1997年08月31日

【拗音の小書き、その後】

【拗音促音の小さな字】【拗音「やゆよ」促音「つ」の小がきの仕方・その後】と気にしてきたこの問題であるが、『国語表記実務必携』(ぎょうせい)という本に「法令における拗音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について(通知)」というのが載っていた。昭和63年7月20日に内閣法制局長官総務室から内閣総理大臣官房総務課あてに出されたものである。法律の表記においても拗音を小書きにしようというもので、この頃になってやっとか、と思わせられる。さてその中に、

(4)小書きにした「や、ゆ、よ、つ」は、タイプ又は印刷の配字の上では一文字分として取り扱うものとし、(注)に示すように、上下の中心に置き、右端を上下の字の線にそろえる。拗音注(1935bytes)

とある。光村図書の国語教科書などに見える〈右上四分の一〉とは全く違うものだ。手書きと「タイプ又は印刷」という違いは有るが、どうも〈右上四分の一〉の根拠の無さが思われる。
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1997年07月31日

【浴客】

 海水浴に訪れる人のことをこう呼ぶらしい。今年の夏、福井新聞で二度、目にした。温泉とか銭湯ならすっと入るのだが。私の意識では「海水浴」は「浴」であるという気がしていないのだろう。《「海水浴場」を「浴場」では如何》
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1997年07月29日

【糸目を付ける】

 『大学教授になる方法』で有名な鷲田小彌太氏の『教養論』というのが、文庫になっていた。
 立ち読みしてて、親本が出た時に気になっていた部分がそのままであることに気付いた。「本に糸目を付けるな」と書いてあり、いつまでも古い本を持っててはいけない、どんどん処分しなさい、という意味であろうか、そういえば谷沢永一氏もそんなことを言っていた、と思いつつ見てみると、違っていたのである。「本に関しては、金に糸目を付けるな」「本代に糸目を付けるな」という意味であった。
 「糸目を付ける」という言葉の、語源意識が失われて、「〜に糸目を付けない」が〈惜しまずに出す〉ではなく〈惜しまずに金を出して手に入れる〉というような意味に変化したのであろう。
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1997年07月28日

【マスコミとマスコム】

 佐藤さんのシミュレーションを読んで思い出し、またYeemarさん飲みニュケーションとも関わることなのだが、『国語学辞典』(昭和30年)は、マスコミュニケーションの略語を「マスコム」としている。「マスコミ」ではないのである。
 そもそも「マスコミ」というのはどういう略語であろうか。おそらく正統の「マスコミ・ュニケーション」というような下略ではなく、変化形「マスコミ・ニュケーション」の下略ではなかろうか。『国語学辞典』では、こうした誤った言語を元にした略語を嫌って「マスコム」にしたのかもしれない。そもそも「マスコミ」という略し方は何時ごろから言われているものなのだろう。『日本国語大辞典』には円地文子・花田清輝の例が載っている。『現代用語の基礎知識』あたりを年代順にダーッとみて行きたいところであるが、ちょっと面倒である。
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1997年07月04日

【交合は校合なり】

 小松左京『はみだし生物学』(新潮文庫)に、何故、子孫を残すのに両性による生殖が行われるのか、という話が有った。単性生殖ではなぜいかんのか、という話だ。情報が薄れるを避けるためだ、という解釈をしめしていた。遺伝子情報を正しく子孫に伝えるためであるというのだ。小松氏は電子複写、コピーを例に取って説明していた。コピーしたものをコピーしたら薄れてしまう、更にコピーすればもっと薄れる。単性生殖はこれにあたるという。そこで別のコピーと照し合せると、あるコピーでは読み取れなかった情報が読み取れるし、読み誤りも防げる、というのである。

