「姨捨山に照る月を見で」と塙保己一
岡島昭浩
- 05/1/3(月) 2:44 -
----
目についたことばで書いた、「姨捨山に照る月を見で」の話だが、これが塙保己一に仮託される話が、田中康二氏「板花検校説話の成立と展開」(『論集 説話と説話集』2001)に書かれた。氏は、「目についたことば」を見て、塙保己一としたものは何であるのか、と問い合わせて下さったが、その時は、答えられなかった。
その後、
大町桂月・佐伯常麿『誤用便覧』明治44年。「いさ、いざ」の項の
古歌の
わが心慰めかねつ更科や姨捨山にてる月を見て
の「て」を塙保己一が、
わが心慰めかねつ更科や姨捨山にてる月を見で
と「で」に濁って全然反対の意味とし、以てわが心を咏じたといふことは有名な話で、人の知るところである。
三浦圭三『日本文法講話』(昭和7.2.15 啓文社)3-4ページ
濁点の例を今一つ云ふと、盲人で、学者で、名高い塙検校が信州更科地方へ旅行した時、そのあたりには有名な「姥捨山の月」と云ふのがあって古今集歌人は我心なぐさめかねつ更科や
姥捨山に照る月を見て
更科の里のあたり、姥捨山に照りわたる月を見て、あはれ遠くもきつるかなと、旅愁一入の感に堪へないとの意。解釈に今一説あるがこれが正しいと思ふ)
と云った。それを検校は盲人のことゝて、最後の「て」を「で」として人に示して我心なぐさめかねつ更科や
姥捨山に照る月を見で
成程、盲としての旅のあはれは、よく聞えてゐる。僅かに一語「て」と「で」の相違で目あきと盲との区別がついた訳である。
を、見つけていたが、更に追加。
落合直文『将来の国文』。明治23年に「国民之友」に載せたもので、山本正秀『近代文体形成資料 発生篇』p652-662で見ることが出来る。
塙検校、幕臣某と共に信濃なる姨捨山に至りたる時、某、検校に向ひ、有名なる姨捨山なり、一首詠み給へといふ。検校傍なる人に書かせて出したる歌、
我心なくさめかねつ更科や
姨捨山に照る月を見て
こは古今集雜部にのせたる歌なり。意は姨捨山といふ名につきて、あはれを催し、照る月を見ても我心を慰めかぬるよしなり。某、検校に向ひ、我不學なりといヘども、この歌の古歌なることは知り居れり。君の歌こそ望ましけれといふ。檢校答へけるやう、こは予が歌なり。古歌は[見て]の[て]の文字清みたり、我歌は濁れるなりと答へしとかや。一字の助辭全く歌の意に變化を生じ、盲人の述懐となりしなり。いかに歌かつ靈なるものは助辭にあらずや。
もしかしたら、メール等でご連絡いただいていたのかもしれませんが、以前のメール・アドレスが不通になっており、失礼したのかもしれません。
いずれにしてもありがたいご教示で感謝いたします。ありがとうございました。
ただし、同書では、「見て」「見で」ではなく、「〓{目へんに永}めて」「〓{目へんに永}めで」となっています。
なお、同書は、国会図書館の近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/index.htmlで閲覧できます。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40016016&VOL_NUM=00003&KOMA=13&ITYPE=0
ここですね。
47頁にもありました。