今回、そう思ったきっかけは、見知らぬ人からのメールでした。
>本当に厚手がましいお願いですが、どうか宜しく御願い致します。
「厚かましい」と「差し出がましい」など(と「厚手」)とが、コンタミネーションを起こした言い方かと思いますが、web上でも何件かヒットしました。
このメールを呉れたのは、大学4年生で、神奈川県でずっと育った人であるということでした。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 12日 日曜日 00:31:52)
『月刊文法』昭和44.9(1巻12号)の「特集 現代作家の文法的誤りを突く」の中の「誤りすれすれ!」でした。
西田直敏「井伏鱒二・武田泰淳」で、「なんとなし、お前を憎らしくなってくる」を「なんとなく」の誤りであろうとしていますが、これはありそうですね。「なんとなしに」が多いのでしょうが。
webで例えば「なんとなしわかる」を検索するとヒットします。
私の言葉では、「なんかなし」です。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 14日 火曜日 01:23:21)
次の例は、「つい言ってしまう!」でも、誤植でもないと思われますので、こちらのスレッドが最も適切かと思います。
素人っぽさを売り物にしている彼女たちにしても、おニャン子組を横にすると、なんていおうか、プロフェッショナブル〔ママ〕の威厳のようなものが漂い始めるのである。おもしろい勘違いで、貴重な用例と言えば言えますが、先のページを読む意欲をいちじるしくそがれることもまた事実です。(林真理子『チャンネルの5番』〔1987年発表〕講談社 1988.02.22 p.208)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 14日 火曜日 01:27:19)
次の例は、「つい言ってしまう!」でも、誤植でもないと思われますので、こちらのスレッドが最も適切かと思います。
素人っぽさを売り物にしている彼女たちにしても、おニャン子組を横にすると、なんていおうか、プロフェッショナブル〔ママ〕の威厳のようなものが漂い始めるのである。おもしろい勘違いで、貴重な用例と言えば言えますが、先のページを読む意欲をいちじるしくそがれることもまた事実です。(林真理子『チャンネルの5番』〔1987年発表〕講談社 1988.02.22 p.208)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 14日 火曜日 02:00:49)
「誤用すれすれ」ということで申しますと、明治書院の雑誌『日本語学』2002.12に載っていた「日本語力現状レポート」(川本信幹氏報告)には大いに自信を失いました。「日本語能力測定試験」(2001年、2002年)の問題がいくつか挙がっていましたが、私にはろくに正解できないのです。たとえば
問A 表現上問題がないのはどれか。というのがありました。私は、これは「修飾関係があいまいな文を指摘する問題だろう」と思い、次のように考えました……。
1 二日間続いた大雨の後の強風で、稲が皆倒れてしまった。
2 エースピッチャーは、二日間の休養の後の登板で大活躍した。
3 二年後に再訪して、変わり果てた人々の暮らしぶりに驚いた。
4 その事件を起こしたのは、信頼していた会社の重役だった。
1は「二日間続いた」のは大雨か強風かはっきりしない。4も同様で、信頼していたのは会社か重役かはっきりしない。その点2は大丈夫そうだが、あえていえば「二日間の」が「休養」にかかるのか「登板」にかかるのかあいまいだと言えないこともない(テストというものは、こういうあやふやな選択肢がまぎれこんでいるものだ)。そもそも、「〜の〜の〜の」と「の」が続きすぎで、文意があいまいになっている。その点、3は、そういった修飾・被修飾の関係にあいまいさがない(「人々の変わり果てた暮らしぶり」のほうがベターではある)。すると正解は3だ。
実際の正解は2だそうです。なんでも3は「二年後に再訪」が重言なのだそうで、「二年後に訪問して」で十分とのこと。しかし、「二年後に訪問して」では、その訪問が再訪なのか、3度目の訪問なのか、分からないではありませんか?(ちなみに1は「二日続いた大雨」か「二日間の大雨」にすべしとのこと。「二日間続いた」と言ってはいけないのでしょうか?)