 文献を扱う人間にとってはコピーを例に取るよりも写本を考えた方がよい、と思い、この説に大いに納得が行った。
 ある本を人が写せば、まず誤写(写し間違え)がある。それを更に写すと、新しい誤写が生じるし、場合によっては既にある誤写部分を勝手にねじまげて解釈し、本来の形とは似ても似つかぬものにしてしまうこともある。伝言ゲームと似ているとも言える。
 時代が下ると原本が失われてしまうことが多いので、原本の姿を推定するためにいろんんは写本を集めてきて比較する。これを「校合」と呼ぶ。いろんな写本を比較検討して行くと、原本ではこうではなかったろうか、という推定が行いやすくなる。一つの本だけをじっと見ていてもわからないことが複数の本を突き合わせることによってわかるのである。両性生殖が単性生殖に比べて、遺伝子情報を正確に伝えやすい、というのも素直に頷ける。「交合は校合なり」というのはそういう意味である。
 実は「校合」は「キョウゴウ」と読むのが正しいとされている、伝統にしたがっている。「コウゴウ」と読むと「それでは別の意味になります」と橋本進吉博士は静かにおっしゃったそうだが(出典失念。補:山田俊雄氏。)、この二つは通じていたのだ。先程は、小松氏の説明に「大いに納得が行った」と書いたが、本当は感動してしまったのだった。

 写本にはいろんな系列がある。原本から写したA本とB本があり、A本を写したC本とD本があり、B本を写したE本とF本があり、原本A本B本が残ってないとする。その場合、C本とD本を、あるいはE本とF本を比較するよりも、(C本かD本)と(E本かF本)とを比較する方が原本の姿を復元しやすい。はやく言えば兄弟姉妹を突き合わせるよりも、血縁が遠い関係のものを突き合わせる方がよい、というわけである。
 校合の場合はなるべく多くの写本を参考にするわけだが、交合の場合は2つを選ばなければならないわけだから、あまりに近い関係のものを選んでは比較する意味が無くなってしまうのだ。近親相姦に対するタブーというのもこれで理解できる。
 血縁が近い関係の子供から天才的な子供が生れることがあるとも聞くが、これも、一般的な校合であれば「存疑」となるところが、近い関係の物で対照したために「これで決定」となってしまい、それが旨く行った場合には天才的な才能を示す、と考えることが出来そうである。
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1997年07月02日

【「着ぐるみ」で「操演」】

 子供と一緒にNHK教育テレビで「さんすうみつけた」というのを見ていると、「操演」という言葉が出て来た。中に人間が入るように作られた等身大の人形(「動物形」?)の中に入って演ずることを「操演」と呼んでいるようだ。ただこれは全ての番組で採用している言い方ではないらしく、「人形操作」と書いている番組もある。しかし「人形操作」というのは、「着ぐるみ」の中に入って演じる事だけではなく操り人形をあやつることをも指す。先の「さんすうみつけた」の字幕では、「操演」と「人形操作」の両方が出てきた。
 中に人間が入るように作られた等身大の人形は「着ぐるみ」というらしい。着る「ぬいぐるみ」、ということであろうか。これは何処で覚えた言い方だっかた忘れた。いずれにせよ知ったのは最近のことだ。また「かぶりもの」ともいうらしい(『こりゃ驚いてしまうまの珍タメ語辞典』KAWADE夢文庫1994.1.5 p36)。



http://kotobakai.seesaa.net/article/8260496.html#613
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1997年07月01日

【ホンコンとキングコング】

 今話題の香港だが、hongkongとkingkongが何故ホンコン・キングコングと写されるのか、という疑問がある。ホングコング・キンコンとならないのは何故かというわけである。ピンポン、ヤングソングなどと共に語られることもある。"HANG TEN"はハンテンかハングテンか、ということもちょっと関係ある。
 香港の北京音がxiangkang(シャンカン)であることから、ホンコンというのは英語である、などと書いてある本を見て驚いたことがあるが、これは「香港」の広東音である。「香」と「港」ではちょっと母音が違うのだが、これは本題ではない。

