論文とか本をおしえていただけますか。インターネットではどこにはいればよろしいでしょうか。
にほんのみなさんはどちらをたくさん使っていますか。知りたくて、知りたくて。
お願いします。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 28日 火曜日 22:04:09)
日本人が、実際にはどういうときに「ぼく・おれ・わたし」を使っているかについての論文というのは、知りませんが、もしあれば、私も読んでみたいと思います。
最も基本的な解説書ということでしたら、森田良行『基礎日本語2』(角川書店)の中に「わたし・わたくし・ぼく・おれ」などのごく簡単な使い分け方が載っています。また、複数の「わたしたち」についてはやや詳しく説明しています。『基礎日本語辞典』という名前でも出ています。
「国文学論文目録データベース」で「一人称」「僕」などのキーワードで調べてみましたが、あまりこれといったものが出てきませんでした。
私(30代、男)は、偉い人の前では「わたくし・わたし」。先輩などの前や、仕事で人前に出るときは「わたし」で、ときどきうっかり「ぼく」と言います。プライベートでは「ぼく・わたし」がまぜこぜ(このあたり曖昧)、年下の友人の前では「ぼく」。独り言を言うときは「おれ」(「何をやってるんだ、おれは」)。仮に友人とけんかしたら「おれ」と言うかもしれません。私の場合は、あまり標準的ではないと思います。
森川知史 さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 28日 火曜日 22:32:16)
一言。
大人が「ぼく」を使うときは、プライベートだけとは限らないことに注意して下さい。特定の職種-議員、医者、弁護士、大学教授等々が必ずしもプライベートとは限らない場面で使うことがあります。
元々、「ぼく」「きみ」「〜君」という表現が明治の書生ことばから始まった特権的な意味合いを含んでいたことの名残でしょうか。今でも、日本の国会では議長が「内閣総理大臣〜君」と指名しています。
後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 28日 火曜日 23:22:01)
桜井隆「おれ」と「ぼく」
現代日本語研究会編 2002 『男性のことば・職場編』ひつじ書房. pp.121-132.
→ ひつじ書房の新刊の紹介
キル さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 29日 水曜日 00:16:23)
ありがとうございます。
でも「おれ」と「ぼく」は経済的な状況とか性格とか地位とか、教育をどのくらい受けた人とかによって違ってくるという人もいらっしゃるようですが、どうでしょうか。たとえば村上春樹氏のような人はぜったい僕のイメージだと言ってましたが、それはどうしてでしょうか。
それから、同じ作品を翻訳するとしたら、主人公を「おれ」にするか「ぼく」にするかによってぜんぜん違う感じになってしまうというそうです。何となくはわかるような気もしないのではないですが、とてもあいまいなので難しいです。
それから「おれ」と「ぼく」ということばはいつから使いはじめたのでしょうか。
外国人の私にはには少し理解しがたく思われました。ぜひ教えてください。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 30日 木曜日 07:34:28)
「おれ」の方が乱暴な感じ。「ぼく」のほうが優しい・丁寧な感じ。
同じ人でも状況によって使い分けることがあります。
「おれ」は普段着のタンクトップ、「ぼく」はよそ行き、といっても礼服まではいかない感じ、といったところでしょうか。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 29日 水曜日 22:53:05)
この1週間ほどの「朝日新聞」の文章に、〈自分は大人になっても「ぼく」を使っているが、人から「ぼく」は大人になってから使うものではないと言われ、……〉といったようなエッセーが載っていたと記憶します。
ところが、新聞記事データベースで「僕」「ぼく」「ボク」「大人」などいろいろなキーワードで検索してもそれらしいものが出てきません。気づいたときに保存しておかなかったことを後悔しています。記事は気づいたら破って取っておくべきですね。
もし、上のような記事についてご記憶の方がいられましたらお教えください。
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 31日 金曜日 02:34:14)
