1997年08月31日

【拗音の小書き、その後】

【拗音促音の小さな字】【拗音「やゆよ」促音「つ」の小がきの仕方・その後】と気にしてきたこの問題であるが、『国語表記実務必携』(ぎょうせい)という本に「法令における拗音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について(通知)」というのが載っていた。昭和63年7月20日に内閣法制局長官総務室から内閣総理大臣官房総務課あてに出されたものである。法律の表記においても拗音を小書きにしようというもので、この頃になってやっとか、と思わせられる。さてその中に、

(4)小書きにした「や、ゆ、よ、つ」は、タイプ又は印刷の配字の上では一文字分として取り扱うものとし、(注)に示すように、上下の中心に置き、右端を上下の字の線にそろえる。拗音注(1935bytes)

とある。光村図書の国語教科書などに見える〈右上四分の一〉とは全く違うものだ。手書きと「タイプ又は印刷」という違いは有るが、どうも〈右上四分の一〉の根拠の無さが思われる。
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1997年06月07日

FAQ【現代仮名遣いで「地震」はなぜヂシンではないのか】

 現代仮名遣いでは、zi,zuの表記には、原則として「じ・ず」を用います。「ぢ・づ」を用いるのは例外であって、これは「同音の連呼」と「二語の連合」の場合に限られます。「同音の連呼」というのは、「ちぢむ/ちぢれる/ちぢこまる/つづみ/つづら/つづく/つづめる/つづる」といったものです。「二語の連合」は所謂「連濁」で、「ち・つ」で始まる語が後部要素となって複合語となり、連濁して出来たzi,zuは「ぢづ」で書こう、というものです。「はなぢ」などです。


 問題の「地震じしん」は以下の規則によります。

〔注意〕次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであって、上記(1)、(2)のいずれにもあたらず、「じ」「ず」を用いて書く。 例 じめん(地面)/ぬのじ(布地)/ずが(図画)/りゃくず(略図)



この「もともと濁っている」というのは、「連濁によるものではない」ということで、伝統的な言い方に従えば、「本濁」ということになります。漢字の漢音と呉音には清濁の対立をなすものが沢山あります。

    漢音 呉音
  賀 カ  ガ
  才 サイ ザイ
  大 タイ ダイ
  伴 ハン バン

「地」の「チ・ヂ(ジ)」もこれに対応するものです。しかし、漢音と呉音の関係には、これらのように清濁のみの対立、というものだけではありません。例えば、

    漢音 呉音
  下 カ  ゲ
  成 セイ ジャウ(ジョウ)
  弟 テイ ダイ
  白 ハク ビャク

などがそうで、清濁の対立と、韻をどう写しているかの違いの両方が関連しています。「図」も「ト・ヅ(ズ)」で、この仲間です。


 「地」は「チ」だから「ヂ」で書こう、と定めると、この辺りの扱いがとても大変になります。「直ジカに」はチョクだからヂだ、とか、ズサンのズは「杜」であって「杜」にはトの音があるからヅと書かねばならん、とか、「頭痛」はトウだからヅだ、などなど、いちいち考えなければ書けなくなります。考えて書けるのはまだよくて、「住」などは呉音ジュウは知っていても漢音がチュウなのかシュウなのか殆ど知られていません(常用漢字の音訓表にもはいっていませんし、小さな漢和辞典では載せていないようです)。「主シュ」「柱チュウ」のように、諧声符で判断することも出来ません(出来たとしてもなんと大変なことでしょう)。


 現代仮名遣いの基本は表音であり、歴史的仮名遣いのような背後の知識をなるべく避けたい、というのが目的であるはずです。こうした目的を考えると、「地」を「ヂ」と書くようにすると、書き手に漢字音の知識を要求することになってしまい、現代仮名遣いの趣旨から外れてしまうことになるわけです。
 漢字音ではありませんが、「むずかしい」も、「むつかしい」という語形を併用する地域では「むづかしい」と書きたくなる、とかいうことはあります。しかしこれも現代仮名遣いの考えでは、ムツカシイと発音するときは「むつかしい」と書き、ムズカシイと発音するときは、ムツカシイとは無関係に「むずかしい」と書こう、というわけです。

