昨今騒がれている鳥インフルエンザについて
つい先ほどテレビのニュース番組にて、
「人に感染する可能性は低い」
と堂々とフリップ付きで放送されていました。
可能性ではなく危険性ではないかと思います。
話し言葉として「可能性」が一般的に普及しているのかどうか知りませんが、
ニュース番組ででも混同されているようです。
上記の例は氷山の一角です。
私は以前より頻繁に目に、耳にすることがあり、その都度違和感を覚えます。
せめて、老若男女に影響力の絶大なマスコミには、正しく使っていただきたい。
「危険性」という熟語は文語になりつつあるのでしょうか?
それとも、消えつつあるのでしょうか?
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 08日 月曜日 21:23:37)
「可能性」が意味を広げ、「可能」であるという積極的なものでなくとも「可能性」といえるのが現在の意味であると思います。
「蓋然性」という語が使われなくなっているのでしょう。
一方、「危険性」は、「危険」なものにしか使えない状況が、ずっと続いているのではないのでしょうか。あるいは、まさやんさんは、違うのでしょうか。
試験に落ちる( )がある。
この店はおいしくない( )がある。
これらは、よい意味ではありませんが、「危険性」を使うのは大げさであると私は感じ、「可能性」を使うと思います。
ここは「ことば咎め室」ではなく「ことば会議室」ですから、「間違っている」と断じるのではなく、お互いの意味の違いを確認できればありがたいと思います。
UEJ さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 00:15:54)
ご参考までにGoogleヒット数です。
"感染する可能性":約15,400件
"感染する危険性":約2,970件
"感染する蓋然性":約4件
UEJ さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 00:19:14)
英語版です。
"risk of infection":約219,000件
"possibility of infection":約9,520件
"probability of infection":約4,230件
UEJ さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 00:26:25)
たびたびの投稿申し訳ありません。
「感染する」ではなく「感染の」とすると「危険性」の率が少し高まりますね。
"感染の可能性":約16,400件
"感染の危険性":約7,360件
"感染の蓋然性":約9件
これは私の感覚とも一致。
「感染する危険性」より「感染の危険性」の方がなぜかしっくりきます。
「可能性」ならばどちらでも同じ。
まさやん さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 01:27:23)
>「可能性」が意味を広げ、「可能」であるという積極的なものでなくとも「可能性」といえるのが現在の意味であると思います。
>「蓋然性」という語が使われなくなっているのでしょう。
この日本語が断じていない表現なのでしょうか?
疑問です。
>一方、「危険性」は、「危険」なものにしか使えない状況が、ずっと続いているのではないのでしょうか。あるいは、まさやんさんは、違うのでしょうか。
「感染」は危険と私個人は思います。
他の方は思わないのでしょうか?
>試験に落ちる( )がある。
>この店はおいしくない( )がある。
>
>これらは、よい意味ではありませんが、「危険性」を使うのは大げさであると私は感じ、「可能性」を使うと思います。
まさしく「危険性」という言葉が「大げさ」と感じるようになった事に疑問を感じますね。
私は「大げさ」とは全く思いません。
プラスとマイナスと言う意味では、
能動と受動くらいに違う言葉だと感じるのですが、私個人としては。
前述の例で言えば、両方「危険性」を私は使います。
特に試験に落ちる事に関して、「可能性」は甚だ滑稽としか感じません。私個人としては。
>ここは「ことば咎め室」ではなく「ことば会議室」ですから、「間違っている」と断じるのではなく、お互いの意味の違いを確認できればありがたいと思います。
「会議」に個人の感想が入るとダメなのですね。
HP管理者がおっしゃっているので従順に従うしかありませんが、
個人の感想のない「会議」のほうが想像できません。
「あの人はこういってた」
「あの文献ではこうだった」
という議論のみの「会議」ってなんなのでしょう?
議論に参加する人が皆、
「私はこう思う。なぜなら・・・」
という主張を持っていてしかるべきかと思います。私個人としては。
問題は相対する意見を受け入れる姿勢があるかどうかではないでしょうか?
