ところで、子どもの歌集を引っ張り出して、「いる」を探してみました。音楽的な処理の問題がありますから、必ずしも、言葉の発音そのものにはなりませんが。
\:下降、/:上昇、−:同音を示します。
どこかで春が どこかで雲雀かないている/
まっかな秋 かこまれている\
秋の子 どこかで焼き栗焼いている/
めだかの学校 みんなでお遊戯しているよ−
さわると秋がさびしがる いがの上にも秋がいる\
夏の思い出 水芭蕉の花が咲いている\
夢見て咲いている\
もずが枯れ木で もずが枯れ木で鳴いている−
学生時代 胸の中に秘めていた\
犬のおまわりさん 泣いてばかりいる/
手のひらを太陽に ぼくらはみんな生きている/
思い出のアルバム 赤い葉っぱも飛んでいた\
サンプルが少ないので、これから何が言えるかは、多分に主観的なものになりますが、どうも、中田喜直さん・小林秀雄さんといずみたくさん・大中 恩さんとの間辺りに境界がありそうに思えます。
中田さんの「めだかの学校」は、終結部で調の主音(ここではドの音のことです。)を連打したもので、音楽的な処理が勝っています。「夏の思い出」では、明らかに下降型が作曲者の言語感覚であったものと思われます。(ちなみに、小生の感覚も同様であり、ここを上昇音型で処理することは、考えられません。)
ところが、いずみさんの「手のひらを太陽に」では、「いる」の「い」は、わざわざ半音上げて(シャープがついた音)上昇が強制されており、これも、明らかに作曲者の言語感覚を反映したものであると思われます。(小生の感覚では、やや無理をしたように聞こえます。)
「いる」がそのまま歌の中で使われる例は、案外少なく、たとえば、「どこかで春が」でも、「生まれてる」(=生まれている)というように5音化処理がされるなどの例が多いようです。もう少し探してみようかな、と思ってはいますが。