 子音、といっても摩擦音や接近音は問題になりにくいのだが、破裂音(閉鎖音と言った方がよいか)と鼻音が口のどこかで閉鎖を作ることを考えてみると、〈開放している状態から閉鎖する瞬間〉と〈閉鎖した状態から開放する瞬間〉というのが重要であることがわかる。勿論〈閉鎖した状態〉というのもあるわけだが、これは聴覚的には全く重要ではないと思われる。〈閉鎖する瞬間〉を「内破」と呼び(「入破」とも言う、と書いてある本もあるが、「入破」は別の音を示す言葉として使われているので使わない方がよい)、〈開放する瞬間〉を「外破」と呼ぶ。
 子音の後に母音が来る場合には必ず外破を伴うわけだが、子音が来たり語尾である場合は外破がないこともありうる。英語などは外破があるのが普通である(補:これは間違い。)。語尾を例に取れば cat , cap , pack などの無声子音は勿論 sad , tab , bag などの有声子音もそうだ。can , ram , song などの鼻音の場合は、外破が弱い場合もあるが、丁寧な発音では、キャンヌッ、ランムッ、ソングッ、という感じで外破がきかれる。歌唱の場合などははっきり聞える。子音が後続する際についてみると、調音位置が同じ場合には外破がないが(日本の促音も同じ感じ)、調音位置が異なる場合には外破が聞かれる。例えば dictionary の c は後に t が来ているが、c と t の間に気流が出る瞬間がある(川上蓁氏に依ればこれは「無声母音」だというのだが)。
 ところが例えば朝鮮語の場合などはこの子音連続の場合の前の子音の外破はなされないことが多いようだ。ipta などと言う時に、p は破裂せずに t へ移行する感じである。語尾の場合もそうで、あまり外破はきかれない。
 中国語の場合も朝鮮語に近いようで、後続が母音でない場合にはあまり外破することが無い。「後続が母音」といっても、韻尾が子音で次の音節が頭子音の無いものの場合、つまり、 lian'ai のような時には外破が無い(つまりリエゾンが無い)。これは朝鮮語とは異なる(ngの場合にはリエゾンすることもあるようだが)。

 さて香港だが、外破しない中国語で考えると、ホングコングではあり得ない。ホンコンである。英語ではどうか。丁寧に発音すればホンコングであろう。最初の ng は後続の k と調音位置が同じなので外破を伴わない。でホンコングである。ま、外破がはっきり聞えないで、ホンコンと聞えることもあるのでしょうが。
 ではキングコングは何? これはキングが一語であるという意識があるのでしょうね。
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1997年06月07日

FAQ【現代仮名遣いで「地震」はなぜヂシンではないのか】

 現代仮名遣いでは、zi,zuの表記には、原則として「じ・ず」を用います。「ぢ・づ」を用いるのは例外であって、これは「同音の連呼」と「二語の連合」の場合に限られます。「同音の連呼」というのは、「ちぢむ/ちぢれる/ちぢこまる/つづみ/つづら/つづく/つづめる/つづる」といったものです。「二語の連合」は所謂「連濁」で、「ち・つ」で始まる語が後部要素となって複合語となり、連濁して出来たzi,zuは「ぢづ」で書こう、というものです。「はなぢ」などです。


 問題の「地震じしん」は以下の規則によります。

〔注意〕次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであって、上記(1)、(2)のいずれにもあたらず、「じ」「ず」を用いて書く。 例 じめん(地面)/ぬのじ(布地)/ずが(図画)/りゃくず(略図)



この「もともと濁っている」というのは、「連濁によるものではない」ということで、伝統的な言い方に従えば、「本濁」ということになります。漢字の漢音と呉音には清濁の対立をなすものが沢山あります。

    漢音 呉音
  賀 カ  ガ
  才 サイ ザイ
  大 タイ ダイ
  伴 ハン バン

「地」の「チ・ヂ(ジ)」もこれに対応するものです。しかし、漢音と呉音の関係には、これらのように清濁のみの対立、というものだけではありません。例えば、

    漢音 呉音
  下 カ  ゲ
  成 セイ ジャウ(ジョウ)
  弟 テイ ダイ
  白 ハク ビャク

などがそうで、清濁の対立と、韻をどう写しているかの違いの両方が関連しています。「図」も「ト・ヅ(ズ)」で、この仲間です。


 「地」は「チ」だから「ヂ」で書こう、と定めると、この辺りの扱いがとても大変になります。「直ジカに」はチョクだからヂだ、とか、ズサンのズは「杜」であって「杜」にはトの音があるからヅと書かねばならん、とか、「頭痛」はトウだからヅだ、などなど、いちいち考えなければ書けなくなります。考えて書けるのはまだよくて、「住」などは呉音ジュウは知っていても漢音がチュウなのかシュウなのか殆ど知られていません(常用漢字の音訓表にもはいっていませんし、小さな漢和辞典では載せていないようです)。「主シュ」「柱チュウ」のように、諧声符で判断することも出来ません(出来たとしてもなんと大変なことでしょう)。