かような次第で、さっぱり正解できませんでした。もともと、試験で正解することはあまり得意ではありませんが、これにより、自分の日本語力が低いという結果を突きつけられると、釈然としません。レポートでは、「高校生も社会人も言語感覚いまだし」と見出しで指弾していますが、その「いまだし」の中に自分も入るのかと思うとユウウツであります。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 21日 火曜日 02:16:53)
「ほんまにうちだけやで、こんなに親切なとこ。朝日の支局なんかに行ってみい。剣もほろろに追い返されるでぇ」剣の刃が無情にもぼろぼろとこぼれるという感じでしょうか(「けん」「ほろろ」は雉の鳴き声という)。この著者の語彙、用字はおもしろいですが、本書は文庫化されている由、上記のような部分が改められているかどうか興味がわきます。
とS氏。(林真理子『チャンネルの5番』〔1987年発表〕講談社 1988.02.22 p.102)
後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 21日 火曜日 03:28:09)
「剣もほろろ」は他にもかなりの用例がある模様です。
有島武郎 『惜みなく愛は奪う』 新潮文庫大正の文豪所収
スタンダール 小林正訳『赤と黒』 新潮文庫の100冊所収
林不忘 『丹下左膳』 新潮文庫の絶版100冊所収(以下三項同じ)
尾崎士郎 『人生劇場 風雲篇』
『同 夢現篇』
野村胡堂 『珠玉百選 銭形平次捕物控』(四)および (七)
中上健次 文春ウェブ文庫版 『岬』二〇〇一年七月二十日 第三版
〈底本〉文春文庫 昭和五十三年十二月二十五日刊
大岡昇平 中公文庫e版 『堺港攘夷始末』 (2例)2001年6月22日発行
(『堺港攘夷始末』一九八九年一二月 中央公論社刊 中公文庫『堺港攘夷始末』一九九二年六月刊)
深田祐介 文春ウェブ文庫版 『炎熱商人(下)』二〇〇二年二月二十日 第一版(単行本昭和五十七年五月文藝春秋刊)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 21日 火曜日 08:02:31)
「語彙索引の検索」では国広哲弥『日本語誤用・慣用小辞典』(講談社現代新書)に「けんもほろろ」があるとのことでした。見てみますと「けんもほろほろ」という語形が、「週刊読売」1988.10.23で報告され、また、「SOPHIA」で使用されているとありました。さらに「ケンもボロクソ」が「週刊読売」1988.12.18にあることも記されていました。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 21日 火曜日 08:11:01)
漱石にもありました。
「いや御話しにもならん位で、妻が何か聞くと丸で剣もほろゝの挨拶だそうで……」(「吾輩は猫である」『漱石全集 第一巻』p.145)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 21日 火曜日 08:25:47)
いささか蚤取り眼で。
「あら、『ゆきゆきて、神軍』見てないのォ。天皇の戦争責任をひたすら追求する男よ。そうよ、あなたは芸能界に対する奥崎謙三になりなさいよ。そしてひとつひとつ責任追求するの」「追究・追及」が「追求」と書かれることが多いような気がしますが、「追求」は「追究・追及・追求」の包括概念でしょうか。(林真理子『チャンネルの5番』〔1987年発表〕講談社 1988.02.22 p.185)
面独斎 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 23日 日曜日 02:40:54)
「すべからく」を「すべて」の意で使うことが、もはや誤用と呼べぬくらいに蔓延しているようですが――
新しいものをまったく受け入れないで、すべからく排除するようになる段階に、人間はその一生においていずれ達せざるを得ないようである。悲しいことではあるが。これもやはりその例と思われますが、どうでしょうか。私ならば「ことごとく」とするところです。(真田信治『方言は絶滅するのか』PHP新書、2001年、p. 99)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 23日 日曜日 03:38:47)
私も例を拾っていましたが、もはや正用法かもしれませんね。発表の機会もありませんので、いくつかをこの際ご覧に入れます。
そんな想いや脅えに責め苛まれて彼は自分がとうにこの世ならぬ妖異の存在になり果てていることにも気づかない。そして兄妹弟{きょうだい}の三人目である雅司も妖異の存在がすべからくそうであるように時空を越えて今現在にたどりついたところだ。(筒井康隆「邪眼鳥」『新潮』1997.02 p.55)
〔……〕森〔毅〕はインドの大工の話が好きだ。老職人の大工はその名人芸をだれに伝えることもなく消えていく。もったいないといわれてこう答えたという。神様がもしこの技術が世に必要であると思われるなら、いずれだれかに託してさせるでしょうよと――。
「すべからくそうじゃないかと思うよ。子どもや孫にいい世の中を残してもしゃあないと思うね。(「AERA」1999.10.25 p.64)
余談になるが、イモ人間とはバンドマン言葉で、イナカモノの省略である。ただしこの場合のイナカモノは、地方の在住者、出身者を意味するものではない。たとえ都会生まれでも、けじめのない人、野暮ったい人、気がきかない人、礼儀を知らない人、ハレンチな人は、すべからくイモ人間の部類に属する。〔ジェームス三木・ヤバイ伝第一〇九章〕(「週刊新潮」2001.03.15 p.113)
