我事におゐて
Yeemar
- 05/9/15(木) 2:52 -
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宮本武蔵が書き残した箇条書きの文章「独行道」の中に
「一 我事におゐて後悔をせす」
という一箇条があります(熊本県立美術館蔵、正保2年、こちらで画像検索可能)。
これは、岩波文庫『五輪書』の「独行道」(p.165)では「我{われ}事におゐて後悔をせず。」とルビが振られています。
私は「我{わが}事において」と読むべきものではないかと思います。つまり、「自分のことに関しては後悔しない(他人のことについては、ああもすればよかったろうに、と同情することはあるかもしれないが)」という意味になります。
もし「われ」と読むとすれば、これは主語ということになりますが、他の条には「我」という主語がないのに、この条だけにあるというのはへんです。それに、「ことにおいて」という言い方が不自然です。「われ、何ごとにおいても後悔せず」ならわかるのですが。「われ」と読むことには、何か理由があるのか、わかりません。
ネットでは、「我、事において」と書いている人(「われ」派)と、「我が事において」と書いている人(「わが」派)といます。
(引用)
除名がただ一人だけだったことについて、宮本武蔵の言葉を引いて「我事において後悔せずの心境。正しいことをやったと思っている」。〔28日のテレビの〕番組のなかで淡々とした表情で話した。
(引用終了)
とのことです。
記事に送り仮名がないところからすると、野呂田氏は「われ、ことにおいて」と言ったのでしょう。「われ」と読むことが一般的であることを示していると思います。
「ことにおいて」という熟した言い方を知りませんが、「ものにおいて」ならば、韓非子の「矛盾」の話で「吾が矛の利なる、物に於いて陥(とほ)さざること無きなり」(吾矛之利、於物無不陥也)というのがありました。同じ調子で「ことにおいて」もありうるのでしょうか。