 現代仮名遣いの基本は表音であり、歴史的仮名遣いのような背後の知識をなるべく避けたい、というのが目的であるはずです。こうした目的を考えると、「地」を「ヂ」と書くようにすると、書き手に漢字音の知識を要求することになってしまい、現代仮名遣いの趣旨から外れてしまうことになるわけです。
 漢字音ではありませんが、「むずかしい」も、「むつかしい」という語形を併用する地域では「むづかしい」と書きたくなる、とかいうことはあります。しかしこれも現代仮名遣いの考えでは、ムツカシイと発音するときは「むつかしい」と書き、ムズカシイと発音するときは、ムツカシイとは無関係に「むずかしい」と書こう、というわけです。

6 この仮名遣いは,「ホオ・ホホ(頬)」「テキカク・テッカク(的確)」のような発音にゆれのある語について,その発音をどちらかに決めようとするものではない。

というのと関連すると思います。



 仮名遣い改訂の歴史を見て行くと、昭和十七年の仮名遣いでは、「地・治」に限って「ヂ」としていたようです。どちらも常用音として「チ」がありますから、〈清濁の対立のみの違い〉の時に限って認める、という立場なのでしょう。



 なお余談ですが、漢音・呉音の対立を考慮に入れれば、字音仮名遣が覚えやすくなります。「*ョウ」は、「eイ」という音があれば「*ヤウ」である(漢音エイ呉音ヤウ)とかです。ただ[漢音ダ行/呉音ナ行](女ヂョ/ニョ)、[漢音ザ行/呉音ナ行](汝ジョ/ニョ)のようなものもあるので、この辺は覚えるか、中国語の知識を援用するしかありません。pinyinでrになるのが[漢音ザ行/呉音ナ行]、nになるのが、[漢音ダ行/呉音ナ行]です。



 今日はFAQですので、目新しいことはありません。
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1997年06月03日

【掘った芋その後】

 以前ふれた「ホッタイモイジルナ」であるが、城生佰太郎・松崎寛『日本語「らしさ」の言語学』(講談社1995.1.9)の表紙に「掘った芋・ホッタイモ・Hottaimo・What time?」と書いてあるので喜んで中を見てみると、

彼(ジョン万次郎)の書いた英語練習帳のWhat time is it now ? の傍らに、「ホッタイモイジルナ」とあるのだ。


として、さらに、

この本、単語「男子」の項を見ると、「ボヲヤ」と出ている。(中略)「女子」を見ると、「ゲロ」と書いてあったりして、


とあり、参考文献を、吉田正俊「女の子はゲロ」(『言語』12-7)としている。
 これを見れば「ジョン万次郎の英語練習帳」が何であるのか分るであろうと、見てみると、これには、

安政年間に出た漂流記には「男子をボヲヤ、女子ゲロ」と記してあったそうです。


と、これまた伝聞で、しかもジョン万次郎とは書いていない。参考文献は大田雄三『英語と日本人』とのこと。これは講談社学術文庫に入っているので見てみたが、ボヲヤ・ゲロだけで「掘った芋」はなさそうだ。
 城生佰太郎『「ことばの科学」雑学事典』(日本実業出版社1994.12.30)のp164にも、ジョン万次郎の名と、私が先日触れたテレビ番組(1984.8.29の放映)、と思われるものに言及して、「掘ったイモいじるな」と書いてある。参考文献としてEmily V. Warinner(宮永孝訳)『ジョン万次郎漂流記』(雄勝堂1991)というのが挙っているが、これは多分、

フハヤ アー ユー ゴエン


などの出典ではないのかな。このワリナーという人のは、昭和41年に田中至という人も訳しているようだ。ジョン万といえば井伏鱒二だが、パラパラ見たところ「掘った芋」はなさそうだ。そういえば『中浜万次郎集成』とかいうのが確か有ったはずだ。あの図書館にあったんだがなあ。《見たけど載ってない》


 私はこれはほとんど「伝説」であると思っています。万次郎への仮託だと思っているわけです。
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1997年06月02日

【倍】

【倍】
 『新聞集成明治編年史2』の446頁に、明治8.12.5 東京日日新聞の記事として、

太政官記事。第百八十三号○自今公文中総て計算上一倍の呼称を止め、従前の諸規則等に一倍と記載有之分は、二倍と改正候条、此旨布告候事。
但譬ば原金高一円の二倍は二円十倍は十円と計算候儀と可心得事。明治八年十二月二日 太政大臣 三条実美 (原文片仮名)

