2005年10月17日

引用者によって字句が変わること。「同文同種」「同種同文」

【698】
引用者によって字句が変わること。「同文同種」「...
 岡島昭浩
 - 05/1/23(日) 14:59 -
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「同文同種」あるいは「同種同文」の用例を探していました。その際、上垣外憲一「黄遵憲『日本雑事詩』――清国知識人の明治日本観察――」(『国文学解釈と鑑賞』60-3(1995)特集 外国人の見た日本・日本人)で、小見出しに「同種同文の国」とあるのが目に留まりました。『日本雑事詩』の「原本」に見える長崎の詩を引用した後、その詩句の「桃源」から話を進め、
彼はこう結論する。「要するにいまの日本人はじつはわれらと同文、同種である。」
とし、「黄遵憲の言い出した同種同文という標語」と書いています。

黄遵憲が「同文同種」「同種同文」を作ったのであれば、おもしろいことだと思います。『日本雑事詩』の「原本」は1880年の刊で、かなり早い例ということになると思うのです。東亜同文会が出来たのが1898年で、毎日コミュニケーションズ『明治ニュース事典6』によれば、〔1902.1.20 報知新聞〕に、
近衛公は同文同種の義務を全うせんとしてこの院を設立して、今日の盛大を致したることを祝して、大いに留学生の奮発を促す旨を演説し、

とあり、三谷憲正「博文館『太陽』と朝鮮」(鈴木貞美編『雑誌『太陽』と国民文化の形成』思文閣出版2001.7.28)によれば、山路愛山「韓国の政党及其領袖」(『太陽』第一六巻二号 1900.8.1)に、
大きなる所より着眼すれば日韓は原来同種同文の国にして祖国を同うし、言語の系統を同うし、

とあるのが、私の探した中では、古いところだったからです。まだ孫文関係であるとか、梁啓超などの日本留学生であるとかを組織的に探したわけではないのですが、それにしても、1880年は早そうに思えます。

上垣外氏が注にあげる、平凡社東洋文庫の『日本雑事詩』実藤恵秀, 豊田穣訳を見てみました。長崎の詩のあたりには「同文同種」などは見当たらず、それは、もっと前の徐福のあたりに見えるものでした。つまり、上垣外氏の論において長崎の詩は、徐福の話の中で挿入的に説明されているものです。文は次のようでした。
要するに、いまの日本人は、じつはわれらと同種である。
(p22)
「同文同種」でも「同種同文」でもなく、単に「同種」です。東洋文庫の版の違いかもしれないと思いながら確認出来ずにおりますが電子版があるけれど、あまり使い勝手のよいフォーマットではないので買う気になれずにいます。)、鐘叔河輯注校点『日本雑事詩広注』(湖南人民出版社1981.10)によれば、原文でも「総之今日本人実与我同種」であるようです。なお、実藤恵秀・豊田穣『日本雑事詩』(生活社1943.7.31)では、この部分は「(はぶく)」です。時局柄です。
他の箇所を見ても、
故求通其語甚難。字同而声異、語同而読異、文同而義異、故求訳其文亦難。
などとあり、「文同」とは言っていますが、「同種」とは随分違う印象を持ちます。

「同文同種」については、なお、探りたいものです。




この記事へのコメント
次のものを準備していた際のことでした。
「漢字文化圏」とは。
http://uwazura.seesaa.net/article/15837519.html
Posted by 岡島昭浩 at 2006年04月01日 01:23
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