『古書通信』を眺めていたら、『奥の細道』の自筆影印に就いて触れてあり、
田一枚植えて立去る柳かな
の句に就いて、
「植えて」の「て」に濁点が付されており(汚れではなく明かに濁点だ、と)、これで「植えで」、つまり「植えないで」の意味であることが明かになった。しかるに影印本の翻字では「植えて」としてある。
というようなことが書いてあった。本当かいなと思って影印本を見てみると、私の目にはやはりこれは汚れか、紙を張り付けてある下の文字が透けて見えているか、という感じである。実際ここは紙を張り付けてある箇所である。
「連用形+て」「未然形+で」が、上下一二段動詞では、濁点を打っていないと見分けがつかないことに拠る、解釈の揺れはあるわけだが、わざとのものもある。
わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見で、と言ったのは塙保己一とも言うが、それは〈学のある盲人と言えば塙検校〉という思い込みに拠る仮託であろう。為永春水『閑窓瑣談』(日本随筆大成(旧)1-6のp550)によれば、宝永の板鼻検校であるという。前田勇『國語随想/俳諧腰辨當』(錦城出版社1943.2.28)によれば、板津検校であるともいうそうである。
次は、前田氏も引いているし、『和訓栞』の大綱にも引いてあった笑い話。
庭の雪に我が跡つけて出でつるをとはれにけりと人やみるらむ
これを、
庭の雪に我が跡つけで出でつるをとばれにけりと人やみるらむ
とすると、「訪はれにけり」が「飛ばれにけり」となって大層面白い。
前田氏の著書から、もう一つ挙げると、漱石の『草枕』で、
馬子唄や白髪も染めで暮るゝ春
の「で」は濁点のある本とない本があるという。
明日の送別会は深酒をしないようにしたいものです。
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