6 この仮名遣いは,「ホオ・ホホ(頬)」「テキカク・テッカク(的確)」のような発音にゆれのある語について,その発音をどちらかに決めようとするものではない。

というのと関連すると思います。



 仮名遣い改訂の歴史を見て行くと、昭和十七年の仮名遣いでは、「地・治」に限って「ヂ」としていたようです。どちらも常用音として「チ」がありますから、〈清濁の対立のみの違い〉の時に限って認める、という立場なのでしょう。



 なお余談ですが、漢音・呉音の対立を考慮に入れれば、字音仮名遣が覚えやすくなります。「*ョウ」は、「eイ」という音があれば「*ヤウ」である(漢音エイ呉音ヤウ)とかです。ただ[漢音ダ行/呉音ナ行](女ヂョ/ニョ)、[漢音ザ行/呉音ナ行](汝ジョ/ニョ)のようなものもあるので、この辺は覚えるか、中国語の知識を援用するしかありません。pinyinでrになるのが[漢音ザ行/呉音ナ行]、nになるのが、[漢音ダ行/呉音ナ行]です。



 今日はFAQですので、目新しいことはありません。
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1997年06月03日

【掘った芋その後】

 以前ふれた「ホッタイモイジルナ」であるが、城生佰太郎・松崎寛『日本語「らしさ」の言語学』(講談社1995.1.9)の表紙に「掘った芋・ホッタイモ・Hottaimo・What time?」と書いてあるので喜んで中を見てみると、

彼(ジョン万次郎)の書いた英語練習帳のWhat time is it now ? の傍らに、「ホッタイモイジルナ」とあるのだ。


として、さらに、

この本、単語「男子」の項を見ると、「ボヲヤ」と出ている。(中略)「女子」を見ると、「ゲロ」と書いてあったりして、


とあり、参考文献を、吉田正俊「女の子はゲロ」(『言語』12-7)としている。
 これを見れば「ジョン万次郎の英語練習帳」が何であるのか分るであろうと、見てみると、これには、

安政年間に出た漂流記には「男子をボヲヤ、女子ゲロ」と記してあったそうです。


と、これまた伝聞で、しかもジョン万次郎とは書いていない。参考文献は大田雄三『英語と日本人』とのこと。これは講談社学術文庫に入っているので見てみたが、ボヲヤ・ゲロだけで「掘った芋」はなさそうだ。
 城生佰太郎『「ことばの科学」雑学事典』(日本実業出版社1994.12.30)のp164にも、ジョン万次郎の名と、私が先日触れたテレビ番組(1984.8.29の放映)、と思われるものに言及して、「掘ったイモいじるな」と書いてある。参考文献としてEmily V. Warinner(宮永孝訳)『ジョン万次郎漂流記』(雄勝堂1991)というのが挙っているが、これは多分、

フハヤ アー ユー ゴエン


などの出典ではないのかな。このワリナーという人のは、昭和41年に田中至という人も訳しているようだ。ジョン万といえば井伏鱒二だが、パラパラ見たところ「掘った芋」はなさそうだ。そういえば『中浜万次郎集成』とかいうのが確か有ったはずだ。あの図書館にあったんだがなあ。《見たけど載ってない》


 私はこれはほとんど「伝説」であると思っています。万次郎への仮託だと思っているわけです。
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1997年06月02日

【倍】

【倍】
 『新聞集成明治編年史2』の446頁に、明治8.12.5 東京日日新聞の記事として、

太政官記事。第百八十三号○自今公文中総て計算上一倍の呼称を止め、従前の諸規則等に一倍と記載有之分は、二倍と改正候条、此旨布告候事。
但譬ば原金高一円の二倍は二円十倍は十円と計算候儀と可心得事。明治八年十二月二日 太政大臣 三条実美 (原文片仮名)