私が必要以上に頑固で、何人の意見も受け入れない輩であるのなら、
ご批判も受け入れますが、自己主張と批判を混同されるのなら遺憾です。
まるで「日本に哲学無し」のような考え方ですね。
他人の主張を分析はしても、自分で構築した主張は無い。
以前テレビで放送していました。
少し大人びた知識を吸収している小学生が、
政治や経済の実情を性格に「評論」しているんです。
その小学生に対して、
「そのことに対してあなたの感想は?」
と質問しても大半の小学生は答えられないそうです。
そもそも、「感想ってなに?」という反応らしいのです。
知識は詰め込まれていても、それに対する個人の感想が欠落しているのです。
明らかに教育の問題点です。
「会議室」が個人の意見を剥奪する場なのならば、
「研究室」のほうがしっくりきませんか?
文献を引用したり、検索サイトのヒット数を参考にするのもいいと思います。
しかし、
>これは私の感覚とも一致。
という感想と同様に、断じる表現に対しても
「私は」という語句が付帯することが前提になっていることをご理解頂きたいと存じます。
だって、「会議」なのですから。
まさやん さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 01:29:49)
上記レスポンスに間違いが有ります。
訂正しお詫びいたします。
誤・・・政治や経済の実情を性格に「評論」しているんです。
正・・・政治や経済の実情を正確に「評論」しているんです。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 02:50:23)
>「会議」に個人の感想が入るとダメなのですね。
そうではありません。「断じる」のみでは分からない、ということです。
「個人の感覚を書くな」という風に、私が書いているように思われたのであれば、私の説明不足です。申し訳ありません。
最初のお書き込みでは、「人に感染する可能性は低い」が誤りで、「人に感染する危険性は低い」でなくてはならない、とするだけで、「可能性」と「危険性」の違いが何処にあるとお感じになっているのか、ということが、分かりませんでした。
それで、試みに、二つの例を挙げたのです。私の感覚では、
○人に感染する可能性は低い ○人に感染する危険性は低い
○試験に落ちる可能性がある。 △試験に落ちる危険性がある。
○この店はおいしくない可能性がある。 △この店はおいしくない危険性がある。
というところですが、まさやんさんは、
×人に感染する可能性は低い ○人に感染する危険性は低い
×試験に落ちる可能性がある。 ○試験に落ちる危険性がある。
×この店はおいしくない可能性がある。 ○この店はおいしくない危険性がある。
なのですね。
このように違いを確認することをしましょう、と申しているのです。ここでは三つだけの例ですが、例を増やしてゆけば、議論しやすくなると思います。
私の感覚では、望ましいことでなくとも「可能性」が使える、つまり「可能である率」というような意味ではないわけで、「危険性」「おそれ」「期待」等を含んでいるわけです。「危険性」は、主に生命・身体にかかわるような、負の「おそれ」につかうと思います。
それに対して、まさやんさんの感覚では、よくないことを想像するときには「危険性」を、望ましいことを想像するときには「可能性」を使う、という、対立概念であるのですね。「おそれ」と「危険性」では違いがあるでしょうか。
「人に感染する可能性は低い」という言い方に対して、私が「人に感染する期待は薄い」という言い方に対するのと同じような違和感を持っていらっしゃるのだろうと推察します。
>>「可能性」が意味を広げ、「可能」であるという積極的なものでなくとも「可能性」といえるのが現在の意味であると思います。
>>「蓋然性」という語が使われなくなっているのでしょう。
>この日本語が断じていない表現なのでしょうか?