2週間分の朝日新聞(朝刊・夕刊)をひっくり返してみましたが、気付きませんでした。
貴乃花が引退の夕刊(20日)、曙は「オレ」、若乃花は「ぼく」、貴乃花は「私」と自称した話が載りました。
それとは関係ないですよね。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 31日 金曜日 04:45:24)
skidさんへ、新聞をひっくり返していただいたとは、たいへん恐縮です。私の勘違いだったとしたら、申し開きができませんね。しかし、この1週間は、とくに雑誌も買わず、妙なエッセー集も買わず、心当たりは新聞だけです。しかしデータベースにもないのですから心もとない話です。曙・若乃花・貴乃花の記事は記憶にありますが、それではありません。どうやら、私のモヤモヤをお裾分けしてしまったようなことになりました。
畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 31日 金曜日 21:40:42)
本題から多少 反れますが、「僕」について。
常時、「僕」を使っているのは、大橋巨泉と永六輔。
道浦さんが言われるとおり普段着・礼服論に私も同感ですが、この2人は普段着であろうと礼服であろうと「僕」を使っているようです。
蛇足ながら巨泉氏は、著書や新聞等で「ボク」となぜかカタカナを使っています。なにか意図があるのでしょうか。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 03日 月曜日 17:25:34)
意図的に「僕」「ボク」を使う人は、いても不思議はないですね。
永六輔、おおは死去せん・・・失礼、大橋巨泉の両氏は、共に既存の「権力」「概念」に対して「不服従」の姿勢を「生き方」として来た方ですから(表現方法は、2人は違いますが)、その姿勢を表わす言葉としての「ボク」は、「相手によって使い分けはしないよ。ボクはボクなんだ」という意思表示ではないでしょうか。
また「ボク」とカタカナにする方が、より親しみを感じさせることができるかと。
今読んでいる、金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波所連2003・1・28)がそのあたりの関連について記しているようです。(余談ですが、この本、なぜか最後に「白紙」」が6ページくらいついているのですが、メモ用紙?乱丁?)
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 04日 火曜日 01:18:08)
↑(岩波所連)は(岩波書店)です。ゴメンナサイ
キル さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 04日 火曜日 13:08:03)
「僕」ということばは老人になってからも使うことができますか。子どもの場合も「俺」ということばを使っているのを聞いたことがありますが。。。家族の影響もあるでしょうね。
もし小説の中で主人公が独白するとき、「僕は...」というときと、「俺は...」というときと、「私は。。。」というときと、読者としてはどんなイメージが浮かんでくるでしょうか。
もし小説の中の主人公が百姓だとしたら?教授だとしたら?セールスマンだとしたら?中年の労働者だとしたら?年寄りの労働者だとしたら?地主だとしたら?小作人だとしたら?偉い殿様だとしたら?
あるいは子ども、大学生、などなど。。。あなただったらどのことばをおつかいなさるでしょうか。
もしある人が私と話すとき、「俺」といったとしたら、あの人は私に親近感を持ってお話になったのだと推察し得るでしょうか。
岡島 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 04日 火曜日 13:26:56)
キルさん
「論文を準備」ということであれば、道浦さんご紹介の金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』は、是非、手に入れて読んでください。御疑問がずいぶん解消されるのではないかと思います。
→ ヴァーチャル日本語 役割語の謎
キル さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 04日 火曜日 13:37:41)
ご紹介していただいてありがとうございます。
是非、手に入れて読んでみます。
いいホームが見つかってうれしいです。これからもいろいろこのページを通じて勉強させていただきたいと思います。よろしくお願いします。
