見している者です。團伊玖磨氏が、日本における唱歌の発達などを、歌を交えて
楽しく語ってくれます。
ところで昨日の放送では、「はなさかじじい」(石原和三郎作詞、田村虎蔵作
曲)の歌詞中の「ぽちがなく」について、「この犬の名『ぽち』は外来語である」
と言っていました。私は「ぽっちり」とか「ぽつぽつ」とか、斑点をいう日本語
からだと思っていたので、にわかには信じがたい気がしました。
番組のテキストでは
〉また「ぽち」という犬の名前は、英語のスポッティ(spotty、斑点のある、ま
〉だらの、の意)からきたものです。つまり、“ぶち”の犬を西洋人がこう呼ぶ
〉のを聞いた明治時代の日本人が、犬の名前はポチというのだな、と思い込んだ
〉わけです(同様に、外国人がいつも「カム・ヒヤ(come here)」と犬を呼ん
〉でいるのを見て、犬の名前を「かめ」思い込んだ、という話もあります)。誤
〉解に基づくとはいえ、犬をポチと表現するのは、当時としてはモダンな感覚と
〉いえるでしょう。
(團伊玖磨「日本人と西洋音楽〜異文化との出会い」日本放送出版協会、97.4.1)
とあります。後段の「カメ」については、楳垣實『日本外来語の研究』その他に
も取り上げられており、抵抗はないのですが、「spotty=ぽち」説は語源俗解で
はないのでしょうか。それとも有名な話なのでしょうか。
また番組では團氏が「古い歌」として「かめかめ、来い来い、まま食わしょ」
というのがある、と言っていました。講談社文庫『日本の唱歌』索引では分かり
ませんでしたが、いったい何の歌でしょう。
情報言語学研究室(萩原義雄) さんからのコメント
( Date: 1997年 5月 16日 金曜日 11:48:03)
「ぽち」は外来語
戦前までわずかながらも生きながらえていた「ことばの習慣」のひとつに、洋犬を「カメ」と呼ぶというのがありました。「come on」「come here」と呼ぶのを聞いて日本人は「ああ、犬のことをカメって言うんだな」と思い込んだのが始まり。大槻文彦『言海』にもとりあげられ、幕末の書物『横浜奇談』(一八六三)に、
異国の犬をカメカメといふ事と心得、、其犬を見てカメカメとよぶものあ れど、左には非ず。彼方にて都て目下の者を招くの言葉にて、犬の惣名に は非ず。
と耳から学んだことばの誤りを指摘している書物もあったのですが、世間というもの一度言い出したらどこまでものようで、渡辺温訳『通俗伊蘇普物語』(一八七三)などでも誤りと知っていて使用するといった情況が生まれたのです。
さて、本題の「ぽち」、團さんの指摘は外来語辞典に見えるからしてこれを典拠にした表現でしょう。ダルメシアンやポインター種のブチ犬の「spotty」がポチとなっているようです。
そこで氣になる歌を紹介します。
うらの畑でポチがなく
正直爺さん、掘ったれば、
…………
この花咲爺さんの時代(御伽草子)には「ポチ」と呼ばれる犬はいたのか?だれも氣づかず、ただ「ぽち」は日本古来の名称と思いこみ歌うんですネ。
昔話では「犬ころ」なのであって、まだ名前がないのに「ぽち」だって言ってしまったのです。じゃあこの唄の成立はいつかといえば、明治三四年六月に幼年唱歌(石原和三郎作詞、田村虎藏作曲)として発表されたものなんです。
ところで、「ぽち」ですが、アメリカでは小さな犬を見ると「ヘイ、プーチ、プーチ」と呼ぶんだそうですヨ。すなわち、「pooch」が「ポチ」と聞こえたのが本当じゃあないのでしょうか。
情報言語学研究室(萩原 義雄) さんからのコメント
( Date: 1997年 5月 16日 金曜日 12:52:25)
花咲爺さんの時代の選択
御伽草子と書いてしまって、それでよかったかな?と自問自答。早速CD-ROM電子辞書で確認。すると時代にずれがあるのです。うーむ!どないしましょ。とありあえず、このまま訂正をしておきます。
広辞苑第四版
はなさか‐じじい【花咲爺】‥ヂヂイ
(花咲カセ爺の約) 昔話の一。枯木に花を咲かせたという翁のお伽噺。愛犬報恩の物語に、欲の深い老人の物真似失敗談を加えたもの。室町末か江戸初期頃に成る。
大辞林第二版
はなさかじじい -ヂヂイ 【花咲か爺】
昔話の一。正直者の爺が,拾った小犬の力で宝物を得たり,枯れ木に花を咲かせたりする話。隣の欲深爺がそのまねをして失敗する話をからませてある。江戸中期以降の文献にみられる。
ENCYCLOPEDER NIPPONICA2001
花咲爺 はなさかじじい
昔話。動物の力で富を得ることを主題にした致富譚(たん)の一つ。外枠は「隣(となり)の爺(じじ)」型で、「動物報恩譚」の要素もある。善い爺がイヌを飼う。イヌが畑を掘る。そこを掘ると小判が出る。悪い爺がイヌを借りてまねると汚い物が出る。悪い爺はイヌを殺す。善い爺はイヌを葬り、墓にマツの木を植える。マツはすぐに成長する。善い爺がマツで臼(うす)をつくり、餅(もち)を搗(つ)くと小判が出る。悪い爺が臼を借りて搗くと汚い物が出る。悪い爺は臼を焼く。善い爺がその灰をまくと、枯れ木に花が咲き、殿様から褒美をもらう。悪い爺がまねをすると、殿様の目に灰が入り、とがめを受ける。赤本の『枯木花(かれきにはな)さかせ親仁(じじ)』をはじめ、江戸中期以後の文献にみえ、江戸時代の五大童話の一つになっている。明治以後も絵本や読み物で広く親しまれている。昔話には、ほかに、結末が善い爺が灰をまくとガンの目に入って、ガンがたくさんとれたとか、墓から生えた竹が天の金蔵を破って金が降ってきたとかという「雁取(がんとり)爺」もある。
