・『日本国語大辞典』では「(洋語 ハヤシは、考案者である丸善の創業者、「早矢仕(はやし)有的」の名から、ライスは、英 riceという。また一説に、洋語 hashed rice からとも)《ハイシライス》」とあり、用例は「*放浪時代(1928)〈龍胆寺雄〉」「*古川ロッパ日記-昭和九年(1934)三月一日」。
・丸善ホームページの「丸善の歩み」では、1869年に「創業者 早矢仕有的は師事する福澤諭吉のすすめにより丸屋商社を横浜に創業、書籍・文具・洋品雑貨を販売」。ハヤシライスについては、「丸善特選グッズ」に
明治の初期、丸善(株)創業者・早矢仕有的(はやし・ゆうてき)が考案したとされる「ハヤシライス」。本格デミグラスソースと柔らかビーフの贅沢な味わい。ハヤシビーフ1缶とカレービーフ1缶のセットです。とあります。
・『日本国語大辞典』のいわゆる「一説」の出所は? 楳垣実『日本外来語の研究』(1943) p.161に以下のように。ただし楳垣説は「林」(早矢仕に非ず)説を「作り話に違ひない」としりぞける。
最後に通俗語原が伝説の形にまで発展した念の入つた例を二つあげておかう。その一つは「ハヤシ・ライス」に関するもので、このハヤシは英語のhashed(こまかく刻んだ)であるが、それにライス(米)が続いたのでは意味をなさない。おそらくカレー・ライス(curry and rice 又は curried rice)やハム・エッグス(ham and eggs)などから想像してみて、hashed beef and rice とでも呼んだものが省略されて、ハッシ・ライスとかハイシ・ライスとなり、一方で、国語にも「こまかく刻む」意の「はやす」といふ動詞があるところから、「はやし肉」といつた語が生れて、「ハヤシ・ライス」が生じたのであらう。このやうな語原が判らなくなつてしまつたために、つぎの伝説が生れた。・「早矢仕」説に沿った文章。「朝日新聞」夕刊 2003.09.24 p.7 マリオン3「TOKYO老舗・古町・散歩」日本橋:1 丸善周辺〔坂崎重盛〕明治初年に林某といふ男が横浜に住んでゐた。この男が或る洋食屋へ来て、いつもカレー粉の入らないカレー・ライスを註文した。店員が一々「カレー粉の入らないカレー・ライス」と板場へ註文するのが面倒なので、いつしか「林さんのカレー・ライス」といふことに決めてゐたが、忙しい時にはそれでも困るので、さらに「林・ライス」と省略した。それがお客の耳に入り、「俺も一度その「ハヤシ・ライス」とかいふのを食つてみよう」といつた訳で段々と拡まり、遂に今日のやうにハヤシ・ライスといふ名と共に全国的になつた。この「ハヤシ・ライス」は、関西では「ハイシ・ライス」と呼んでゐるから、おそらく関東方面の用語であらう。作り話に違ひないが、割合にうまく出来てゐて、チキン・ライスを「チ・ラ一丁」などと呼んでゐる店が大阪にあることを考へ合せると、仲々面白い。
ところで丸善の、ひっそりとした屋上が、ちょっとした穴場だ。ハヤシライス発祥の地のハヤシライスが食べられるのだ。・小菅桂子『にっぽん洋食物語大全』(講談社+α文庫) p.456にはだいぶ詳しく出ています。
〔丸善の創業者早矢仕さんが命名したハヤシライス。隠し味のスパイスが常連を引きつける 写真・横田正大〕
ハヤシライスの誕生についてはいろいろエピソードが伝えられている。以下長いため多少要約しますが、社史では、有的は友人が訪問すると野菜のごった煮に飯を添えて饗応したものを人がハヤシライスといい、レストランのメニューにもなった由が書かれ、さらに
「大河内 (笑)私はハヤシライスは林という人が作ったからだと思っていました。
金田一 そういう説もあるんですね。それから林さんという人が毎日のようにやってきて注文する。だから林さんのライスだよということで」
これは『食食食』の「日本の洋食」についての金田一春彦さんと武蔵野女子大学学長の大河内昭爾{しょうじ}さんの対談の一節である。
私も以前資生堂パーラーの顧問だった高石〓[金英]鍈之助さんから「ハヤシライスは横浜のハヤシさんという人が考えたという話を読んだことがあるよ」と聞いていた。
私自身は「丸善の社員食堂で出したのが最初」という一文を読んだ記憶もあった。
たまたま「カツ丼」の話で早稲田の中西敬二郎さんのところへうかがった折り〔ママ〕、話題が偶然ハヤシライスに及び、それも横浜のハヤシさんのことになった。すると中西さんの表情と声がにわかに熱を帯びて来た。私はびっくりして身を乗りだした。すると中西さんは、
「その話は本当ですよ。丸善の創業者は早矢仕有的{はやしゆうてき}といいましてね。日本橋の丸善は、それ以前は横浜にありまして、西洋薬や西洋雑貨を輸入してたんですよ。そのうち頼まれて洋書も輸入するようになったんですが、早矢仕さんはその頃横浜の店で小僧さんたち、つまり使用人の昼ご飯に、ご飯とおかずが一皿ですむハヤシライスを考えだした。それが今日のハヤシライスとして伝わったんです。ぼくはそう聞いていますよ」
こう力説するのである。
「横浜」「早矢仕さん」「丸善」三題噺{ばなし}ではないが、なるほど!