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 04日 火曜日 22:55:48)
「俺」か「僕」か「私」かは、ある程度は年齢や職業や話す相手などによっても違ってくると思いますが、どれを使うかは個人の好みでけっこう異なるのではないでしょうか。
もちろん、それは現代のはなしで、時代が違えばその傾向も違ってくるはずです。
貴乃花の場合は、最初は「ぼく」だったのが横綱になるあたりから「私」が増えて、ある場面では「おれ」も使っていたそうです。
私は親しい友人と話しているときでも、「オレ」は特にふざけた言い方をするときでなければ使いません。
Yeemarさんほど丁寧な言葉遣いではないにもかかわらず。
話相手が「オレ」と言ったら、相手にもよりますけれど、親近感というより普段からぞんざいな感じなんだろうな、と推測します。
それほど気になるわけではありませんが……。
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 12日 水曜日 18:44:25)
中公新書ラクレの『新日本語の現場』(橋本五郎監修、読売新聞日本語企画班、2003)に“照れるがゆえの「オレ」”という項目があります。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 12日 水曜日 18:53:44)
うちの5歳の息子は、普段は自分のことを「かずくん」と呼んでいるのに、「オレがオレが」と普段から口にしている「ちょっと元気な男の子」と遊ぶ時には、つられて「オレ」と言います。「オレ」と言うと、振る舞いまでちょっと乱暴な感じになるのが、見ていておもしろいです。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 12日 水曜日 20:31:23)
上記の金水著書では、人格によってオレとボクを使い分ける主人公が登場する漫画として、手塚治虫『三つ目が通る』の他に、『遊戯王』(「遊技王」は誤変換)『名探偵コナン』を挙げています。
二重人格ものの小説ではどうかと思ったのですが、例えば、筒井康隆『俺の血は他人の血』はずっと「俺」ですし、『男たちのかいた絵』の「二人でお茶を」もずっと「俺」です。しかし、「二人でお茶を」を原作にした映画「男たちのかいた絵」(トヨエツ主演)では、気の弱い杉夫がボク、気の荒い松夫がオレであったようです。
ノベライズした『写真小説 男たちのかいた絵』(文 花田秀次郎 徳間書店1996.4.30)を見ると、地の文でも使い分けています。
脚本は神代辰巳・本調有香・伊藤秀裕であるようです。
なお、本の帯には「僕は、おれは、誰だ?」とあります。「1996年5月より全国ロードショー」ともありますが、私は国語学会が東京(青山)であった時の日曜の夜に時間があいてしまい、この映画のことを思い出し新宿でみたと思います。たしか土曜日には断筆中の筒井康隆朗読会があったのでした。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 12日 水曜日 20:50:03)
小松左京「男を探せ」(新潮文庫『春の軍隊』など)では、二重人格的に「おれ」と「あたし」が登場します。似た話はいくつかありますね。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 04日 火曜日 15:02:29)
堀晃「最後の接触」(『太陽風交点』所収)では、「私」と「おれ」に分かれます。知性のあるのが「私」、ないのが「おれ」です。
そういえば、十年ほど前にパソコン通信のPCVANのオリエントというところで話題になったことがあるのですが、歌謡曲に於いて、男性が主体である場合には「おれ・おまえ」「ぼく・きみ」であり、女性が主体である場合には「わたし・あなた」であるのが普通だ、という指摘がありました。男性歌手が女性の立場で歌っているのだと明示することができるのは、この違いがあるからのようです(「−の」等の女性的言い回しもありますが)。
松本隆作詞の太田裕美「木綿のハンカチーフ」「さらばシベリヤ鉄道」で、男女掛け合いがわかるのも同様です。
例外は少なく、海援隊の「贈る言葉」が、男性主体でありながら「わたしほど、あなたのことを、深く愛した奴はいない」というのがあります。
「わたし」だけ出てくるのでは「時には娼婦の様に」、「あなた」だけ出てくるものでは、井上陽水「心もよう」が、男性主体の歌であるようです。
男性が歌っていますが、男女どちらでもよいものとしては、財津和夫「切手のない贈り物」があります。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 04日 火曜日 17:12:58)