というのが載っている。
 「人一倍」は「人並」のことか、と疑問を持つ人もいるが、「二倍」のことと解される。というか、「倍」が「二倍」の意味なのだということを考えると、「一倍」の方が素直な言い方となる。しかしこのやりかたで「二倍」となると、混乱しそうである。2の2倍は2+2+2=6なのか、それとも倍の倍、つまり 2+2=4,4+4=8なのか。
 こうした混乱を避ける為の布告なのでしょう。あるいは西洋人との間の問題か。
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1997年04月30日

【ミズギョーザ】

 先日の旅行の時に中華料理を食べたのだが、レシートを見てみると、
ミス゛キ゛ヨーサ゛
とかいてある。スイギョーザを食べた積りであったのに。
 「水」は熱くても冷たくても、液体であればよいわけだ、水筒とか。さらに「水蒸気」になるとこれは気体だが、ここまで来ると日常のことばではないように思う。
 「水風呂」はミズブロと読めば、沸かしていない風呂だが、スイフロというと、これは「据え風呂」から来ているのかもしれないのだが、蒸し風呂に対して、お湯が入っている風呂のことだ。
 ともかく、お湯であっためた餃子はスイギョーザでないと落ちつかぬ。



 にも書いたが、西安の小吃(屋台の様なの)で食べる酸湯水餃は本当に美味しかった。ガイドブックなどにも載っている解放路餃子館などで食べるのよりもずっと美味しいのだ。帰国後、日本の餃子の不味さには閉口したものだ。餃子の中身に余計な味を付けすぎなのだ。

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1997年04月26日

【バッシュ】


 子供の小学校入学以来、どうも生活のリズムがつかめない。子供の起床が幼稚園の時よりも一時間半ほど早まり、子供を早く寝せるために、九時ごろ電気を消す。狭い公務員宿舎なのですべての部屋の消すのである。私も寝てしまいそうになる。あとで起き出すのだが、どうもうまく時間がとれないのである。

 バスケットシューズのことを「バッシュ」と呼ぶらしい。私がかつて聞いたのは「バシュー」という呼びかたであったのだが、『新潮現代童話館2』の川島誠「セカンド・ショット」には「バッシュ」と書いてあった。
 「バッシュ」というのはおそらく「*バスシュ」というのが発音しにくいことによって行われているのであろう。発音しにくい、と感じるのは母音の無声化が起りやすい地方に於いてのことである。
 スは無声子音に狭い母音が後続していて、さらに後に来ているのがシュの子音で、これは無声音なので、スの母音は無声化する。
 【オッシさま】で触れたのだが、サ行音が無声化して、次のサ行音に連続した場合、促音と似ている。サ行音が無声化すると、母音部分がサ行子音と同じ様な音になる(サ行子音のままで一拍分保持される)からである。「オッシサマ」の場合には、サ行子音でも同じ種類に属するもの(ヘボン式ローマ字で「sh」で書かれるもの)なので、素直に促音と化すのだが、「*バスシュ」の場合には、「s」と「sh」なのでそのままは促音とならないわけだが、「sh」によって「s」が同化され(後の音が前の音を同化するから「逆行同化」)、「バッシュ」となるのだ。

 めでたし・めでたし。
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1997年04月21日

【説明書の文章】

 ある日、酒を飲み、歌を歌い、翌日起きたら、少し頭が重い。でも頭の重さよりも胸のムカムカの方が強い。寝ていたい気分だが、こう言う時は動き回った方がよいのでは、と散歩に出る。薬屋が目に入ったので、ちょっとした二日酔の薬でももらおうかと立寄る。私としてはソルマックの様なものを想定していたし、いくつか示してくれたものから選べばよいと思ったのだが、「二日酔いの薬を」というと差し出されたのは、ソルマックとグロンサンが一本ずつと錠剤が入っていた。「錠剤は余っても、また飲めば悪酔いしません」と言われ、ことわる元気も無くそれを買ってしまった。店を出てソルマックを飲むと、なかなか気持ちが良い。「口中さわやかに……」などと、外郎売を思い出したりする。しばらく歩いて、帰り際にグロンサンでその錠剤を流し込んだ。
 一端家に戻り、子供を連れて外にでた頃から、具合が悪くなってくる。帰宅し、とうとう寝てしまう。気分が悪い。夜になってから起きて、さきほどの錠剤が何の薬かと見てみる。肝機能を高め二日酔いを回復させるのだと言うが、説明書がひどい。
 