というのが載っている。
 「人一倍」は「人並」のことか、と疑問を持つ人もいるが、「二倍」のことと解される。というか、「倍」が「二倍」の意味なのだということを考えると、「一倍」の方が素直な言い方となる。しかしこのやりかたで「二倍」となると、混乱しそうである。2の2倍は2+2+2=6なのか、それとも倍の倍、つまり 2+2=4,4+4=8なのか。
 こうした混乱を避ける為の布告なのでしょう。あるいは西洋人との間の問題か。
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1997年04月30日

【ミズギョーザ】

 先日の旅行の時に中華料理を食べたのだが、レシートを見てみると、
ミス゛キ゛ヨーサ゛
とかいてある。スイギョーザを食べた積りであったのに。
 「水」は熱くても冷たくても、液体であればよいわけだ、水筒とか。さらに「水蒸気」になるとこれは気体だが、ここまで来ると日常のことばではないように思う。
 「水風呂」はミズブロと読めば、沸かしていない風呂だが、スイフロというと、これは「据え風呂」から来ているのかもしれないのだが、蒸し風呂に対して、お湯が入っている風呂のことだ。
 ともかく、お湯であっためた餃子はスイギョーザでないと落ちつかぬ。



 にも書いたが、西安の小吃(屋台の様なの)で食べる酸湯水餃は本当に美味しかった。ガイドブックなどにも載っている解放路餃子館などで食べるのよりもずっと美味しいのだ。帰国後、日本の餃子の不味さには閉口したものだ。餃子の中身に余計な味を付けすぎなのだ。

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1997年04月26日

【バッシュ】


 子供の小学校入学以来、どうも生活のリズムがつかめない。子供の起床が幼稚園の時よりも一時間半ほど早まり、子供を早く寝せるために、九時ごろ電気を消す。狭い公務員宿舎なのですべての部屋の消すのである。私も寝てしまいそうになる。あとで起き出すのだが、どうもうまく時間がとれないのである。

 バスケットシューズのことを「バッシュ」と呼ぶらしい。私がかつて聞いたのは「バシュー」という呼びかたであったのだが、『新潮現代童話館2』の川島誠「セカンド・ショット」には「バッシュ」と書いてあった。
 「バッシュ」というのはおそらく「*バスシュ」というのが発音しにくいことによって行われているのであろう。発音しにくい、と感じるのは母音の無声化が起りやすい地方に於いてのことである。
 スは無声子音に狭い母音が後続していて、さらに後に来ているのがシュの子音で、これは無声音なので、スの母音は無声化する。
 【オッシさま】で触れたのだが、サ行音が無声化して、次のサ行音に連続した場合、促音と似ている。サ行音が無声化すると、母音部分がサ行子音と同じ様な音になる(サ行子音のままで一拍分保持される)からである。「オッシサマ」の場合には、サ行子音でも同じ種類に属するもの(ヘボン式ローマ字で「sh」で書かれるもの)なので、素直に促音と化すのだが、「*バスシュ」の場合には、「s」と「sh」なのでそのままは促音とならないわけだが、「sh」によって「s」が同化され(後の音が前の音を同化するから「逆行同化」)、「バッシュ」となるのだ。

