通俗字源もしくは道学的字源
岡島昭浩
- 04/5/6(木) 22:17 -
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「人」という字は左右で支え合っておらんと倒れてしますのであります。二人でなければ「人」ではないのであります。
というような、道学的字源説。いつからあるのかと思っていましたが、杉山茂丸『百魔』にありました。講談社学術文庫の上巻175頁、
元来支那の太古に文字を拵えた人は皆禅哲である。それが「人」と云う字を拵える時に「|」この様な棒のような「人」と云う字は拵えなかった。「丿」かような画と「\」かような画の二つを寄せて、人と云う字を拵えたのである。一人より外 人がいなかったならば「|」こんな字を人と読ませたであろうが、……
「道学的」と書きましたが、江戸の道学にもあるのでしょうか。
【68】
Re:通俗字源もしくは道学的字源
田島照生
- 04/5/13(木) 22:17 -
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ツリー型になって、書き込ませていただくのは初めてです。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
「人」の通俗字源については、四、五十年まえの邦画かなにかで観たおぼえが
あり、戦後に生じたものだろうと漠然と考えておりました。
しかし、杉山茂丸の生きた時代に存在していたとはつゆ存じませんでした。
「通俗字源」といわれて私がすぐに思い浮かべるのは、「戈を止むる『武』」と、
「厶に背くを公と爲す」(『韓非子』五蠹篇)くらいですが、説文の成立時にも、
すでに「虫なる者は中を屈するなり」などといった通俗字源があったようです。
つぎに引用するものは、「通俗字源」とはまったく関係がありません。
ちょっと下品なのですが、おもしろい(?)発想なので引用します。
「…例えば“匂”は字の形を見ていると、小箱の中に花びらが一枚入っている
ような感じを連想させるし、一方、“臭”は字を解体すると『自らの大』なん
てことになるので、うへーこれはもうクサイに決まってるああ嫌だ嫌だ、とい
った感想を抱かせる。」
(原田宗典『スバラ式世界』集英社文庫,p.30)
いわゆる「字割り」「字詰め」にありがちな発想ですが、「臭」については、
下方を「犬」に作る旧字体を無視してしまっています。
【885】
Re:通俗字源もしくは道学的字源 「聴」
岡島昭浩
- 05/6/10(金) 10:43 -
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「聴」は、「十四の心で」(耳だけではない)というものがあるようです。(「聽」の「一」「王」はどこへ行ったのか、とも思いますが、まあよいでしょう。)
ググって見ると、「十四」を、心の数とするものの他に、十四歳の心で、とするものがありました。
「七つの子」を思い出したことでした。
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きょうは体育の日。体を育てるとは、単に運動能力を高めることではない。「美しい国」をめぐってにぎやかに語られているが、「美しい体」「美しい地域」とは何なのか。体は「人の本(もと)」と書く。時には人間の本のところから考えたい。
(http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/yoroku/news/20061009ddm001070017000c.html)
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当然、「…生まれたり」となければいけないですね。
「朝は十月十日と分析できる」という、俗字源説について、上記ブログのコメント欄で紹介があります。
「人」が支え合う字源説が、金八先生のなかで言われていたがそれはおかしい、ということなどが書いてあります。
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_1.php?ID=37576
http://www.asahi-net.or.jp/~lf4a-okjm/utakotoba.html
ここに書く方がよいとも思いますが、こちらにも。
これはラジオで。
「10回言うと書いて叶うと読む」
これは、産経新聞(大阪)朝刊 14版 2007.2.2 10面
「関西企業大研究 マンダム」4
「十回、口にする」とでもいうところでしょうか。