 肝臓は体内での各種代謝の中心的役割を行う重要な臓器のため、……能力が強いため……症状があらわれません。 したがって常に肝機能検査が必要と考えられるわけでサピン錠は下記効能にすぐれた効果をあらわします。

 これを読んでますます頭が痛くなった。日新製薬、しっかりしろ。こうした薬を監督する厚生省にも責任の一端はあるであろう、ってことはないか。でも売薬の説明書はきちんとしてほしいものだ。しかし頭痛薬は殆ど効力を発揮しない私の体だが、この薬にはえらく反応してしまったようだ。
 喉が痛かったのも、歌のせいだと思っていたら、どうやら風邪らしい。どうもここ数日すっきりしない。
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1997年04月16日

【ぬる】

 昨日、通知表評価文、と書いたが、私の小学生時代の通知表を見ると結構厳しいことが書いてある。例えば一年生の時のもの。

 一学期
聞く態度や話す態度に節度がほしいと思います。

手洗いや準備がおそいために配盆がおそくなることがあります。
 二学期
学習時間にもっと元気がほしいと思います。特に体育は力一杯してもらいたいと思います。
仕事がおそいために、人の世話までできにくいようです。体が機敏に動きません。
のろいために完成しないまま終ることがあります。
 三学期
学習態度がやはりだらしないようです。度々注意しますが、なかなかなおりません。そのため聞き落しがあり、失敗も何度かありました。
掃除中にぼんやりしていることがあります。
自分の机の中の整頓は余りできません。


 成績でも、国語の「よい聞き方」の所に×がつけてある。これが一年生の時のだが、何時のをみてもこんなことばかり書いてある。


 五年生の時の担任からはヌルと言われた。動作が緩慢であるからだ。ノロい、というよりもヌルいというのだ。私にとっての最暗黒時代であるこの五年生の時の通信簿は残っていないが、転校する私に対してクラスの人々が書き殴ったノートが残されている。私はこの時の転校はものすごく嬉しかった。終業式の日に転校する人々が教室の前に立っているのをとても羨ましい思いで見ていたのだが、「家から連絡があってお父さんが転勤だ」と言われた。ノートはそんな状況で書かれたものだ。それには、

むこうのがっこうにいってヌルがなおるといいね。

とか、
ヌルの競争相手がいなくなってざんねんです

とか、
のろま中ののろまなので注意するべし

とか、
きびんに動いて先生にすかれてね

とか書いてある。全く好きなことを書くものだ。
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1997年04月15日

【星のとんがり五つ】

 子供の教科書を眺めてみた。道徳だが、東京書籍『どうとく◆みんななかよく1』では、「なんべんもなんべんも おののとうふう」などという古典的なものも入っている。私が小野道風を知ったのは道徳の時間ではなかったと思う。私の記憶では、小学校時代の道徳はNHK教育テレビを見る時間でしかなかった。感想を言ったり書いたりした記憶もない。山田隆夫が出ていたのを見ていたわけだ。



 さて、娘の教科書だが、「うさぎのむねかざり」の「むねかざり」という語は初めて見たが、『日本国語大辞典』には載っている。


 「ちいさなたね」に(p32)、

おまちどうさま

と、現代仮名遣からはずれる例があった。国語ではなく道徳だからよいのだろうか、それともこれは「遠い」という語源の意識は失われているからこれでよいと見なすのであろうか。


 「ぼくのがっこうのこうしょう」の校長先生のお話で、

ほしは、ふつう 五つの とんがりが ありますが、こうしょうは それが 六つ あります。


と言っているが、こういう頭の固いところを見せたらいかんなあ、校長先生よ。他のページの挿絵には星のとんがりがいろんな書かれかたをしているというのに。虹が7色だってのよりも頭が固いんじゃないのかな。「ほしじるし」とか「ほしのしるし」と言えばまあよいのだが。JISでも☆★、「五つのとんがり」って決めてるわけではないのでしょうね。しかし五つで書く習慣と言うのはどこから来ているのだろう。ヒトデを「海星」と書くのは『倭漢三才図会』に出ているが、この本で星はまん丸に描かれている。そういえば、「月日の立つのは早いもんだ」と言ったあのお星さんはどんな形だったっけな。明日見てみよう。《見付けられない。たしか挿絵入のがあったと思ったのだが》