これらの昔話の類話は、朝鮮や中国にもある。2人の兄弟が財産を分ける。弟はもらったイヌで畑を耕して富む。兄はイヌを借りるが失敗して殺す。弟がイヌを葬ると、その墓から竹が生え、それで弟は富む。兄はまねるが失敗する。細部まで「花咲爺」や「雁取爺」とよく共通しており、明らかに同源である。「花咲爺」や「雁取爺」には、主題の核であるイヌは、「桃太郎」と同じく川上から箱に入って流れてきたという語り方があるが、これは昔話の語り始めの「語りの様式」で、この昔話の本質ではない。つまらない遺産として得たイヌの力で富を得る「兄弟と犬」のイヌがキツネにかわった類話は、モンゴルや新疆(しんきよう)のウイグル族にもある。キツネは、フランスのシャルル・ペローの昔話集の「長ぐつをはいた猫」のネコのように、人格的に活動して主人を富ませるものもある。これは、「花咲爺」型のイヌが、行動上は現実的でありながら、内面的には転生によって主人を富ます宗教性を示しているのに対して、「長ぐつをはいた猫」型のキツネは、行動そのものが人格的で、宗教性を前面に出しており、宗教性が外面的か内面的かだけの違いである。
キツネが、サル、ジャッカルに変化した類話は、インド、インドネシアにもある。「長ぐつをはいた猫」型は、トルコを通って、ペローの昔話集をはじめ、ヨーロッパ全域に分布している。これが「花咲爺」型と分化したのは、二つの型が接している中国大陸であろう。この二つの型の違いは、現実的な東アジアの昔話と、空想的な西アジア、ヨーロッパの昔話の質的な差異の現れでもある。〈小島瓔禮〉
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 1997年 5月 16日 金曜日 12:56:39)
團氏のそのテキスト、いずれ取り上げたいと思っていました(ぽちのところではありませんが)。
楳垣外来語辞典がspottie説で書いています。明治時代からの言葉ということです。
荒川外来語辞典には立項されていません。
実際のところはどうなんでしょうね。もし外来語起源だとしても、「ぽっちり」と言うようなことばと関連させられるので定着した、ということなのでしょうが。
カメについては、「目についたことば」の初期のころに書きました。その童謡のことは知りませんでした。
エスという呼び名も気になるところです。よその犬は皆エスと呼ぶ、という話を聞いたことがあります。
→ 洋犬のカメ
okajima さんからのコメント
( Date: 1997年 5月 16日 金曜日 13:31:12)
萩原さんが沢山書き込んで下さっているのに気付かずにおりました。有難うございます。
ただ、エンサイクロペディアからの引用は、ちょっと著作権法上に認められた引用としては長すぎるように思います。
今から会議なので、また後程。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 1997年 5月 16日 金曜日 18:34:10)
早速のレスをいただき、ありがとうございます。
テレビで言うことは話半分で聞くという悪癖ができあがってしまったため、つい團氏の
説を色眼鏡でみてしまいました。はずかしいことです。
あらかわそおべえ『外来語辞典』、『日本国語辞典』ほか二三の書で確認しただけでアッ
プしてしまいました。楳垣『外来語辞典』はみていませんでした。揃えなければ、と思い
ます。
「目についたことば」初期の〈カメ〉も未確認のままということが分かってしまい、恐
縮いたします。
kisimoto さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 02:57:09)
ずいぶん古い話題ですが、面白い例を見つけたので書いておきます。
江戸時代(天保13年、1842年)に出版された「朧月猫の草紙(おぼろづきねこのさうし)」(山東京山作)という草双紙に「ぽち」という名の猫が出て来ます。この本の初編の冒頭に「猫の声を解伝(ねこのこゑをききわけるでん)」という序が有り、その中に「ぽちとなづけしかひ猫に」という句が出て来ます。
犬ではなく猫の名前ですが、江戸時代にもペットにポチと名付けた例が有るわけです。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 10:27:51)
興味深い例ですね。その本は林美一氏の校訂つきのものが河出から出ているようですが、原文にも半濁点が付されているのでしょうか。
kisimoto さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 23:21:10)
