「行き方」の「方(カタ)」(方法)は連用形に付くという不思議な付き方をします。「行く方」とすれば連体形に付く「方(カタ)」ですが現代語としての意味は「人」となります。
結局「行き方」の「方」を接尾語と解釈すれば「連用形に付く体言」という矛盾を免れますが、「独立しない造語部分」という接尾語の仲間に入れるには違和感が大きいのです。現代語だけの用法なのか、どういう経緯でこの用法が定着して来たのか知りたいのですが、私は現在海外にいる身で手持ちの資料に乏しく、どなたか知恵をお貸し願います。
(他の未解決の「日本語の不思議」http://shibuya.cool.ne.jp/brn/にも智恵を貸して頂ければ有り難いです)
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 01日 月曜日 9:19:39)
「かえりみち」「たずねびと」「しごと」「むかえざけ」などと比べてみると、不思議なのは、連用形に付くということよりも、「かた」が連濁しない、ということではないのでしょうか。連濁しないので、接尾語であるとするには違和感を感じるのではないでしょうか。
天野 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 01日 月曜日 11:17:15)
早速のご回答ありがとうございます。
連濁をしない、ということも確かに不思議ですね。でも岡島さんの示された例は皆一語として認知できるのに、動詞の連用形に付く「方」は「書き方」「話し方」「食べ方」「笑い方」…など一語感覚として捉えにくいのではないでしょうか?この辺の違いは単に感覚的なものだけかどうかも確認したい気がします。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 01日 月曜日 11:44:33)
たしかに、習字の意味の「かきかた」に比べると、「書く方法」の「書き方」は切れる感覚があります。
「方」には、「準備方よろしく」のような言い方もあって、ちょっと特殊かもしれませんね。これは「書き方」よりももっと切れる感じ。「大会の準備方よろしく」と、句を受けることも出来そうで。
「準備方」などについては、鹿児島の言葉が軍隊などを通じて中央に進出したものだ、という捉えかたもあるようです。「うちかた、はじめ」というのは、「うつ人、はじめ」ではなく、「うつこと、はじめ」であるようです。「今日は飲みかたがある」など。
連用転成名詞に名詞が付いたものとの比較も考えると、いっそう、むずかしそうです。
天野修治 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 02日 火曜日 9:21:53)
大変啓発されました。以下、もう少し私なりに考えてみました。
「二割方」「明け方」(およその意)「皆様方」「先生方」(敬意の複数)「敵方」「幕府方」(所属)の「方」は、「ガタ」と連濁するもので接尾語として納得できますが、一方「行き方」「食べ方」(方法)などの「方」は、「カタ」と連濁しないこともあって、私は接尾語と捉えるよりもやはり「名詞」として考えてみたくなります。岡島さんの言及された連用転成名詞に名詞「方」が付いた語として「行き方」を捉えることができるとしたら、「帰り道」などと同類の語構成と考えられるのではないでしょうか?そう考えると、「生き方」「綴り方」「考え方」などは「行き+方」「食べ+方」などに比べると一語として成熟しつつある位置にある語と見えてきます。
畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 02日 火曜日 16:08:02)
むつかしい理屈はわかりません。
お役所的かもしれませんが「○○の件につき、ご承認方よろしくお願い・・・」など
厳粛かつ丁寧な表現の場合、よく使います。
天野修治 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 04日 木曜日 0:28:44)
コメント、ありがとうございます。
岡島さんや畠中さんの示された「準備方」「ご承認方」の「方」は「カタ」で「すること」の意味と捉えていいのでしょうか?これは(名詞についた名詞「方」)と理解します。「道順」「席順」と同じ構成と見られます。
「行き方」の「方」に戻りますが、「読み方」が「読み(の)方法」と(の)を入れて考えられるのと同様に「行き(の)方法」と捉えて連用転成名詞に付いた「方」と考えています。それにしても、「行き来する」の「行き来」は連用転成名詞が連続した構造と見て良いのか、など、新しい興味もわいてきます。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 04日 木曜日 11:21:59)
その解釈では、「打ち」など、あまり連用転成名詞として使われることはなさそうなのに、「打ち方」といえることが気になります。
天野修治 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 05日 金曜日 9:33:21)