>疑問です。
このコメントの意味が良くつかめません。私の言いたかったのは、「蓋然性」という言葉の持っていた領域を奪うように、「可能性」が意味を広げた、というようなことです。「蓋然性」は文語であろうと思います。
skid さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 04:08:35)
「人に感染する可能性は低い」
というのは、感染するかしないかの確率を問題にして言っているので、「可能性」でよいと私は思います。
ものによっては、
「人に感染する可能性があっても危険性は低い」
こともありうるのではないでしょうか。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 16:52:18)
本来なら「危険性」を使うべきだというところに「可能性」を使うケースは現状では結構あると思います。「それはおかしい!」と考える人も多いことから・・・だと思うのですが、新聞用語懇談会放送分科会で出している「放送で気になる言葉・改訂新版」にも「可能性」という項がありまして、
「乗員乗客は全員絶望の可能性が強い」
「カフェインを多くとると流産の可能性がある」
「可能性」を好ましくない事柄に使っても間違いとはいえない。しかし「実現の可能性」など「(やろうとすれば)できる」の用法があるためか、悪い出来事の見込みに使うと若干の違和感があるようだ。「〜のおそれがある」など、好ましくないことを明らかにした表現のほうが耳にはいりやすい。」
と記されています。
「危険」という言葉を出すかどうか。これも受け取る人によって受け止め方感じ方は違うでしょう。立て看板に「〜おそれがあります。」と書くよりは「危険!」と書いた方がアピールできるというように、TPOによる使い分けがあると思います。
今回は「可能性」もしくは「おそれ」でいいのではないかなあ、と思いますが。いかがでしょうか。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 09日 火曜日 22:43:19)
清水義範『日本語の乱れ』〔小説〕集英社文庫 2003.05.25〔単行本・集英社 2000.11〕にもありますね。この小説は、ラジオの番組あてに、日本語についていろいろな批判を寄せる投書が舞い込むというストーリーです。そのひとつがこれです。
「ニュースで、『誘拐された可能性もあり……』ということを言っていたが、可能性とは、それが可能だという度合いのことで、うまくいく率、ということだ。だから悪いことを予想した時に可能性というのは変だ。誘拐されたのかもしれない時は、そのおそれ{3字傍点}もあり、であろう」東京都 男性 四十三歳。(集英社文庫版 p.16)
今私達が使っている言葉も昔から同じわけではないですし、これからも同じというわけではありませんよね。
間違っている使用方法も万人が使えば正解になってしまうと思うのですが、どうでしょうか
その万人を構成しているのが誰か考えたことあるのか。
「商売目的の広告屋」
「注目を集めれば良いメディア」
「それに疑いを持たず飛びつくアホども」
↑↓
「アホどもの無責任な発言」
「アホどもから搾取しようとする広告屋」
「広告屋とグルのメディア」
こんな連鎖の輪が広がった結果が万人だよ。
公害みたいなもんだ。
いい歳して「女子」なんて言っている奴らや
「○○活」なんて言葉に乗っかってる奴らなんてミーハーなバカだらけだろう。
広告屋は笑いが止まらないだろうな。
こいつら元々少数派なのに声が大きいから、さも多数派のように錯覚させる。
アホどもの感染力は凄まじいから本当に多数派になる。
そしてまともな人まで巻き込まれる。
管理人のような当たり前の主張がこんな奴らに汚染されるんだよ。
お前の言ってることはな何でも「ヤバイ」で表現するバカと一緒だ!!!!!
「蓋然性」が一般的ではないにしても
「可能性」「危険性」「恐れ」「疑い」
先人の作った言葉から選べば良いだけだしインターネットがあるのだから
正確で繊細な言葉を知ろうと思えばすぐにできるはず。
それをわざわざ全て「可能性」に置き換えるほうがおかしいと気付かないのか。
文字表現が拡散されやすい現代だからこそ
正確な表現が必要なんじゃないのか。
誤用や誤字が急速に広まる時代なのに、言葉の変化に疑問を持たず
何でも「言葉は遣いやすいように変化している」だの
「言葉は進化する」だのほざいている。
そんな奴は単なるバカ。口ポカーンと開けた能なし。
本当にお前みたいな「言葉は進化教」「言葉は生き物教」にはうんざり!!!!!!
絶滅しろカス!!!!!!!!