 めでたし・めでたし。
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1997年04月21日

【説明書の文章】

 ある日、酒を飲み、歌を歌い、翌日起きたら、少し頭が重い。でも頭の重さよりも胸のムカムカの方が強い。寝ていたい気分だが、こう言う時は動き回った方がよいのでは、と散歩に出る。薬屋が目に入ったので、ちょっとした二日酔の薬でももらおうかと立寄る。私としてはソルマックの様なものを想定していたし、いくつか示してくれたものから選べばよいと思ったのだが、「二日酔いの薬を」というと差し出されたのは、ソルマックとグロンサンが一本ずつと錠剤が入っていた。「錠剤は余っても、また飲めば悪酔いしません」と言われ、ことわる元気も無くそれを買ってしまった。店を出てソルマックを飲むと、なかなか気持ちが良い。「口中さわやかに……」などと、外郎売を思い出したりする。しばらく歩いて、帰り際にグロンサンでその錠剤を流し込んだ。
 一端家に戻り、子供を連れて外にでた頃から、具合が悪くなってくる。帰宅し、とうとう寝てしまう。気分が悪い。夜になってから起きて、さきほどの錠剤が何の薬かと見てみる。肝機能を高め二日酔いを回復させるのだと言うが、説明書がひどい。
 
 肝臓は体内での各種代謝の中心的役割を行う重要な臓器のため、……能力が強いため……症状があらわれません。 したがって常に肝機能検査が必要と考えられるわけでサピン錠は下記効能にすぐれた効果をあらわします。

 これを読んでますます頭が痛くなった。日新製薬、しっかりしろ。こうした薬を監督する厚生省にも責任の一端はあるであろう、ってことはないか。でも売薬の説明書はきちんとしてほしいものだ。しかし頭痛薬は殆ど効力を発揮しない私の体だが、この薬にはえらく反応してしまったようだ。
 喉が痛かったのも、歌のせいだと思っていたら、どうやら風邪らしい。どうもここ数日すっきりしない。
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1997年04月16日

【ぬる】

 昨日、通知表評価文、と書いたが、私の小学生時代の通知表を見ると結構厳しいことが書いてある。例えば一年生の時のもの。

 一学期
聞く態度や話す態度に節度がほしいと思います。

手洗いや準備がおそいために配盆がおそくなることがあります。
 二学期
学習時間にもっと元気がほしいと思います。特に体育は力一杯してもらいたいと思います。
仕事がおそいために、人の世話までできにくいようです。体が機敏に動きません。
のろいために完成しないまま終ることがあります。
 三学期
学習態度がやはりだらしないようです。度々注意しますが、なかなかなおりません。そのため聞き落しがあり、失敗も何度かありました。
掃除中にぼんやりしていることがあります。
自分の机の中の整頓は余りできません。


 成績でも、国語の「よい聞き方」の所に×がつけてある。これが一年生の時のだが、何時のをみてもこんなことばかり書いてある。


 五年生の時の担任からはヌルと言われた。動作が緩慢であるからだ。ノロい、というよりもヌルいというのだ。私にとっての最暗黒時代であるこの五年生の時の通信簿は残っていないが、転校する私に対してクラスの人々が書き殴ったノートが残されている。私はこの時の転校はものすごく嬉しかった。終業式の日に転校する人々が教室の前に立っているのをとても羨ましい思いで見ていたのだが、「家から連絡があってお父さんが転勤だ」と言われた。ノートはそんな状況で書かれたものだ。それには、

むこうのがっこうにいってヌルがなおるといいね。

とか、
ヌルの競争相手がいなくなってざんねんです

とか、
のろま中ののろまなので注意するべし

とか、
きびんに動いて先生にすかれてね

とか書いてある。全く好きなことを書くものだ。
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1997年04月15日

【星のとんがり五つ】

 子供の教科書を眺めてみた。道徳だが、東京書籍『どうとく◆みんななかよく1』では、「なんべんもなんべんも おののとうふう」などという古典的なものも入っている。私が小野道風を知ったのは道徳の時間ではなかったと思う。私の記憶では、小学校時代の道徳はNHK教育テレビを見る時間でしかなかった。感想を言ったり書いたりした記憶もない。山田隆夫が出ていたのを見ていたわけだ。