岡島さんの指摘されるように、確かに単独の「打ち」を名詞と捉えにくい印象はありそうです。これは「打ち」の接頭語としての印象(「打ち続く」「打ち見る」など)が影響しているかもしれません。しかし、「打ち首」「打ち身」のように動詞「打ち」に付いた「首」や「身」は接尾語としては認め難く、やはり連用転成名詞に付いた名詞「首」「身」として捉えるべきではないかと考えます。そうすると「打ち方」の「方(カタ)」も接尾語(「方」ガタ)と区別された用法で、名詞と捉えた方が良いような気がします。まだ直観に頼った解釈なので、気が付いた点があればご指摘下さい。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 07日 日曜日 18:05:19)
こちらで何が問題になっているのかもう一つよく分からないまま、差し出口を申します。私自身の考えをまとめながら書きますので、あたりまえな、自明のことが混ざるかもしれませんが、お許しください。
「方(かた)」は、「言はん方なし」(表現の方法もない=言いようもない)、「せん方もなし」(する方法もない=なすすべもない)などと、歴史的に「方法」の意味で、名詞として使われてきたのは事実です。
今では、「方」は単独では使われず、「すべ」「方法」などのことばに地位を譲りました。そして「方」自身は「歩き方・買い方・差し方・叩き方・殴り方・掃き方……」のような形でもっぱら使われることになりました。さて、これらの「方」は、「独立している」のかしていないのか。
名詞が「独立している」とはどういうことか。それは、「助詞をつければそれだけで文の成分になりうる」ことだと定義しておきましょうか。たとえば「うどん」という語の場合、
私は/うどんが/好きだ。のように「が・を・に」などを付ければ文の成分になることから、「うどん」は名詞として独立していることが明らかです。
「わら家」で/うどんを/食べた。
うどんに/しょう油を/かける。
一方、「方」は次のように「方+助詞」で文の成分になることはできません。
*方が/分からない。のような言い方は間違い。どうしても「買い方が/分からない。」「握り方を/直させる。」「考え方に/誤りが/生じた。」のように、動詞連用形(というより居体言)に附いて使われます。独立できないのだから、名詞ではないというべきです。
*方を/直させる。
*方に/誤りが/生じた。
文の成分とは、まあ雑に言えば、そこだけ抜いたり入れ替えたりしても文の意味が通じるというものです。「私は/うどんが/好きだ。」は、単に「私は/好きだ。」とも言えるし、「好きだ、/うどんが、/私は。」とも言える。「買い方が/分からない。」は、「分からない、買い方が。」とは言えますが、「分からない、方が、買い。」となると日本語として崩壊しています。つまり「買い方」は「買い/方」と分けることはできません。この「方」は接尾語というべきです。
なお、転成名詞というのは、名詞のひとつですから、助詞をつけて文の成分になりうるものです。「踊り(を踊る)・帰り(が遅い)・誘い(を断る)・疲れ(を癒す)……」など。しかし、単独で名詞にならないものでも、ふつうの動詞は、「待ち(←待つ)・打ち(←打つ)・見(←見る)・切り(←切る)」といった居体言(見かけ上は連用形と同形)の形で、他の居体言や名詞と複合し、「複合名詞」(「待ちぼうけ・打ち水・見切り……」)を構成します。
「歩き方・買い方……」などが「あるきがた」のように連濁しないのはなぜでしょうか。「居体言+名詞」であっても、後項の名詞は必ずしも連濁しません。「〜方」以外の例は、
浮き草・埋め草・摘み草・干し草;売れ口・折れ口・切り口・取り口・飲み口;入り潮・引き潮・満ち潮・焼き塩;食い代・縫い代・飲み代;置き土・盛り土;架け橋・反り橋;入り船・浮き船・曳き船;浮き島・生い先・織り姫・切れ端・泣き面・割り下など。主に後項の語の意味によるのでしょう。方法の意味の「方」が連濁しないのは、たとえば「明け方(がた)」など時刻を表す「方」と区別するためもあるのでしょう。
天野修治 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 07日 日曜日 21:35:49)
Yeemarさん、丁寧なコメントをありがとうございました。
「行き方」の「方」を接尾語とすることに異を唱える明確な論拠のないまま、結論だけ急いでいる私の提起のしかたには自分でも気付いているつもりです。
私が提起したかったのは、「方法」の意味の「方」が「行き方」のような形で使われた場合でも連濁しないのは単に意味上の区別(方法を意味するときは濁らず、方向や人を意味するときは濁る)だけでなく他に理由があるからではないのか、という素朴な疑問に過ぎないのです。
同じ所属を意味している語でも「西方、東方」「父方、母方」の「方(カタ)」は清音のままなのに「敵方」「幕府方」の「方(ガタ)」は連濁することの理由を説明しようとすれば、前者は「方」が意味や語の調子を整えるだけでなく独立した語としての主張が強いからではないのか、という語構成上の力関係、つまり、「父方」の「方(カタ)」が清音のままなのは「方」は「父」と同等あるいは同等以上に自己主張しているからではないか、と「方」を名詞として扱う考え方を検討する方法が残ったのです。文語から口語への移行の時期にどのような文法上の変化があったのか、もこの問題に関わりがあるのかもしれません。
因みに広辞苑(古い版ですが)では「話し方」「撃ち方」の「方(カタ)」は接尾語として項を立ててはいません。
