下記(6)。現代英語のことではないということでしょうか?
それとも余剰的特徴の対立が中和する、ということでしょうか。
「音素の対立」と先に言っているのが気になるのですが……
→ ちゅうわ【中和】
後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2000年 2月 05日 土曜日 9:22:34)
「中和」は、やはり、音素の対立について言うものであって、余剰的特徴について
言うのは普通ではないでしょう。この項の執筆者は執筆時と校正時に「有気音、
無気音、気息音」の概念について混乱していたものと推測するのが、妥当ではないで
しょうか。
英語の語頭のsに後続する歯茎破裂音は/t/に限られ/d/は現れませんが、この現象を
「この環境での/t/と/d/の対立の中和」と捉えることは可能です。例えば、
Peter Roach, Introducing Phonetics (London: Penguin English, 1992,
ISBN: 0-14-081019-6)という音声学小事典は"neutralization"の項で
still /stIl/ 〜 */sdIl/(Iはスモールキャピタル)を例に挙げて説明しています。
もとの辞典の執筆者が言いたかったのはこのようなことだと思うのですが。
佐藤 さんからのコメント
( Date: 2000年 2月 05日 土曜日 14:57:10)
後藤先生、ご教示ありがとうございました。
私の考え方がまちがってなくて、ほっとしました。
堂々と書かれていると、びっくりしますね。
後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2000年 2月 08日 火曜日 7:07:48)
申し訳ありませんが、多少修正します。
佐藤さんや私が念頭に置いていて、一般向け辞書の解説として期待していたのは、
Francis Katamba, An Introduction to Phonology (London: Longman, 1989
ISBN: 0-582-29150-X)も挙げる以下のような捉え方になるでしょう。
つまり英語の閉鎖音を
bilabial alveolar velar
voiceless p t k
voiced b d g
(Katamba, p.28)
とした上で、
The orthodox view is that when a phonological opposition is
neutralised, the opposition between sounds which contrast
elsewhere in the phonetic representation is suspended in a
specific dontext. For instance, ..., in English voiced and
voiceless stops are distinct phonemes, ... they can contrast
in any position -- except after /s/. There is no possibility
of [p] and [b] contrasting after /s/ in putative words like
[spul] and *[sbul]. (Katamba, p.149)
とする見方です。
ここで"orthodox view"とあることからしても、この見方を念頭に置くのは
ごく普通であり、それゆえ佐藤さんがもとの辞書の解説をいぶかしく思い、私が
それに上のようにコメントしたのも当然と言えます。一般向けの国語辞典に
おける専門用語の解説としては、このような見方にのっとるのがよいのでは
ないかと私も考えます。
しかし、"orthodox view"というからには、それ以外の見方もあるわけで、
学者によっては上のようには捉えないこともありえます。音韻理論によっても
違ってくるのでしょうが、そちらの方は私の手に負えません。また、もとの
辞書の執筆者が念頭に置いていたのはもう少し音声学寄りの説明である
ように思われます。
Peter Ladefoged, A Course in Phonetics, 3rd ed. (Fort Worth: Harcourt
Brace College Publishers, 1993. ISBN: 0-15-500173-6)はpp.47-51で
英語の閉鎖音について以下のような趣旨の記述をしています:
・"pie"も"buy"も語頭子音は本質的にvoicelessであり、aspirationの有無に
よって聞き分けられる。
・"spy"の"s"を人工的に切り取った音は、"buy"として聞き取られる。
・音節末("nap/nab")でも、「有声子音」はかなりの程度に無声化しており、
直前の母音の長さが主要な違いである。(「無声子音」の前の母音の方が短い)
ここから、/p/と/b/の違いを無声と有声の違いとは一概に言い切れないことに
なります。
したがって、これを切り抜けるために/p/などをfortis、/b/などをlenisとして
分類し直すこともあります。ただし、これはPeter Roach, English Phonetics
and Phonology, 2nd ed. (Cambridge: Cambridge Univ. Pr., 1991. ISBN:
0-521-40708-4)がpp.31-35で認めるように、実は定義が困難です。結局、
I feel the best conclusion is that any term one uses to deal with
this distinction (whether "fortis"/"lenis" or "voiceless"/"voiced")
is to be looked on as a cover term [...]-- a term which has no
simple physical meaning but which may stand for a large and complex
set of phonetic characteristics. (p.35)
ということになります。
話を語頭の位置に限れば"p"と"b"の音声学的違いは無気と有気の違いが主で
あると言えるようです。そこで、David Crystal, A Dictionay of Linguistics
and Phonetics, 3rd ed. (Oxford: Blackwell. ISBN: 0-631-17869-4)では
"neutralization"の項で
For example, in English, the contrast between aspirated(voiceless)
and unaspirated(voiced) plosives is normally crucial,
e.g. tip v. dip, but this contrast is lost, or
'neutralized', when the plosive is preceeded by /s/, as in stop,
skin, speech, ...
と述べています。もとの辞書の執筆者が参考にしたのは、直接にはこれでは
ないかと推測しています。
というわけで、先に述べたコメントは撤回した方がよさそうではあります。
とは言え、何の前提もなく、いきなり、「英語の t と d は有気音であるか
ないかという点で対立しているが」と言うのは一般向けの国語辞典としては
極めて不適切だという考えには変わりありません。
後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2000年 2月 08日 火曜日 7:12:17)
訂正。
>話を語頭の位置に限れば"p"と"b"の音声学的違いは無気と有気の違いが主で
ある
「有気と無気の違い」でした。
佐藤 さんからのコメント
( Date: 2000年 2月 11日 金曜日 20:19:36)
後藤先生、追補、ありがとうございました。
どんどん動いているのですね。母音の長短やアクセントの
捉え方が旧説から改められていることまでは、なんとか、
追っていたのですが(それでも相当古い情報ですね)、
有声/無声の対立の捉え方までおびやかされていたとは。
おっしゃるように音声学寄りの見解ですが、今後、音韻論的に
どう位置づけられるていくのか(あるいは、アロフォン扱い?)、
いろいろ注意が必要ですね。
とまれ、丁寧な御回答、ありがとうございました。勉強に
なりました。