 さて、娘の教科書だが、「うさぎのむねかざり」の「むねかざり」という語は初めて見たが、『日本国語大辞典』には載っている。


 「ちいさなたね」に(p32)、

おまちどうさま

と、現代仮名遣からはずれる例があった。国語ではなく道徳だからよいのだろうか、それともこれは「遠い」という語源の意識は失われているからこれでよいと見なすのであろうか。


 「ぼくのがっこうのこうしょう」の校長先生のお話で、

ほしは、ふつう 五つの とんがりが ありますが、こうしょうは それが 六つ あります。


と言っているが、こういう頭の固いところを見せたらいかんなあ、校長先生よ。他のページの挿絵には星のとんがりがいろんな書かれかたをしているというのに。虹が7色だってのよりも頭が固いんじゃないのかな。「ほしじるし」とか「ほしのしるし」と言えばまあよいのだが。JISでも☆★、「五つのとんがり」って決めてるわけではないのでしょうね。しかし五つで書く習慣と言うのはどこから来ているのだろう。ヒトデを「海星」と書くのは『倭漢三才図会』に出ているが、この本で星はまん丸に描かれている。そういえば、「月日の立つのは早いもんだ」と言ったあのお星さんはどんな形だったっけな。明日見てみよう。《見付けられない。たしか挿絵入のがあったと思ったのだが》


 思い出したのだが、校長先生用の講話見本集のようなものを古書店で見かける。ああいうものがあるということは、多分、推薦書模範文例集とか通知表評価文例集とか言うのもあるのではないかと思う。こちらの方が需要が多そうな気がするし……。でも古書店では見かけないような気がするが何故だろう《通知表用は新刊本の店で見た》。校長用はぱりっとした造本だから売りに出るけど、そうでないのはツブされてしまうのかな。


(道徳の教科書の文章には出典があるものもあるが省略)

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1997年04月14日

【立派な犯罪・無益な戦争】

 子供を連れて、京阪へ一泊の旅行をした。大阪で見かけた大阪府警のポスターに、
援助交際は売春です。

というのがあった。非常に直截的な言い方でどっきりさせるものだが、ふと、
政治献金は賄賂です。
という言葉が思い浮かび、ついで、店などに貼ってある、
万引は立派な犯罪です。

というのを思い出した。
 この「立派な」というのは、
立派な行為です。

というような、〈賞賛に値する〉とは違って、〈十分にそうだと言える〉といった意味なわけだが、やや誤解を招く、というか、屁理窟を受け付ける言い方だ。かといって適当な言い方は難しい。「ちゃんとした犯罪です」でも駄目だし、「堂々たる犯罪です」というのも変だ。「十分に犯罪です」はまあよさそうだが、「十分な犯罪です」ではおかしい。「れっきとした」ぐらいかな。


 そうそう、「嘘つきは泥棒の始まり」ってのも、「嘘をついていたらそこから始まっていつか泥棒になってしまうんだよ」という意味だと思っていたのだが、「兄弟は他人の始まり」という言い方もあるように、〈嘘つきは、もう泥棒の仲間に入ってしまっているのだよ〉という意味だ、という解釈がある。



 それからもう一つ思い出すのは、

無益な戦争はやめましょう

というのに対して、「じゃ、有益な戦争ならいいのか」というような理窟をいう人がいることだ。こういう屁理窟を封じるような表現は可能であろうか。
戦争てえものは、この、無益なものなんですな。そうした、この戦争てえものは、ひとつやめようじゃございませんか。

と長くなってしまうわけだが、こういう修飾の仕方といいますか、説明するような修飾の仕方と、よくあるような限定する修飾の仕方とを区別するような言語があるだろうか、あるとすればどういう風に言い分けているのだろうか、ということを知りたいと思ったりするわけだが、私は知らないんです、残念なことに。
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1997年04月11日

【岡井慎吾】

 私が関心を持っている学者の一人に岡井慎吾がいる。『日本漢字学史』というのを書いた人で、熊本にも居た人である。ところが(というのも変だが)、出身は福井であり、なんだか私と逆のような人ではある。