こうした素朴な疑問でも、調べる手立ての限られた海外に居る身なので、皆さんの投稿に啓発されることが多く感謝しております。さらにコメントを頂ければ有り難いです。(バルセロナにて)
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 08日 月曜日 14:14:15)
『広辞苑』では、第2版以降で「(動詞連用形について)しよう。しぶり。また、すること。」というような(ちょっと不親切な)説明で「方」の接尾語的用法を取り上げています。初版にはありません。
連濁・不連濁の違いがなぜ出てくるかは、語ごとの個別事情があると思います。「歩き方・買い方……」の「方」が不連濁であるのと、「父方・母方」の「方」が不連濁であるのは、かならずしも同じ理由によるのではないでしょう。
「父方、母方」が不連濁で、「敵方、幕府方」が連濁するのは〈「方」は「父」と同等あるいは同等以上に自己主張しているから〉とのご意見でした。私なりに考えますと、
「敵方の戦力」と「敵の戦力」とは ほとんど意味が同じ
「父方の祖母」と「父の祖母」とは 意味が違う
というようなことがあり、そのあたりが連濁・不連濁を分ける要因のひとつである可能性はあると思われます。「方」の「自己主張」とは、そのあたりのことを言われたのでしょうか。もっとも、こういったことがほんとうに連濁に関係しているかどうかは、なお慎重に考えるべきだと思います。
一般に、複合語の前・後部が語構成からみて並立している場合は連濁しないという事実はあります。たとえば「山川」は、「山中を流れる川」という意味では「ヤマガワ」となりますが、「山と川」(並立)の意味では「ヤマカワ」です。「露霜(ツユシモ)・月日(ツキヒ)・上下(カミシモ)……」なども連濁しません。
しかし、「入り船・浮き船・黒船」が連濁せず「出船・宝船」が連濁し、「架け橋・反り橋」が連濁せず「跳ね橋・かずら橋」が連濁するという違いがなぜ現れるかというと、統一的な説明はむずかしいようです。複合語が連濁をおこしやすい時代に作られたことばであるかどうかとか、地域差とか、「単なる語調」とか、種々のことが考えられるでしょう。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 08日 月曜日 14:29:36)
【やや余談】
前のコメントで、
>「方(かた)」は、「言はん方なし」(表現の方法もない=言いよ
>うもない)、「せん方もなし」(する方法もない=なすすべもない)
>などと、歴史的に「方法」の意味で、名詞として使われてきたのは
>事実です。
と書きましたが、これとても「方」の上に何か修飾語が附いて使われ
たわけですから、厳密に独立した名詞だったとはいいがたいようです。
「言はん方(なし)」「この方」など、つねに修飾語を伴うこのよう
な名詞は「形式名詞」というべきです。
「者」も、「この者」「さぶらふ者」などと、常に上に修飾語を伴い
ますから、形式名詞です。(同語源の「物」とは一応区別。)
「方・者」などは典型的な形式名詞でしょう。松下第三郎は「者・の
(私のだ)・方」のほか「はず・ため・こと・由(よし)・ところ・
等(トウ)」などを挙げています。このうち「ため・こと・ところ」
などは「ためにならんぞ・ことが起こったら・ところ変われば品変わ
る」のように本名詞として使いうるので、厳密な形式名詞ではないで
しょう。「はず」は、「弓弭」の意味がもはやないとすれば形式名詞
でしょう。
私は松下の説をよく引いているかもしれませんが、形式名詞は松下の
提唱によるものだから無視するわけにはゆかないわけです。べつに私
が松下一辺倒というわけではありません。(^ ^;)
ほんとうに無駄話でした。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 08日 月曜日 15:07:28)
×松下第三郎 →○松下大三郎
なぜか誤変換しました。
畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 09日 火曜日 8:44:29)
↑天野さんの5月4日の準備方、ご承認方の「方」について。
おっしゃるとおり、「すること」の意味で使います。
「方」を付けることにより、命令口調からソフトなお願いと
相手方は受け取るのではないでしょうか。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 09日 火曜日 12:54:17)
話をややこしくしたようで、申し訳なく思います。
>連用転成名詞に名詞が付いたものとの比較も考えると、いっそう、むずかしそうです。
というのは、「お笑い芸人」の「お笑い」は連用転成名詞であろうし、「ワライカワセミ」の「笑い」は動詞の連用形としての働きであろう、というようなことでした。
Yeemarさんのような組織だった説明が出来なくて申し訳ないことです。
天野修治 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 10日 水曜日 22:15:06)
皆さんのコメントに非常に啓発されました。Yeemarさんの形式名詞の指摘は私も感じていましたので意を強くしました。また何か考えることがありましたら、書き込みに参ります。