 思い出したのだが、校長先生用の講話見本集のようなものを古書店で見かける。ああいうものがあるということは、多分、推薦書模範文例集とか通知表評価文例集とか言うのもあるのではないかと思う。こちらの方が需要が多そうな気がするし……。でも古書店では見かけないような気がするが何故だろう《通知表用は新刊本の店で見た》。校長用はぱりっとした造本だから売りに出るけど、そうでないのはツブされてしまうのかな。


(道徳の教科書の文章には出典があるものもあるが省略)

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1997年04月14日

【立派な犯罪・無益な戦争】

 子供を連れて、京阪へ一泊の旅行をした。大阪で見かけた大阪府警のポスターに、
援助交際は売春です。

というのがあった。非常に直截的な言い方でどっきりさせるものだが、ふと、
政治献金は賄賂です。
という言葉が思い浮かび、ついで、店などに貼ってある、
万引は立派な犯罪です。

というのを思い出した。
 この「立派な」というのは、
立派な行為です。

というような、〈賞賛に値する〉とは違って、〈十分にそうだと言える〉といった意味なわけだが、やや誤解を招く、というか、屁理窟を受け付ける言い方だ。かといって適当な言い方は難しい。「ちゃんとした犯罪です」でも駄目だし、「堂々たる犯罪です」というのも変だ。「十分に犯罪です」はまあよさそうだが、「十分な犯罪です」ではおかしい。「れっきとした」ぐらいかな。


 そうそう、「嘘つきは泥棒の始まり」ってのも、「嘘をついていたらそこから始まっていつか泥棒になってしまうんだよ」という意味だと思っていたのだが、「兄弟は他人の始まり」という言い方もあるように、〈嘘つきは、もう泥棒の仲間に入ってしまっているのだよ〉という意味だ、という解釈がある。



 それからもう一つ思い出すのは、

無益な戦争はやめましょう

というのに対して、「じゃ、有益な戦争ならいいのか」というような理窟をいう人がいることだ。こういう屁理窟を封じるような表現は可能であろうか。
戦争てえものは、この、無益なものなんですな。そうした、この戦争てえものは、ひとつやめようじゃございませんか。

と長くなってしまうわけだが、こういう修飾の仕方といいますか、説明するような修飾の仕方と、よくあるような限定する修飾の仕方とを区別するような言語があるだろうか、あるとすればどういう風に言い分けているのだろうか、ということを知りたいと思ったりするわけだが、私は知らないんです、残念なことに。
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1997年04月11日

【岡井慎吾】

 私が関心を持っている学者の一人に岡井慎吾がいる。『日本漢字学史』というのを書いた人で、熊本にも居た人である。ところが(というのも変だが)、出身は福井であり、なんだか私と逆のような人ではある。

 図書館の中をうろついている時に、郷土の人物とかいうような本を開いてみたところ、橋本進吉や芳賀矢一にまじって岡井慎吾も載っていた。福井師範の卒業(M26)であったのだ。福井大学教育学部の前身だ。また、ここを卒業した後、福井県内の朝日小学校に赴任し、そこの校歌も作っているという。どんな歌詞を作っているのか見たくなり、「朝日小学校〜年史」みたいな本はないかと捜したのだが見当らない。県立図書館の郷土資料室にでも行かなければ仕方ないかな、と諦めたのだが、その後、地方志のあたりを見ていたら、『朝日村誌』というのがあり、それに朝日小学校の校歌も載っていた。

朝日小学校校歌 岡井慎吾作歌(吉田恒三作曲)
一 昇る朝日と名におへる
  学の庭にうち集ひ
  つむやかたみに教へ草
  のぼる朝日のたゆみなく。


二 のぼる朝日と名におへる

  学の庭をふみならし
  おふす心の杉はしも
  のぼる朝日のいや高く。
(『朝日村誌』大正9.10.15)p17


「おふす」は「おほす」とあるのが普通だろうと思う。《でも「あめつち」には合う。》


 「作詩」ではなく、勿論「作詞」でもなく、「作歌」であるのも面白かった。

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1997年04月09日

【拗音「やゆよ」促音「つ」の小がきの仕方・その後】

 先日書いた、拗音・促音の書きかただが、小学一年生の国語の教科書(光村)でも、右上四分の一に書くように示している。


 文部省國語問題研究会『國語の新しい書きかた』(学徒援護会1947.5.20)を見ると、その「新かなづかいの書きかたについての諸注意」に(p54)、
原則として小がきにする。それで、入門にはそう教えておいて、次第に同じ大きさの字で書いてあっても正しくよみ得るように導いてゆくべきである。

