辞書で「冷や水」を引くと「冷たい水。れいすい」などと書いてあって不親切です。「冷や水」と「冷水」のニュアンスの違いについてご意見をお聞かせください。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 19日 木曜日 20:06:49)
「ひやみず」は年寄りが飲んで腹をこわすものですね。あるいは福岡県にある峠。
浴びせて冷たくするのは「れいすい」だと、私は思います。。
UEJ さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 19日 木曜日 23:16:58)
私の語感は実は逆で、浴びせるのは「ひやみず」です。
「れいすい」だと単に「冷たい水」の意味しか持ちません。
地方や世代によって違うのでしょうか。
広辞苑(CD-ROM版)では「冷水を浴びせる」の読みは「ひやみず」とされています。
新明解(Bookshelf 3)では「れいすい」「ひやみず」どちらの項目にも
「冷水を浴びせる」の用例が載っています。
masakim さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 20日 金曜日 05:43:51)
『明鏡国語辞典』(大修館書店 2002年)の「れいすい(冷水)」の項には
「―を浴びせる(=意気込んでいる人のそばで、いきなりその気勢をそぐような言動をする)」
という用例がありますが、「ひやみず(冷や水)」の項には「年寄りの―」の例しかありません。
これは私の語感と一致するのですが、念のため『類語大辞典』(講談社 2002年)を調べてみると、「冷水(レイスイ)」の項に「〜を浴びせられたようになる」という例は載っているののですが、「冷や水(ひやみず)」の項に
「景気回復に冷や水を浴びせる急激な円高」のように、ある勢いを弱める物事の意で比喩的に用いられることが多い。
と説明されており、「ダスキン再生に冷や水」も”適当な表現”であるようです。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 20日 金曜日 21:18:07)
「新潮文庫の100冊」などのデータベースで見てみると、「冷や水」は検索されず(?)、「前身に冷水を浴びせられたように」などと、ショックを受けるなどの場面でつかわれる例が大多数です。ところが、この「冷水」は「れいすい」と読むのか、「ひやみず」と読むのか。ルビがないので分からない部分もあります。
やや話がそれるかもしれませんが、「年寄りの冷や水」は、年寄りが冷や水を浴びるのでしょうか、それとも、飲むのでしょうか。『日本国語大辞典』には「(老人が冷水を浴びることの意)」と書いてあります。ところが、例文の歌舞伎・善悪両面児手柏(1867)には「譬にも言ふ年寄(トシヨ)りの冷水(ヒヤミズ)〔ママ〕、水よりお茶にしなさんせいなあ」とあり、「老人が冷水を飲むのはよくない、お茶にしなさい」と言っていると解釈されます。
テレビの健康番組か何かで、「飲むということなのだよ」と言っていたような気もしますが、よく覚えていません。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 21日 土曜日 00:11:28)
私は、ひやみずは飲むものであると思っていましたので、「年寄りの冷や水」は腹をこわす結果になると思っていたのです。一方で「水浴び」の意味も知っておりましたので、「冷水をあびせる」を「ひやみず」と読む背景に、この諺の意味の変化もあるのではないかと、今回考えたことでした。
ただ、私は「ひやみず」は飲み水のような気がするので、「ひやみずをあびせる」というと、麺類を茹でているときに吹きこぼれを防ぐために注ぐ水、いわゆる「びっくりみず」をかけているように感じてしまうのです。
「れいすいをあびせる」であれば、熱くなっている鉄板などを冷やしている樣子が目に浮かび、これこそが「冷水を浴びせる」ように感じます。
masakim さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 21日 土曜日 05:32:38)
「年寄(としより)の冷水(ひやみず)」に関しては『岩波ことわざ辞典』(2000年)は
原意について、年寄が水浴びするのだという説と、冷水を飲むことだとする説が、明治時代から言われていた。イメージからは、水浴びの方が無謀さが強く感じられてもっともらしい気がする。ところが、江戸・明治時代の少なくない文例や図像資料を見た限りでは、水浴び説の裏付けとなるものは出てこず、水飲み説のものばかりだ。
とし、年寄が冷や水を飲むところを描いた明治時代の江戸系いろはカルタの画像を載せている。
この諺をもじった川柳に
水売りも爺いはぬるいように見え(川傍柳4-33)
年寄の冷水でない美濃の滝(柳多留26-20)
年寄の冷水売りははやらない(柳多留30-23)
年寄に汲む冷水は酒と成り(柳多留101-1)
などがあります。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 21日 土曜日 10:30:41)
masakimさん、有り難うございます。
>年寄の冷水でない美濃の滝
というのは養老の滝のことでしょうが、これも、養老の滝の水を飲んで長生きしようとしている、いうことなのでしょうかね。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 21日 土曜日 14:01:30)
さっき読み終わった米原万里著『魔女の1ダース』(新潮文庫)のサブタイトルが
「正義と常識に冷や水を浴びせる13章」
でしたが、この米原さんが「師匠」と読んでいる徳永晴美さん(=男です)は文庫のあと書きで、この本には「下ネタ」が豊富で、その「下ネタ」が、
「哲学、言語学、心理学、文化人類学的な文み脈で顔を出し、『常識』に冷水を浴びせる」
と書いています。徳永さんは「レイスイを浴びせる」と読ませるつもりだと思います。
本のタイトル及びサブタイトルは、編集者が付けた可能性が高いのですが、著者である米原さんも了承しているであろうことから、米原さんの感覚では「冷や水を浴びせる」でOKだったのでしょう。しかし、師匠の徳永さんの感覚は「冷水」だったのではないでしょうか?
1冊の本に両方出てきて、しかもこの話をしている時にこんな本を読むなんて、奇遇だなあと思いました。