2003年06月01日

家庭 ということばについて(角田圭子)

最近読んだ「裏庭」(梨木香歩さん)という本の中に、イギリス人の発言として、日本ではホームのことを「家庭」という。家の中に庭があるという非常に心理的な意味合いの深いことばである、と書かれてあり、気になってしまいました。明治時代の訳語なのでしょうか? それとも古くからあることばでしょうか。広辞苑をひくと出典は「高允の徴士頌」とありますが、これもまったく意味がわかりません。
「学びの庭」などということばもあり、なにかの場所を「庭」とよびならわすのは伝統的な日本語なのでしょうか? 


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 23:05:04)

まず「高允の徴士頌」というのは、中国の高允という人の「徴士頌」という文章に出てくるということでしょう。これが出典というわけではなく、これにも出てくる、という程度のことでしょう。『日本国語大辞典』には「宋史」章得象伝の例が出ています。

『日本国語大辞典』の記述からすると、昔の中国語として、「家庭」は屋敷内の建物の前の場所を指していたものと思われます。ずっと時代が下り、「明治二〇年代(一八八七〜九六)に入ると、(日本で)雑誌を中心に「家庭」の語が頻繁に登場するようになる」「「家庭」をホームの訳語とする意識も生まれる」ということです。まあ、homeの訳語として、昔の中国語の「家庭」ということばを持ち出して当てたというふうに考えて良いのではないでしょうか。

「家庭」は、家の中に庭があるわけではなく、家プラス前庭というほどの意味だろうと思います。そう考えれば、それほど奇異なことばではありません。

「家庭」「朝廷」「法廷」「宮廷」などの「庭・廷」は、中国語では広場とか庭とかいう意味で使われていたのでしょう。また、日本語の「ニハ」も、これが変化して「バ(場)」になったという語源説が正しいとすれば(たとえば、「饗庭」さんという人がいますが、「あえば」と読む)、gardenだけでなくplaceも指したのでしょう。もっとも「学びの庭」「教えの庭」などは比較的新しいことばのようです。


masakim さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 04日 水曜日 07:57:13)

平凡社の『大辞典』では王僧孺の徐府君集序から「事顕家庭、声著同族」を引用しています。

樺島忠雄・飛田良文・米川明彦『明治大正新語俗語辞典 新装版』(東京堂出版 平成8年)では

   かてい【家庭】[英homeの訳語]夫婦・親子を中心とした血縁者の最小集団。家族。一家。この語は屋敷内の庭の意であったが明治二〇年代後半から三〇年代にかけて、家庭改革の風潮に伴いhomeの訳語として一般化した(半沢洋子「かてい(家庭)」『講座日本語の語彙9』参照)。

と説明し、明治4年から昭和11年までの6用例をあげています。

なお現代中国語でも家庭という語はhomeの訳語として使われているようです。

   home n 1 a the house where one lives 家;家庭... 2 the house and family one belongs to 家庭. (『朗文當代英漢雙解詞典』香港 朗文出版(遠東)有限公司 1988年)


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 28日 土曜日 06:55:44)

> 『日本国語大辞典』には「宋史」章得象伝の例が出ています。

この「宋史」は「宋・元・明・清」の宋で、比較的新しいですね。

> 中国の高允という人の「徴士頌」

は、新村出が六朝の文章だと説明しています。『広辞苑』の記述は新村自身の研究が反映されているわけです。

 支那で家庭という文字が見えるのは六朝の文章からである。第一は『全後魏文』巻二十八に収録されている高允の「徴士頌」の詞の中に「「怡{ゐ}々{タル}昆弟、穆{ぼく}々{タル}家庭」とある文句であって、私たちが用いる家庭の意義に近い。高允は渤海の生れの還俗僧で後魏の太和十一年(西紀四八七年、日本の顕宗三年)に歿した人で、文集二十一巻があったが、「徴士頌」は、斉の魏収の撰した『魏書』巻四十八「高允伝」から転載したものである。次には『全梁文』巻五十一に載せてある王僧孺という文人の『Щ�{せんじ}徐府君集序』に見えるところの「事顕{シ}2家庭{ヲ}1、声著{ス}2同族{ヲ}1」という文句である。この文は唐の欧陽詢が編した『芸文類聚』巻五十五巻より収録したのである。王僧孺は梁の普通三年(西紀五二二年、日本の継体十六年に歿した人である。唐宋以後、家庭という文字はしばしば用いられたことと思うが、元の脱々等の編した『宋史』巻三百十一「章得象伝」に、得象の父奐{かん}が家庭に笏を積むこと山のごとくなりしを夢に見た逸話がある。これら以外の用例は私の直ちに見出しかねるところであるから、その増補は後日に期待せねばならぬ。
(「家庭という語」『語源をさぐる』講談社文芸文庫)
つまり「徴士頌」→「徐府君集序」→「章得象伝」の順で古いのです。

また

> もっとも「学びの庭」「教えの庭」などは比較的新しいことばのようです。

これは間違いで、上記・新村の文章に拠れば、

定家の『拾遺愚草』の歌にも、「教へし庭の道の月影」の文句が見え、勅撰集には『続古今』をはじめ、『新千載』『新拾遺』『新後拾遺』より『新続古今』に至るまで、また『新葉集』にも「庭の訓へ」とか「教への庭」とかいう句が散見する。
とあり、「おしえの庭」はけっこう古いようです。「庭訓」〔庭の訓へ〕が古いのは分かりますが「おしえの庭」も古いのでした。しかし「まなびの庭」はやはり新しいのではないでしょうか。


posted by 岡島昭浩 at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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