赤瀬川隼『獅子たちの曳光―西鉄ライオンズ銘々伝―』(文春文庫1995.11.10)p192、青バットの大下弘を語る部分においてである。
鐵子夫人はもの静かに語る。七十一歳とは思えぬほど若く、顔肌の美しい婦人である。
この本のp217、「根野菜」も、おや、と思うことばだ。「根菜」なら知っているのだが、これはなんだろう。「ねやさい」それとも「こんやさい」?
福岡出身の私にとって、ライオンズはやはり特別な球団である。しかし西鉄ライオンズの最後の優勝の時に二歳だったわけで、小倉球場の近くに住み、応援するようになった小学五年生の時分にはもう黒い霧を経過していて、最弱球団になっていた。外国人選手はポインターとボレスを覚えている。キャッチャーは宮寺、ファーストが高木喬、セカンドはもう基ではなかったか、サードに竹之内がはいっていたか、ショートは菊川か梅田、外野には東田がいた。《小倉球場での開幕試合を見に行った。》
太平洋クラブの初年が私の中学一年にあたる。この頃からラジオのナイター中継をよく聞いたものだ。太平洋クラブからクラウンライターの頃の選手はよく覚えている。高校三年の時の身売りで福岡を去り、埼玉へ行ってしまうと知ったときは物凄いショックであった。受験するのを関東の大学に変えようかと、半分真面目に考えたものであった。しかし、福岡の応援団が西武球団に福岡平和台球場での惜別試合を開いてくれと頼んだのに対して、拒絶した上でもう応援しなくて良いと言った、という話を聞き、私はアンチ西武になったのでありました。真弓・若菜・竹之内・基といった人々がライオンズから去ったのも好都合でした。
で、私はホークスが福岡にくるのと入れ替わりに関西へ移ったのです。……ということはホークスが福岡に行ってもう8年も経つのね。全然強くならない。
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