わたしが見たのは御指摘の林美一校訂の本(河出書房新社の江戸戯作文庫
の一冊)ですが、これには全丁の影印が付いており、原文の問題の箇所には「本」を字母とする変体仮名で「ほ」と書いた右上に、はっきり小さい丸「゜」が見て取れます。これは間違い無く半濁点だと思います。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 02日 月曜日 00:56:56)
ご確認、どうも有り難うございます。
猫のポチが犬のポチに繋がるとすると、英語説はあやしくなりますね。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 12日 金曜日 22:45:13)
山本夏彦『私の岩波物語』(文藝春秋)に出も「ポチ」の話が出ていると道浦さんが紹介されています。
昔(明治19年)の国語の教科書の話が出てきました。そこには、ここに「Peti」とあるのはフランス語「petit」(プティ)でしょうか。上で萩原義雄さんが言われているアメリカの「pooch」との関係はどうでしょうか。
「ポチハ スナホナ イヌナリ。ポチヨ、コイコイ、ダンゴヲヤルゾ。パンモヤルゾ。」
と書かれていたといいます。それを見ての夏彦の記述を読んでビックリしました。
「当時の教科書派西洋の直訳なのである。さし絵までそっくり頂いているのである。だからポチヨコイコイ、などと画中の少年が言っているのである。ポチはプチPetiの訛りだから、明治以前の犬にはこの名はない。正直爺さんの犬はシロである。パンモ ヤルゾとあるので分った。当時のパンは人間にも珍しいもので犬にやるものではない。」
そうだったのか!
→ ことばの話1619「ポチ」
佐藤 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 12日 金曜日 23:34:19)
言葉の世界・伝言板 2002年8月に記事がありました(ずっと下の方)。参考文献に飛田良文『明治生まれの日本語』があがっており、外来語説は否定されているそうです。飛田氏自身は斑点をあらわす「ぽちぽち」説。
「国語の教科書」にも言及があり、「明治十九年九月,文部省編輯局蔵版『小学校教科書 読書入門』第十九課」と。それにしても山本氏が「ポチはプチPetiの訛りだから」とするのは、何か根拠があるのでしょうか。
田島 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 13日 土曜日 17:30:46)
佐藤さん、私は上記掲示板の「ポチ(補足)」で、「ちなみに、挿絵の犬には斑があります。」と書いておりますが、これは誤りでした。
挿絵は、「イエスシ読本」のものです。私の勘違いでした。済みません。
「フランス語の訛り」説にもとづく記述をもうひとつ。ただし、何を根拠にしているのか不明です。
二葉亭の犬猫を好むことは尋常ではなかった。官報局に勤めはじめたばかりの頃、役所からの帰り道についてきた狐に似た醜い犬を飼い、ポチと名づけてかわいがった。居留地のフランス人が飼い犬を「プチ」と呼び、そのなまりの「ポチ」が明治日本に広まり、以来日本の犬の代表的な呼称となったのである。
「浮雲」にはマルという名で、「平凡」にはポチの実名で登場するこの犬は、明治二十六年一月十七日に行方不明になった。(中略)内田魯庵は、このような二葉亭の犬猫に対する態度を「酷愛」と書いたが、彼自身ものちに飼った駄猫にポチと名づけていつくしんだ。(関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』文春文庫,2003。43頁―44頁)
このころもまだ、「猫」にも「ポチ」と名づける習慣が残っていたということなのでしょうか。
佐藤 さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 13日 土曜日 23:40:21)
田島さん、お出まし、恐縮でございます。一瞬、誤って紹介してしまったかと、びっくりしました。
「酷愛」…… 「辞書にないことば」向きの言葉ですね。『日国2』なら載ってましょうか。
→ 辞書にないことば
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 15日 月曜日 17:38:57)
冒頭発言の「かめかめ、来い来い、まま食わしょ」ですが、泉鏡花「雑談帖 童謡」(『春宵読本』明治42年文泉堂刊に収録とのこと)に類歌があるようです。
郷里(金沢ならん)の童謡を紹介するなかで、「太郎は米搗く、次郎にや云ふな、云ふな」という歌が、この地(東京?)の歌と似ていると記すところに出てきます。
「おほわた來《こ》い、來《こ》い、まゝ食《く》はしよ、お飯《まゝ》がいやなら肴《とゝ》くはしよ。」と此地《このち》にていふのとやゝ似《に》たり。 (泉鏡花文庫「鏡花花鏡」より)「来い来い、まま食わしょ」までが同じで、「おほわた」というところが違います。おおわたとは大腸でもないでしょうが、虫の名でしょうか。