実は以前、どこかの会議室で「あさきゆめみし」は誤記で、本当は「あさきゆめみじ」が正しい、つまり過去完了形(〜したことよ)ではなく未然形(〜もしないで)である、なんてことを見たんですが、うかつなことにどこでその発言内容を拾ったのか、ブックマークを紛失してしまったみたいなんで、どなたかご存じないかと…。
この場所でしたら、本当に申し訳ありません。
でもって、その誤記(誤認)が、一部の人間にはあまりにも有名である某少女漫画の題名によって一層広まってしまった、ってあったんで、ぜひ私のホームページで紹介したいんです。
本当に間抜けな質問で申し訳ありませんが、どなたかご存じありませんでしょうか、そのURL。
えーと、私のホームページは「hosokin's room」って言います。URLは
http://www2c.meshnet.or.jp/~hosoda/
です。
それでは、用件のみにて失礼します。
って、よく見たら さんからのコメント
( Date: 1997年 4月 20日 日曜日 2:07:12)
この会議室ボードでしたね。いやぁ、本当にすみません。早速自己コメントしてしまいました。
ここは本当に面白いです、って、この「形容詞+です」って表現、すごく気になるんで、これにもどなたか言及してくれませんか、余計なことですが…(例:すごいです、丸いです、などなど)。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1997年 4月 20日 日曜日 3:21:02)
細田さん、こんにちは。
思うにこの話題は、私の次の発言のことでしょうか。
「濁点雑感」(1997.3.19)より。
>> 話はややそれますが、「いろはうた」の「あさきゆめみし」はどう読まれてきているの
>>でしょうか。小松英雄氏の『いろはうた』などでは「浅き夢見じ」ですし、係り結びから
>>言っても「し」は助動詞キの連体形ではないほうがいいように思いますが、マンガの『あ
>>さきゆめみし』を書店でみるたびに気になってしまいます。
これは、大和和紀さんの例のマンガがもとだという趣旨ではなく、一般に「あさきゆめみし」の形が広く行われていて、大和さんのマンガのタイトルもその延長線上にあるだろうという意味で申しました。誤解を招きましたら申し訳ありません。「ゆめみじ」ではなく「ゆめみし」と言ったのはかなり古いのではないかという〈気が〉します。
それにしても「いろはにほへと」の続きさえ分からない人が多い現状では何をか言わんや。
いや、4文字目からすでに怪しいかな。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1997年 4月 21日 月曜日 17:53:18)
細田さん、いらっしゃいませ。細田さんが書いていらっしゃるのも、Yeemarさんと同じ様なことですね。「一層」と書いてらっしゃるので。細田さんのページのアドレスにアンカーを打たせて頂きました。面白いページですね。幸田露伴の著作権が切れるのは確かなのですが、全集で入れようとすると、編集者の著作権が絡んで来ますのでちょっとややこしくなると存じます。
さて、「ゆめみし」が古くからあるのは確かです。いろは歌の基礎的な文献である、大矢透『音図及手習詞歌考』には、次のようにあります。
第四 伊呂波歌の意義
伊呂波歌の意義は、第二節麻四の蜜巌諾秘釋に、涅槃経の四句の偈と対比せるにて、大意は是にて知られたれば、今更に云ふには及ぱざるべしといへども、それには、イロハを色ハとしてハを助辭と見、悉曇輪略圖抄に、色葉として名詞と見、又アサキユメミシを秘釋には浅キ夢見シとし、而して、シを爲の連用形と爲し、輪略圖には、其のシを濁りて、未然の打消となせるが如き、異同あるが故に、いづれに從ひて可なりやを論定し、而して後、一章貫通の意趣を略述して已まんとす。