 図書館の中をうろついている時に、郷土の人物とかいうような本を開いてみたところ、橋本進吉や芳賀矢一にまじって岡井慎吾も載っていた。福井師範の卒業(M26)であったのだ。福井大学教育学部の前身だ。また、ここを卒業した後、福井県内の朝日小学校に赴任し、そこの校歌も作っているという。どんな歌詞を作っているのか見たくなり、「朝日小学校〜年史」みたいな本はないかと捜したのだが見当らない。県立図書館の郷土資料室にでも行かなければ仕方ないかな、と諦めたのだが、その後、地方志のあたりを見ていたら、『朝日村誌』というのがあり、それに朝日小学校の校歌も載っていた。

朝日小学校校歌 岡井慎吾作歌(吉田恒三作曲)
一 昇る朝日と名におへる
  学の庭にうち集ひ
  つむやかたみに教へ草
  のぼる朝日のたゆみなく。


二 のぼる朝日と名におへる

  学の庭をふみならし
  おふす心の杉はしも
  のぼる朝日のいや高く。
(『朝日村誌』大正9.10.15)p17


「おふす」は「おほす」とあるのが普通だろうと思う。《でも「あめつち」には合う。》


 「作詩」ではなく、勿論「作詞」でもなく、「作歌」であるのも面白かった。

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1997年04月09日

【拗音「やゆよ」促音「つ」の小がきの仕方・その後】

 先日書いた、拗音・促音の書きかただが、小学一年生の国語の教科書(光村)でも、右上四分の一に書くように示している。


 文部省國語問題研究会『國語の新しい書きかた』(学徒援護会1947.5.20)を見ると、その「新かなづかいの書きかたについての諸注意」に(p54)、
原則として小がきにする。それで、入門にはそう教えておいて、次第に同じ大きさの字で書いてあっても正しくよみ得るように導いてゆくべきである。

とある。この考え方で行くと、右上四分の一に書くやり方も、「入門にはそう教えておいて」ということなのかもしれない。尚要調査。
その後
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1997年04月07日

【恥垢】

 昨日はPerfecTV!JIC地球の声(278ch)で、「筒井康隆の21600秒」という番組が放送されたはずである。私は現在パーフェクTVを受信できる環境にはないが、この番組の為の公開録画を東京まで聞きにでかけた。そこで朗読されたのは「エンガッツィオ指令塔」という作品なのだが、この作品の朗読は、既に断筆中の秘密朗読会で聞いたものであったから、それを東京へわざわざ行くとは我ながら好きである。ともかく放送されたようなので、公開されたと考えて言及することにする。

 この作品は題名から伺えるように結構スカトロなのだが、作品中、チクと発音されたものは「恥垢」のことであろうと思われる。私自身はこれをチコウと読むし、「恥垢撚れ・近う寄れ」というような駄洒落を聞いたこともあるので、チコウと読む人が多いのではないか、と思いながら辞書を引くとこれが載っていない。チクでも載っていない。「無垢」というのがあるから、呉音のクで読むこともあるのだろうが、世代差とかあるのだろうか。「歯垢」なんてことばも新しそうだが、これは『日本国語大辞典』にも載っている。
 そういえば、「願望」もガンモーと呉音で読まれていた。これは「乖離」にもあったと思う。
 この番組は今後も何度か放送するようだ。多分私もチラリとぐらいは映っているのでないかと思うのだが、それよりも言語資料として、録音でもいいから手に入れたいものである。《大辞林第二版には「チコウ」で立項されていることを教授頂いた。》
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1997年04月06日

【顔肌】

 「手肌」ということばに就いて触れたとき、単に「はだ」と言った場合、顔の肌を指すようだ、と書いたのだが、なんと「顔肌」という例を見つけてしまった。
 赤瀬川隼『獅子たちの曳光―西鉄ライオンズ銘々伝―』(文春文庫1995.11.10)p192、青バットの大下弘を語る部分においてである。
鐵子夫人はもの静かに語る。七十一歳とは思えぬほど若く、顔肌の美しい婦人である。


 この本のp217、「根野菜」も、おや、と思うことばだ。「根菜」なら知っているのだが、これはなんだろう。「ねやさい」それとも「こんやさい」?