とある。この考え方で行くと、右上四分の一に書くやり方も、「入門にはそう教えておいて」ということなのかもしれない。尚要調査。
その後
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1997年04月07日

【恥垢】

 昨日はPerfecTV!JIC地球の声(278ch)で、「筒井康隆の21600秒」という番組が放送されたはずである。私は現在パーフェクTVを受信できる環境にはないが、この番組の為の公開録画を東京まで聞きにでかけた。そこで朗読されたのは「エンガッツィオ指令塔」という作品なのだが、この作品の朗読は、既に断筆中の秘密朗読会で聞いたものであったから、それを東京へわざわざ行くとは我ながら好きである。ともかく放送されたようなので、公開されたと考えて言及することにする。

 この作品は題名から伺えるように結構スカトロなのだが、作品中、チクと発音されたものは「恥垢」のことであろうと思われる。私自身はこれをチコウと読むし、「恥垢撚れ・近う寄れ」というような駄洒落を聞いたこともあるので、チコウと読む人が多いのではないか、と思いながら辞書を引くとこれが載っていない。チクでも載っていない。「無垢」というのがあるから、呉音のクで読むこともあるのだろうが、世代差とかあるのだろうか。「歯垢」なんてことばも新しそうだが、これは『日本国語大辞典』にも載っている。
 そういえば、「願望」もガンモーと呉音で読まれていた。これは「乖離」にもあったと思う。
 この番組は今後も何度か放送するようだ。多分私もチラリとぐらいは映っているのでないかと思うのだが、それよりも言語資料として、録音でもいいから手に入れたいものである。《大辞林第二版には「チコウ」で立項されていることを教授頂いた。》
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1997年04月06日

【顔肌】

 「手肌」ということばに就いて触れたとき、単に「はだ」と言った場合、顔の肌を指すようだ、と書いたのだが、なんと「顔肌」という例を見つけてしまった。
 赤瀬川隼『獅子たちの曳光―西鉄ライオンズ銘々伝―』(文春文庫1995.11.10)p192、青バットの大下弘を語る部分においてである。
鐵子夫人はもの静かに語る。七十一歳とは思えぬほど若く、顔肌の美しい婦人である。


 この本のp217、「根野菜」も、おや、と思うことばだ。「根菜」なら知っているのだが、これはなんだろう。「ねやさい」それとも「こんやさい」?


 福岡出身の私にとって、ライオンズはやはり特別な球団である。しかし西鉄ライオンズの最後の優勝の時に二歳だったわけで、小倉球場の近くに住み、応援するようになった小学五年生の時分にはもう黒い霧を経過していて、最弱球団になっていた。外国人選手はポインターとボレスを覚えている。キャッチャーは宮寺、ファーストが高木喬、セカンドはもう基ではなかったか、サードに竹之内がはいっていたか、ショートは菊川か梅田、外野には東田がいた。《小倉球場での開幕試合を見に行った。》
 太平洋クラブの初年が私の中学一年にあたる。この頃からラジオのナイター中継をよく聞いたものだ。太平洋クラブからクラウンライターの頃の選手はよく覚えている。高校三年の時の身売りで福岡を去り、埼玉へ行ってしまうと知ったときは物凄いショックであった。受験するのを関東の大学に変えようかと、半分真面目に考えたものであった。しかし、福岡の応援団が西武球団に福岡平和台球場での惜別試合を開いてくれと頼んだのに対して、拒絶した上でもう応援しなくて良いと言った、という話を聞き、私はアンチ西武になったのでありました。真弓・若菜・竹之内・基といった人々がライオンズから去ったのも好都合でした。


 で、私はホークスが福岡にくるのと入れ替わりに関西へ移ったのです。……ということはホークスが福岡に行ってもう8年も経つのね。全然強くならない。

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