「何が悲しゅうて」というウ音便形もあることから、新野氏はこの慣用句が関西方言に由来するものである可能性を考える。
新野氏は近過去から現代に至る幅広い文献から用例を拾い集めてくる、平成の見坊豪紀とも言える人であるが、この「何が悲しくて」に関しては、1988年に遡っているだけである。
以下に掲げる用例は、筒井康隆・田辺聖子と、いずれも関西系の作家である。
- 1968筒井康隆『筒井順慶』角川文庫p34(1970『欠陥大百科』の漫画p161も同様)
何が悲しゅて文学や、ああ文学や文学や、
- 1984筒井康隆『虚航船団』新潮文庫p8
「何が悲しくて自分がそのように猥褻(わいせつ)とも言える恰好(かっこう)をしなくてはならないのか」
- 1986筒井康隆「おもての行列なんじゃいな」『原始人』文春文庫p72
「何をあなた、貴族の令嬢が煙草屋の伜のところへなど何が悲しゅうて嫁に来る」
- 1986筒井康隆『歌と饒舌の戦記』新潮文庫p214
「何が悲しゅうて3-7564(みなごろし)なんちうバスに乗らなあかんねん」
- 1972田辺聖子「おちょろ舟」(『中年の目にも涙』文庫p91)
何が悲しくて女房と一年中くっついていなければならんのだ」
年代は一応1968年まで遡れた。もっと古い用例があるのではないかとも思え、また、関西ではずっと以前から言われている言葉であるようにも思うがどうなのだろうか。
《筒井康隆「乖離」(『文學界』1997-3)にも。村上春樹『はいほー』。佐藤亜紀『陽気な黙示録』》
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