「知らない」の程度がひどすぎる場合には「知らなすぎる」でしょうか?「知らなさすぎる」でしょうか?「さ」は要らないように思うのですが。この手の「〜すぎる」の場合の「〜」に「動詞の否定形」「形容詞の否定形」が入る場合の文法的な解釈はどうなるでしょうか?活用形などにも関係するのでしょうか?また、「〜そうだ」についても「来ないようである」の意味で「来なさそうだ」と「来なそうだ」はどちらが正しいのでしょうか?「来なさそうだ」が正しいと思うのですが、先日「来なそうだ」も耳にしました。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 08日 水曜日 21:40:23)
まず、文化庁『言葉に関する問答集』の「少なそうだ」と「少なさそうだ」(p.555)が参考になりますね。
まとめると:
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「よい」「ない」には「よさそうだ」「なさそうだ」のように「さ」が入る。ところが「知らなそうだ」「打てなそうだ」は「さ」を入れないのがふつう。しかし実際は「知らなさそうだ」「打てなさそうだ」も見られる。
国立国語研究所の昭和30年度の調査では「知らなさそう」が多数。
「気持ちよさそうだ」も、「気持ちよそうだ」という言い方が一部で聞かれる。
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『口語文法講座3 ゆれている文法』(明治書院1964)にも渡辺実氏が「よさそうだ・なさそうだ」を執筆しています。
渡辺氏は「『さ』の正体は、おそらく簡単にはつきとめられないであろう」としたうえで
「良い」「無い」の語幹が一音節であることを考えると、一音節語幹の不安定に対する一種の補強、すなわち挿入音節として「さ」を理解するのが適当のように思われるけれども、他の語幹一音節形容詞にはと述べますが、さらに
濃そうだ 酢そうだ
と「さ」を介さない所を見れば、それも十分に説得力を持った解釈とも言いかねる。要するに「さ」の素性はよくわからないのである。
「良さそうだ」「無さそうだ」は使用の頻度がきわめて高いのである。法則どおりの「濃そうだ」という形がある、とは前言した所だが、実はそれはあまり言いもせず聞きもせぬ形なのである。さらに
「良い・無い」の語源意識が弱まれば、つまり長い語幹という意識が強まれば、「さ」の介入を要しなくなる傾向が強まる、と言えそうである。というふうに、「簡単ではない」といいつつ、結局明快な説明をしています。
「なさすぎる」については触れませんでしたが(触れた文献を今のところ思いつきません)、同様の考え方で行けるのではないでしょうか。
私の語感を申し添えますと、「知らなすぎる」がしっくり来ます。「知らなさすぎる」という文章をみて「あれっ」と思いメモしたことがあるからです(下記)。
字を知らなさすぎるいまの若者が、漢字の持つイメージの豊かさに興味を持つこと自体はいいことだが、〔……〕〔CM天気図・天野祐吉〕(「朝日新聞」1993.02.20)
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 08日 水曜日 23:52:12)
一体、君の国の人はあまり自分を知らなさ過ぎる。(島崎藤村『海へ』十四)
世の医者は、そういう自分の真の姿を知らなさすぎる」(井上ひさし『吉里吉里人』第十八章)
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 09日 木曜日 07:23:13)
Yeemarさん、すみません、文化庁の「言葉に関する問答集」のP555と言うのは、もともと出ている分冊で言うと、シリーズ何冊目の何ページになるんでしょうか??
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 09日 木曜日 07:54:16)
「言葉に関する問答集3」の56ページですね。
分冊の索引は「…ソウダ(少なさそうだ)」だけになっています。
総集編の索引は「シラナサソウダ・シラナソウダ(知)」と「スクナサソウダ・スクナソウダ(少)」が加わりました。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 11日 土曜日 17:19:52)
skidさん、ご教示有り難うございます。ふつうの本屋(ジュンク堂と紀伊国屋京橋店)に行って、「もしや」と思いましたが、やはり全部は置いてないですね。天満橋の政府刊行物販売センター(でしたっけ)にまた行ってみます。