だってついこの間まで世紀末さわぎだったのですから、夕立が上がるようにはいかないでしょうね。政治もそうなら天災人災、事件、事故、すべからくつながっていますわけで、暦で区切ったのはわれわれ人間の身勝手ですものね。〔時実新子・川柳クラブ〕(「週刊文春」2001.03.15 p.93)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 16日 土曜日 02:51:22)
別スレッドで守沢良さんが「足もとをすくう」等の言い方について誤用か否かを問題にされています。いささかコメントをいたします。
足元をすくう
まず、「足元」に「足の下部」の意味があることから(『日本国語大辞典』)、論理的には許されると思います。『日本国語大辞典』に見出しはありませんが、手近の例では、正岡子規「寒山落木」に〈足元をすくふて行くや月の汐〉(1892〔明治25〕)というのがあり、語の歴史も短くないようです。「朝日新聞」1996.12.13 p.4には、畑山美和子氏の〈「ふーん。男性も傷つきやすいんだ」と、足元をすくわれた気がした。〉という文章が載っています。「足をすくう」は、〈相手のすきをついて、卑劣なやり方で失敗させる。〉という『大辞林』の語釈に従えば、卑劣な人のやることなのでしょうか。
不覚をとる
南北朝頃の『曽我物語』に用例があり、歴史は長いようです。「不覚をとる」の「とる」はどういうことか、突き詰めて考えると分からなくなりますが、「後れをとる」などと同じく、「ある行動の仕方をする。」(『日本国語大辞典』の八−4)の意味に含めることができるのではないでしょうか。
しのぎ合う
これは面白い例だと思います。原文をじかに縮刷版で見たいと思いました。私も「競り合う」「競い合う」などのほうが適切と思います。「しのび会う恋を つつむ夜霧よ」などという歌が書き手の頭にあったのでしようか。
〜しませんでした
現代口語で否定丁寧形の過去形が成立するまでには、「〜しませんかった」(若松賤子)、「〜しませなんだ」「〜しませんだった」「〜しませんでした」などの言い方が試みられ、結局最後のものが競争を勝ち抜いたと理解しています。〈「美しかったです」が認められるのなら、「〜しなかったです」もアリの気がする〉とのことですが、現実にそう考える人が「〜しなかったです」を用い、この語形も一定の勢力を持っています。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 16日 土曜日 02:55:59)
> 足元をすくふて行くや月の汐
これは、足元の砂をすくって行くのか、月夜の潮よ、ということでしょうから、用例としてはまずいかもしれませんね。したがって、古い例はちょっと不明です。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 16日 土曜日 03:00:12)
> これは、足元の砂をすくって行くのか、月夜の潮よ
「足元の砂をすくって行くよ、この月夜の潮。」とすべきでしょうね。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 16日 土曜日 09:25:51)
検索してみると、司馬遼太郎『国盗り物語』「道三桜」で「凌ぎあう」が出てきて、「これは」と思ったのですが、「ともに〈風雪を凌ぎ〉あってきた」ですね、これは。
将軍|宣下(せんげ)には、手続の日数が要る。その朝廷に対する交渉には、この方面に面識の多い細川藤孝が主としてあたり、和田惟政と光秀がそれをたすけた。いずれも永禄八年、奈良一乗院から義昭を脱走せしめて以来、風雪をともに凌(しの)ぎあってきた同志であった。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 17日 日曜日 09:43:15)
「あしもとをすくう」の用例は、たまたま昭和30年代前半の用例ばかり。
井上梅次・西島大和「嵐を呼ぶ男」昭和三十二年 日活作品(シナリオ大系)
ようし、わかった。余り大きな顔をして歩くなよ。その内足許をすくわれるぜ
以下は、新潮文庫の絶版CD-ROMより。
石川達三『人間の壁』
その二つの組織内の勢力が、互いに相手の欠点を補うかたちで生かされて行く時はよいが、相手の足元をすくうかたちで現われてくる時には、日教組の勢力は二分される。
石川達三『人間の壁』
津田山東小学校のPTAの役員たちは、思いあがった要求をもち出して、そのためにかえって教師たちに足元をすくわれ、大したこともなく引きあげて行ったが、県全体のPTAの動きは、そんな手ぬるいものではなかった。
川口松太郎『新吾十番勝負』
と、飛び込んで足元をすくった。
守沢良 さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 18日 月曜日 01:54:23)
こちらのスレッドがございましたね。以前のぞいたことがありましたが、失念しておりました。お手数をおかけいたしました。
いろいろとご教示ありがとうございました。
「足元をすくう」は、こんなに古くから実例があるのでは、誤用と決めつけることはできないんでしょうね。「足をすくう」「足元をすくう」の両方アリというのは、なんか気持ちが悪い気もしますが……。
バタバタの日々が始まって、ゆっくり読み書きする気持ちのゆとりがありません。取り急ぎ御礼まで。
しばらく前に同様のコメントを送ったつもりになっていたので、もしかするとダブってしまうかも……。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 15日 水曜日 22:05:48)
上の「しのぎ合う」について、記事の前段を確認したのを転記しておきます。
一方の鈴木〔桂治〕は堂々とした試合内容。成長を強く印象付けた。世界への代表切符は逃したが、「王者」対「挑戦者」だった2人の立場は、並んだと見ていい。2人がしのぎ合うことは、日本柔道界に大きなプラスだ。〔山下泰裕の目〕(「朝日新聞」2003.04.08 p.16)