ハヤシとはハッシュ、つまり肉を細かく刻んだ料理のハッシュがなまったもので、正式にはハッシュ・ライスあるいはハッシュド・ビーフ・ライスということになるのだが、とりあえず『丸善百年史』を見た。するとありました。あったのです。
しかしこの話はあまり面白すぎる。英語でコマギレのことをハッシュといい、転じて肉と馬鈴薯や人参などの野菜との煮込みもハッシュという。神田佐久間町の三河屋は、明治初年以来の洋食屋であるが、そこではハッシュ・ビーフがよく流行{はや}った。これとライスと合せて称したものが、ハヤシライスの語源に違いない。しかし三河屋も有的が贔屓{ひいき}にした料理屋であるから、間接に関係があるといえば、いえないこともあるまいと記録されているとのこと。丸善は自社の宣伝になるかもしれないエピソードにも客観的な姿勢です(ホームページの通信販売ページの姿勢と微妙に異なる)。
『にっぽん洋食物語大全』ではさらに、
といっていたら、皇太子殿下のハウスコックである宮内庁大膳課の渡辺誠さんから異論が出た。ハヤシライスのルーツは、東欧料理のグラッシュ(goulash)だというのである。とあり、以下、グラッシュの料理の説明、宮内庁ふうのハヤシライスは「元宮内庁の主厨長であった秋山徳蔵さんによって「上野精養軒」に、さらに神田の「松栄亭」に受け継がれている」ことが記されています。
・結論として、「林某」説、「早矢仕有的」説(この2つは同じか)、「hashed」説が拮抗していて、どちらとも断じがたい。関西で「ハイシライス」等となるらしい理由も考える必要があります。ただし、私の興味は、今民間で一般的に最も受け入れられているのはどのような説であろうかということです。
なぜこのようなことを書いたかと申しますと、日本橋丸善の屋上にハヤシライスを食べに行ったところ、まだ夕方なのに売り切れだったからです。いつも午後5時ぐらいにはなくなるとのことです。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 28日 日曜日 09:49:43)
と書いてから、あらためてホームページを検索すると、おやおや、この話題については山ほどのページが出てきます。これらを整理分類するのも骨ですね。
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 28日 日曜日 14:12:48)
柳瀬尚紀『広辞苑を読む』(文春新書、1999年)に「ハヤシライスができるまで」という項目があって、「生やし」ライス説を紹介しています(「生やす」=「切る」の忌詞)。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 28日 日曜日 21:27:56)
ありがとうございます。『広辞苑を読む』は読んだのですが、ハヤシライスのことは忘れていました。
『広辞苑』初版で「(hashed-rice)」という洋語を当てていたのが、なぜか後の版で「(hashed meat and rice)」に「正しく」直されてしまったが、信用できない、他の辞典でも洋語はばらばらであるということが書いてありました。
今、気づいて『日本国語大辞典』初版を見てみると、「ハヤシライス」の項目には語源を書いていません。「早矢仕」説は第2版からです。また、初版では柳瀬氏のいうように「ハヤシ」の項には「(英 hash から)……Hashed beef から出た語ハイシの訛りに、物を切り刻む意の国語ハヤシが結びついたもの〔猫も杓子も=楳垣実〕。」とあって、ここでまた楳垣実の名が出てきます。この「ハヤシ」の項目は第2版にも引き継がれ、ただし「(英 hash から)」が削除されています。
『猫も杓子も』(創拓社)の「ハヤシライス」を見ると、上掲の林さんの挿話も、ほとんどそのまま繰り返されています。論旨は『日本国語大辞典』にまとめられている通りです。