
議論の交通整理をしてみたつもりです。
前田年昭 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 07日 月曜日 09:48:01)
Yeemarさんの「交通整理」の試みに敬意を表します。
しかし【「わたしとしては」のほうが「として」という立場を表す語を加えている分だけ意味が精密になっている】というご指摘は文脈から離れた解釈に陥る危険性があるとおもいます。「わたしは」と「わたしとしては」を五分五分に「交通整理」なさりたいのでしょうか?
たとえば、3月18日の小泉首相の発言
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/nybomb/iraq/attack/web/koizumi/index_18.html
「米が英や各国とやむを得ず武力行使に踏み切った場合、日本政府としては支持する。」
など、政治家の発言では、立場を表す語を加えて精密に、という「として」よりもむしろ、立場の使い分け(逃げ)の「として」のほうがしばしばみられるところです。そして、この、逃げの「〜としては」から「〜的には」が生成したのだと、私は判断しています。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 07日 月曜日 11:17:04)
「曖昧なのは日本語ではなく、日本人の言語表現である」と思っておりますが、これもそうではないでしょうか。曖昧Meさんのいう、「曖昧の意味が曖昧」というのも、そのあたりのことのような気がします。
「立場の使い分け」というのは、自分(の発言)の立場を分ける/分析することによって成り立つ、と、上記曖昧Meさんの立場に立てばなりそうです。
自分の立場を分けておいて、逃げを作る、という意味では、曖昧にしておく、ということなのでしょう。
それから、
敬語表現の一つとして、「先生には何如お過ごしでしょうか」の「には・におかれましては」がありますが、その解釈とも関わってきそうに思います。これも、〈ぼかすことによって敬意を示す〉のようにも言われますね。貴人の居る場所をさして言ったので、その人そのものとは違うものをさしている訳ですが、人ではなく場所でその人のことを言う、という表現方法は、曖昧さを求めていることになりましょうか。
「としては」の場合、自身の限界の表明を感じさせる表現である気がしますが、これはどこから来ているものなのでしょう。
「私としては頑張ったつもりですが……」
ただこれを「私的には頑張ったつもりですが……」と言われると違和感を覚えますが、これはやはり新しい言い方だから、ということなのでしょうかね。
交通を乱してしまったようですみません。
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 07日 月曜日 22:26:52)
「私的」という表記は「してき」と読んでしまいそうですね。
「公的にはともかく私的には頑張ったつもりですが……」なんて言わないけれど。
すみません、変なシテキで。