むかし、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』という小説を読んだことがありますが、医学の力で知能が急に高くなって、また後退してゆく青年の話です。邦訳(小尾芙佐)では知能の高下にあわせて「ぼく」「私」が使い分けられていたと記憶します。
岡田奈々「青春の坂道」(松本隆作詞)では、「淋しくなると訪ねる 坂道の古本屋 立ち読みをする君に逢える気がして」で始まり、先のほうでは「青春は長い坂を登るようです だれかの強い腕にしがみつきたいの」とあるので(文字遣いは不確かです)、さあ男性が主体だろうか女性だろうか、と迷うのですが、これは勝ち気な女の子が相手の男性を「君」と言っているのであろうと思います。
岡本真夜、真名杏樹作詞「TOMORROW」は「見る者すべてに おびえないで/明日は来るよ 君のために」。これは女性が友人の女性を「君」と言っているのでしょうか。岡本真夜さんはほかにも「一年ぶりだね 君を待つエアポート/両手いっぱいの荷物 振りながら」(そのままの君でいて)とあったりして、「君」の愛用者でしょうか。
グループ「Every Little Thing」のボーカルは持田香織さんで女性ですが、「Face the change」(Mitsuru Igarashi作詞)では「いつか笑顔が/君に届くように…」とあります。「黒いベロアのワンピース/欲しくておねだりよくしたね/「お前が着ても似合わない」と/ひやかすばかりで…」とあるからには女性が主体なのでしょう。「NECESSARY」(Mitsuru Igarashi作詞)では「相変わらずに〔ママ〕/歩幅 合わせちゃうなんて/今日も やっぱり/君は 素敵でした」とあるからには女性が主体でしょうが、「世界で一番/今 君を愛してる」と「君」が使われています。
広末涼子「明日へ」は、「「またね」と手を振る君が小さくなってゆく/信号が青に変わる 私も歩き出す」ですが、作詞・岡本真夜とありますから、上記を合わせ見て納得したことでした。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 04日 火曜日 17:14:56)
正誤 ×見る者すべてに ○見るものすべてに
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 04日 火曜日 19:15:11)
女性主体の「君」も、けっこうあるようですね。
昔のlogを見ていたら、「有楽町であいましょう」も男性からの「わたし・あなた」でありました。また、松本隆・太田裕美の男女掛け合いには「赤いハイヒール」もありました。
で、私のまとめを見てみると、
【俺・おまえ】
【僕・きみ】
【僕・あなた】
【私・あなた】
以上はごく多数。以下ちょっと変ったやつ。男女関係でないのもあります。
【俺・君】
西城秀樹「ジャガー」阿久悠
吉川団十郎「ああ宮城県」
石橋正次「歩道橋」丹古晴巳
【俺・あなた】
森進一「冬の旅」阿久悠
【私・おまえ】おまえは2例とも動物。
ピーター「夜と朝の間に」なかにし礼
内藤洋子「白馬のルンナ」松山善三
【私・きみ】文語調
平野愛子「君待てども」東辰三
【わ・きみ/あなた】
水原弘「君こそわが命」(川内康範)
男性の「僕・あなた」は結構あるようでしたが、陽水の「心もよう」は自称も「わたし」でありました。
田島照生 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 05日 水曜日 22:43:25)
いまや神格化した感のある森田童子ですが、彼女の歌も「たとえばぼくが死んだら」でしたね。
「森恒夫と〈ぼく〉の失敗」(大塚英志著『「彼女たち」の連合赤軍』所収。角川文庫,2001)で大塚氏は、「〈ぼく〉の輪郭は、それを自己像とする世代から紡ぎ出され定型化したのでさえなく、最初からパロディないしは擬態としてのみ上の年代によって定型化されてしまっていた」(p130)と書いており、〈ぼく〉をフェミニズムにおける「私」のあり方と区別しています。そして、この〈ぼく〉が「吉田拓郎や井上陽水らのフォークソングの中の〈ぼく〉」から「七十九年の村上春樹の〈ぼく〉」へと連なっていくその過程を読み解いています。つまり、大塚氏の論考は「僕」のパロディとしての側面に注目しているといえるので、なかなか興味ふかいです。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 13日 木曜日 01:40:24)
