森川知史 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 23日 火曜日 11:47:06)
これは、何より「おる」が謙譲語かそうでないか、について語感に個人差があることを指摘せねばならないでしょう。即ち、話者が自ら(自者側に含まれると考えるもの)の行為・状態を低める趣で、聴者に対して丁重に述べるもの、と捉えるか、行為主体を低める趣は欠いていて、単に聴者に対して丁重に述べるだけのもの、と捉えるか、がその個人の年代差や方言差によって異なっているということです。
A.父は家におります。
B.雨が降っております。
A.の表現は、「おる」に謙譲語意識が見出されますが、B.には必ずしも謙譲語としての趣があるとは言えず、ニュートラルなものと捉えることもできる筈です。
「おる」を謙譲語だと意識する人にとっては、それに尊敬の「れる」を付けた「おられる」は不自然なもの、あるいは誤用と思われるでしょう。他方、「おる」をニュートラルな表現(「いる」のより丁重な表現ではあるが、謙譲の趣はない)と捉える人にとっては、「おられる」は全く問題のない尊敬語ということになるでしょう。
いや、「おる」は謙譲語だが、「おられる」は尊敬語だ、と何の違和感もなく使っている人もきっと多数いるでしょう。
これは、恐らく、どこまでも語感の問題なのであって、「おられる」が規範としては誤りである、と強く指摘できるかと言えば、「おられる」の使用者の数から考えて無理がある、とせねばならないのではないでしょうか?
沢辺治美 さんからのコメント
( Date: 2000年 5月 23日 火曜日 17:20:52)
NHKの「放送用言葉使い」にあったものをそのまま引用します。
(アドレスがわからなくなったので)
『「○○さん、おられますか」という言い方をよく耳にしますが、 これは、「おる」に敬語の「れる」が付いたもので、現在では必ずしも不適切ではない、と言われています。
というのは、本来謙譲語であった「おる」の用法が現在では変化して、単にことばづかいを改まったものにすることばとして使われるようになったからです。ちなみに、「おられる」は「いる」の荘重な言い方、という注釈を付けている国語辞書もあります。戦後の大きな敬語変化の一つは、従来の謙譲語が変化し、それらがていねい語化しつつあることですが、「おられる」はその代表例です。もちろん、尊敬語を付けない「○○さん、おりますか」は現在でも失礼な言い方です。』
因みに、富山の方言では、「おる」は「いる」の意味で使っていますが…。
畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 18:18:44)
「居る(いる・おる)」と「有る」の違いについて。
〜内容が逸れるかもしれませんが、当欄で述べさせていただきます〜
居るは、人間や動物の存在状態を言い、有るは、それ以外の存在についての表現と、私は認識しております。
しかし、テレビの司会者が「台風○号は現在、××付近におり・・・」とか、また九州勤務時代、麻雀の裏ドラが「おった、おった」と地元の人が言ったいたことに多少、違和感を感じていました。
もっとも、英語では「There is 〜」で両者に差異はありませんが、日本語としては、どう何でしょう。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 21:40:46)
私の手元にある「無生物に「いる」を使う例」です。粒がそろっていなくて恐縮ですが。
・オートキャンプ場にはディーラーのカタログからそのまま抜け出たような車がたくさんいます。〔パソコン通信のかつての「NIFTY-Serve」掲示板で 1996.05.29 に目にしたもの〕2番目のものは擬人的な例でしょう。1・3番目は、中に人がいるために「いる」と言えるのかと思いますが、後掲の柴田武説のほうがよく分かるようです。・そこに、ひっそり、夏がいる。(JR東日本「福井県観光キャンペーン」広告 1999.09.11〜13)〔媒体不明、学生が教えてくれたもの〕
・司会者 原潜の上方に五十八メートル〔「メートル」は1マス〕の漁船がいたのを、潜望鏡では見えなかった理由を説明できますか。〔原潜と漁業実習船えひめ丸の衝突事故で米NBCテレビの司会者が乗船の民間人に質問したものの翻訳〕(「朝日新聞」2001.02.16 p.39)
国広哲弥「日英両語テンスについての一考察」(『構造的意味論』三省堂 1967)の「3.4.2.」に「イル と アル の意義素」という節があり、
