「ご存知」は正しくは「ご存じ」でなければならない。「ご存知」は「ご存知!旗本退屈男」で広まったともいわれるが、誤用である。という説を伺いました。
「存じる」ですから「ご存じ」でかまわないのは当然ですが、「存知」ということばも古くからあり、それに「ご」をつけた「ご存知」もかまわないはずです(ただし旧仮名遣いは「ごぞんぢ」になりますが)。虎寛本狂言にもあるといいます(『日本国語大辞典』)。
とりわけ面妖なのは“「ご存知!旗本退屈男」で広まった”という箇所で、どこから出た説かと思います。そう申し上げると、「しかし上司もそのように申しておりました。ウェブでも見ました」とのことでした。
このドラマは、「テレビドラマデータベース」によれば1988年に放送されて以降シリーズ化したようですから、ここ10年前後の説ということになりそうです。「ご存知もの」といわれ人気を博したゆえですね。それにしても新しすぎる。
そこでウェブを見ると、
最近まで「ご存知」という表記は「ご存知! 旗本退屈男」が元で広まった、と思い込んでいましたがそれは間違いみたいです。(あかぅんたれ)というのは見つけました。この説がいろいろなサイトで見つかったというわけではありませんが、深く静かに信じられているのかもしれないと思います。何か影響力のある情報源が存在するのではないかと疑います。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 19日 土曜日 21:20:08)
> ただし旧仮名遣いは「ごぞんぢ」になりますが
現代仮名遣いでも連濁扱いになるので「ごぞんぢ」でしょうか。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 20日 日曜日 09:04:37)
いや、やはり「ご存知」も「ごぞんじ」で、「ごぞんぢ」は許容ですね。「世界中(せかいじゅう)」「融通(ゆうずう)」と同じく。「天智天皇(てんじてんのう)」も。この点は「うなずく」で議論されています。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 20日 日曜日 11:08:42)
御存知一心太助(福田善之)昭和42
御存知源氏小僧(伊丹万作)昭和6
などという作品があるようです。これは、〈「ご存知!旗本退屈男」の出所〉ですね。
さて、私が、〈「ごぞんじ」というのは「御存知」と書きたいだろうが「御存じ」と書かなくてはならない〉というのを読んだのは、高校生か遅くとも大学教養部の頃ですから1970年代の後半です。マスコミによって「ご存じ」が定着しかけていたのに、時代劇により復古的(?)な「ご存知」が使われて目を引き、これから広まった、と誤解されたものでしょうか。
「ごぞんじ」を「ご存じ」でなく「ご存知」で書きたいのには、節用禍的なものもありましょうが、「存じ」には謙譲語的なものを感じ、尊敬語であってほしい「ごぞんじ」と馴染みにくい、という面もあるのかな、と思っていました。
しかし、謙譲語的な「存じ」を「存知」と書いた例も沢山あるのですね。「存知ません」のような。
豊島正之 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 20日 日曜日 12:49:43)
「存知ません」は、サ変動詞連用形を「ぢ」で書いているのか、はたまた
サ変動詞をまるごと省略してしまったのか、興味深い処です。
サ変まるごと省略例は、「存知奉る」が中世から見えます。類例「養子(ヤウジ)
仕る」が、確か「本福寺跡書」にあったと思いますが、ちょっと出て来ません。
豊島正之 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 20日 日曜日 13:17:58)
「本福寺跡書」開巻劈頭でした。「御養アレト申程ニ養子(ヤウシ)奉(タテマツ)
リ」(括弧内は原本の振り仮名)。(日本思想大系17「蓮如・一向一揆」p.187)
「養子仕る」では類例になりません。調べてから書けばよかった。失礼しました。
「古今著聞集」に「制止給ふ」というのもありますが、古写本を得ないので存疑。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 20日 日曜日 17:04:30)
「ご存知」を不可とする説の根拠を私なりに推測すれば、「ご承知」「ご報知」「ご通知」など「ご+漢語」はみな「チ」になり(ただし「ご下知」は「ゴゲジ」も)、「ジ」と発音するのは「ご案じ」「ご談じ」「ご判じ」など、みな動詞連用形であるということもあるのでしょう。たしかに「ご存じ」の表記のみを認めるほうが整然とします。
このような説は、戦前の仮名遣いのもとであっても、生まれ得たと思います。でもやはり戦後のものでしょうか。ちなみに文化庁『言葉に関する問答集』に「「御存じ」か「御存知」か」が載るのは1984年(問答集10)のことです。岡島さんがご覧になった例には遅れます。
それにしても「旗本退屈男」が引き合いに出されるのは荒唐無稽にすぎます。それを大まじめに書いてある本などがあるとすれば、知りたいものと思います。もっとも「旗本退屈男のタイトルにも使われていますが……」という文章が、伝言ゲームでいつの間にか「旗本退屈男から広まった」となったのでしょうか。
「沙石集」には「アワレ制止給ヘカシ」もありますね(『日本古典文学大系』)。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 21日 月曜日 14:51:16)
すこし脇にそれますが、橘守部『俗語考』(全集9p297)、
存(ゾン) 今奉存候など云存は、存在とつゞきて、物のそのまゝに在を云。今思ふと云所を存ずるといひて、奉存候などいふは、存知の二字の意なるを、知を一字省きしより其義遠くなりつる也。但し存といひならはしたるも久しきことなり。明月記「嘉禄元年十二月廿三日云々。答云。本自存此由不顧涯分可申入由。許譲退出云々」
「存知」と書くべきだといっているわけではなく、語源的に「存知」だといっているのでしょう。
さて、「存知ます」の例、小杉天外『はやり歌』第九
「筆、誰にも知れやしないかい?」
「は、何誰(どなた)も存知ませんよ。まア、お入り遊ばしまし。」
花田清輝もあるようです。
あと、安田章氏なのか、『隣語大方』なのか未確認なもの(手許のデータ管理の不備で)。「存知ますまい」