抑も此の偈文の意は、宇宙間、萬物萬事、一瞬弾指の間といへども、常態を保つものにあらずして、生じては滅し、滅しては又生じ、輪轉止むとき無きを以て法と爲す。而して、其の生も無く、滅もなきに至りて、苦もなく悲みも無きことゝなり、是に於いて始めて、眞の大樂は得らるとなり。伊呂波歌は、即ち萬物萬事を以て、春華秋葉に譬へたるものなるが、故に、花とか紅葉とかの一方に限るときは、狭溢となりて、其の意窮するところあり。されば、態と、花にも紅葉にも共有の色とのみいひたるなるべし。殊に、紅葉を色葉といふこと、他に例なきにても、此のハは、助辭のハと見る方勝れりといふぺし。又アサキユメミシヱヒモセズは、得難き生を、求め、避け難き苦を免れんとする、一切の雑業を夢と爲し酔に比して、いさゝかも、かゝることを爲さゞる意なるが故に、之に未然の意は加はるまじきなり。されば、是亦秘釋の説を以て可とせざるぺからず。こは編著も曾て、此のシを濁る方に從ひしが、今にして思へば誤謬なりき。
さて、全章の意義を四句偈の原文と引き合せて見るに、春華秋葉の紅深きも、明日をも待たで散りゆくにたとへて、諸行無常の句意を冩し、我、人、目前の強健をたのみ、富貴にほこりて、いつまでもかくあらるゝものゝ如く明し暮せど、無常の風一たびさそはヾ、忽ちにして・夕の烟朝の露と滑えて跡無き意を、我世たれぞ常ならんの一句に含めて、是生滅法の義を竭せり。唯此のぞ辭、語法に合はざるが如く論ずるものあり。こは下に記すぺし。有爲の奥山けふこえて、此の一句作者の最も苦心せしところなるべし。何とならぱゐの音の語に適當のもの少なけれぱなり。然るに、有爲の奥山といふ、假設の山を案出して、これを填め、而して其の痕跡を人に知らしめざるものは、作者の苦心の程、想ふぺし。結尾のアサキユメミシヱヒモセズ、四十七字中既に用ゐ盡されし残餘の難字を葉めて、迷雲既に霽れ、眞如の月を觀るの意なる、寂滅爲樂の一句を、平然と為し去れるは、誰か其の霊腕に驚かざるものあらんや。恐くは、多年此の種の作に習熱せるものゝ手に出でたるに非ずば、豈此の如くなるを得んや。
「ゆめみし」としているという「秘釋」というのは、覺鑁という人(1143没)の「蜜厳諸秘釋」という本です。「淺夢不酔」と書いて有って、「夢見し」の「し」を、動詞「す」の連用形と考えるのは、大矢透のようです。「悉曇輪略圖抄」は鎌倉時代のもので、「淺夢見不、酔不」とあるようです。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1997年 4月 21日 月曜日 18:18:04)
江戸時代のいろは関係を見てみたのですが、このへんのことは触れてない本も多いようです。題名は「伊呂波……」でも、平仮名のことを書いた本であったりするわけです。
以下、全く個人的な備忘です。
盛典の『伊呂波童蒙抄』(延享元年)では、「不夢不酔」。
『以呂波伝』(宝永3年、九州大学附属図書館音無文庫 513イ12)「世の有様はたゝあさきゆめを見たるやうにて、ゑもいはれぬと也」
伴直方『以呂波考』(文政4年、国語学大系)、「夢不見酔不為」
伴信友『仮字本末』(嘉永3年刊)、意味は説明せぬが、国語学大系・伴信友全集、共に「夢見し」と濁点なし。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1997年 4月 22日 火曜日 3:34:25)
「ゆめみし」はすでに院政期にそう訓まれていた可能性があるわけですね。しかも「夢見す」の連用形なんですね。とすれば「『き』の連体形ではないだろう」というのはもともとナンセンスでした。
大矢透の文章は難しいですが、
>>一切の雑業を夢と爲し酔に比して、いさゝかも、かゝることを爲さゞる
>>意なるが故に、之に未然の意は加はるまじきなり。
というのは、つまり、
「一切の雑業を夢と為し、酔〔ヱフ〕」
ということを
「いささかもしない」
の意味だといっているわけですね。これは拙頁のここにメモした文型(「Aシ、Bシナイ」で〈AモBモシナイ〉の意を表す)なのでしょうね。
そこで「ゆめみじ」とせずに「ゆめみし」がよかろう、というのが大矢透の趣旨かと解釈しました。