「居眠リシテイル人モアルシ,愉快ニシャベッテイル人モアル」という文は,第3者が客観的に眺めた報告として述べたものである。この文のアルをイルに変えて「居眠リシテイル人モイルシ,愉快ニシャベッテイル人モイル」とすると,居眠りやおしゃべりをその人達の自発的な行為として表現していることになる。昔話の冒頭に用いられるアルは,遠い昔に生きていた人の存在を長い時を距てて客観的に眺めていることを言おうとしたものと解される。とあります。これで、人に「いる」だけでなく「ある」をも使うことがある理由は分かりました。しかし、これだけでは台風・車などに「いる」を使うことがある理由は分かりません。この論文では、「いる」と「ある」との対比は、主に「〜ている」と「〜てある」を念頭に書かれています。
柴田武『日本語ウォッチング』(岩波新書 1995)では、
こうなると、確かめておきたいことは、無生物でも「いる」の使える場合がないかどうかということである。少し考えてみると、そういう例はいくつもある。この説明はよく分かり、「台風がおります」は、台風に自動性があるので、柴田氏の説明が当てはまりそうです。麻雀の「裏ドラ」というのは、ウェブで説明を読んでもよく分かりませんが、こちらは擬人法でしょうか?
7a バスがいる。
b バスがある。
無生物のバスは、「ある」とも言えるのは当然として、「いる」とも言える。「いる」と言えるのは、バスを人間に見立てているからではないかという疑いもあるが、そうではないと思う。
〔略〕
その乗り物に、いま、運転する人が乗っていてもいなくても「いる」と言える。
〔略〕
「いる」が、「自分で動いて進むものがとまっている状態にある」を表わすのに対して、「ある」は、ただ、物の存在を表わすだけである。7aの「バスがいる」は、進行して来たのがいま止まっているのか、これから動き出そうとしているのかのいずれかであるが、7bの「バスがある」は、操車場などにバスという物体が存在していることで、ここでは「自分で動くもの」ではなくなっている。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 22:07:26)
「いる:ある」は「有情:非情」と言われます。生きていなくても、そこに情を感じれば、「いる」と言えるわけです。
「駅前にタクシーがいた」「駐車場にタクシーらしい車があった」
は、タクシーを、運転手の有無によって、有情か非情か、分けているのでしょう。
もちろん、擬人化、と言いますか、「擬有情化」ということもあるわけで、「裏ドラちゃん、ここに居たのね」は、「擬有情化」ではないかと、私には感じられます。
なお、別スレで出た話題に、「いる:ある」がありましたので、リンクをしておきます。ここでは「有生:無生」という語を使っています。
→ ウン万円
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 22日 月曜日 00:40:35)
柴田武『日本語ウォッチング』(岩波新書 1995)ではなく、
柴田武『日本語はおもしろい』(岩波新書 1995)ですね。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 22日 月曜日 09:26:03)
おそれいります。「言い間違いはなぜ起こる?」という例の1つになってしまいました。もちろん、引用の際は原典を手元に置いていたのですが。両方とも私の愛読書であるために間違いました。
畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 22日 月曜日 21:46:57)
いろいろご意見いただき、ありがとうございます。
上記↑「ウン万円」での金水敏さんの
>筆者の直感では、有生(animate)の主語を取った場合、厳密に「いる」しか用いられない種類の存在文と、有生の主語を取っていても「ある」が許容される種類の存在文とがある。ただし、この直感を共有しない日本語話者が、特に若い人に増えてきているように見える・・・
に、共感を覚えます。
ことばは画一的に正しいとか正しくないと言えない場合もあると、前に議論させていただきましたが、当例もそうなのでしょうか。
コメントありがとうございます。
コメントをお読みして、お教えいただきたく存じました。
お教えいただきたいのは、それは揶揄でなく、実感としてそのようにお感じになるのでしょうか、ということです。
また、どこの方でしょうか(言語獲得地)。
もし、よろしければ、お教えいただきたいと思います。