ディック・ミネの「ダイナ」(三根徳一〔ディック・ミネ〕訳詞、1934)は
ダイナ 私の恋人……おー 君よ……我に囁き……君の瞳……我が胸 ふるえる 私のダイナとあり、【わ・われ・わたし/きみ】という賑やかな例です。
賑やかといえば、菅原都々子「憧れは馬車に乗って」(清水みのる作詞、1951)は
やさし愛の調べ 君よ共に歌お/私のあなた あなたの私であって、【わたし/きみ・あなた】の例。
文語と口語のまぜこぜソングでは、呼称にも混乱が生じるのでしょう。霧島昇・高峰三枝子がかけあいで歌う「純情二重奏」(西条八十作詞、1939)では、高峰のパートで
君もわたしも 孤児{みなしご}のとあり、【わたし/きみ】の例。同様の例、二葉あき子「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫作詞、1947)。
久保幸江・楠木繁夫のかけあい「トンコ節」(西条八十作詞、1951)は男が女に対し「きみ・おまえ」、女が男に「わたし/あなた」。
コロムビア・ローズ「娘十九はまだ純情よ」(西条八十作詞、1952)は女が相手のことを「きみ・あなた」。
【ぼく/きみ】の歌の古い例は? 藤山一郎「僕の青春{はる}」(佐伯孝夫作詞、1933)あたりはどうでしょうか(「僕の青春 君の青春 躍る胸」)。笠置シヅ子が「君も僕も 愉快な東京ブギウギ」と歌っているのは女性の【ぼく/きみ】の古い例でしょうか。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 13日 木曜日 01:48:14)
昔の歌では、一人称・二人称をあまり使わなかったらしいことは、中野洋氏等の調査にあり、また、今は事情がかわり、使用語彙の上位は「君」とか「あなた」とかである、ということをホームページに書いたことがありますので、ついでにリンクをさせていただきます。
→ 歌謡曲の「君」と「夢」
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 13日 木曜日 20:44:46)
おおYeemarさん、調査報告有り難うございます。
男女掛け合い、という程ではなく、男の「ぼく/きみ」の中に女の「わたし」の引用があるもので、小田和正作詞作曲の「さよなら」がありました。そういえばこの歌は、いいたいことはわかるがわかりにくい歌詞がありました。
僕のかわりに君が今日は誰かの胸に眠るかもしれない
で、いいたいのは「僕のかわりに誰か」のはずですが、「僕のかわりに君が」のように聞こえ、普段は「僕」が誰かの胸に眠っているように聞こえるというものでした。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 22:16:27)
藤田宜永『ラブ・ソングの記号学』角川文庫1985.8.10
に「“ボク”と“オレ”の関係」と題した章があり、歌謡曲における両者についてちょっとした考察がしてあります。
→ 藤田宜永『ラブ・ソングの記号学』アマゾン
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 12日 日曜日 01:10:46)
「俺と君」の歌を補います。
ラッツ&スター Tシャツに口紅 松本隆作詞
以下は、歌本より。
新川二郎 君は俺の命 永井ひろし作詞
石原裕次郎 夜霧の慕情 大高ひさを作詞
バーブ佐竹 心のしずく 利根常昭作詞
(平凡ソング歌のヤングヤングパレード1967.5)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 12日 日曜日 01:54:33)
上で
> 「純情二重奏」(西条八十作詞、1939)では、高峰のパートで/君もわたしも 孤児{みなしご}の/とあり、
と書いたのは間違いで、この部分(2番歌詞)は霧島昇が歌うのです。よって男が女にということになります。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 13日 月曜日 00:56:51)
【僕・おまえ】
真木不二夫 泪の夜汽車 板倉文雄作詞 (恋仲)
(『のど自慢 演芸十八番集』昭和28.2.10)
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 12月 30日 火曜日 10:03:38)
丸谷才一「ラの研究」(『青い雨傘』文春文庫p22-36)によれば、沢木耕太郎『ワシの研究』というのがあるらしく、
沢木さんはまづ、スポーツ新聞的紋切り型の典型として、江夏豊さんのコメントではかならず一人称単数が「ワシ」となるといふことをあげる。