 福岡出身の私にとって、ライオンズはやはり特別な球団である。しかし西鉄ライオンズの最後の優勝の時に二歳だったわけで、小倉球場の近くに住み、応援するようになった小学五年生の時分にはもう黒い霧を経過していて、最弱球団になっていた。外国人選手はポインターとボレスを覚えている。キャッチャーは宮寺、ファーストが高木喬、セカンドはもう基ではなかったか、サードに竹之内がはいっていたか、ショートは菊川か梅田、外野には東田がいた。《小倉球場での開幕試合を見に行った。》
 太平洋クラブの初年が私の中学一年にあたる。この頃からラジオのナイター中継をよく聞いたものだ。太平洋クラブからクラウンライターの頃の選手はよく覚えている。高校三年の時の身売りで福岡を去り、埼玉へ行ってしまうと知ったときは物凄いショックであった。受験するのを関東の大学に変えようかと、半分真面目に考えたものであった。しかし、福岡の応援団が西武球団に福岡平和台球場での惜別試合を開いてくれと頼んだのに対して、拒絶した上でもう応援しなくて良いと言った、という話を聞き、私はアンチ西武になったのでありました。真弓・若菜・竹之内・基といった人々がライオンズから去ったのも好都合でした。


 で、私はホークスが福岡にくるのと入れ替わりに関西へ移ったのです。……ということはホークスが福岡に行ってもう8年も経つのね。全然強くならない。

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1997年04月03日

【つぶやき】

 昨日触れた、前田愛『近代読者の成立』では、〈深夜放送のアナウンサーがつぶやくようにしゃべる〉ことについて触れている(「あとがき」でも)。ラジオが家庭のものから個人のものになったということである。
 たしかにそんな雰囲気が有った。でも今でもそうした流儀を続けている人は居るのだろうか。


 私が「つぶやき」に接したのは、オールナイトニッポンの第二部、すなわち深夜三時以降の部においてである。第一部では比較的元気にあかるく喋るパーソナリティーが多かったように思うのだが、第二部に出てくるような、フォークソンググループの一人であるような男性は、「つぶやく」というかボソボソと消え入りそうな声で語るのであった。歌声はちゃんと出ているのだが、話し声はボソボソモソモソなのである。これを聞くと本当に眠くなるので、「歌うヘッドライト」に替えたものだった。そういえばラジオ局が一つしかない地方では、「オールナイトニッポン第一部→歌うヘッドライト(或は走れ歌謡曲)」という中継の仕方も多かったはずだ。ともかくダイヤルを替えるだけで、深夜から早朝に替わった気がした。KBCラジオを聞き続けた場合には「おはよう浪曲」にならぬと朝は来なかったのだ。
 しかし、その後このボソボソモソモソは影をひそめてしまったのではなかろうか。ネクラという言葉が流行り、明るいのがよしとされた。暗い歌を歌う中島みゆきやさだまさし、更には松山千春などが馬鹿に明るい口調で喋り、大笑いをする。しかも、聴取者に語りかけるというよりも、スタジオ内での会話(パーソナリティーが一人である場合にも、「スタッフ」なる人への語りかけ)がなされ、それをラジオの前で傍聴する、という感じに変化した。
 暗い人達はどうしてるのかな。NHKの「ラジオ深夜便」でも聞いているのだろうか。



 現在のラジオが個人のものである、というのはまさにそうで、私も結婚してからラジオを聞く機会が減った。しかし、車に乗るようになると又聞くようになった。でも朝夕の番組だけである。だから「ラジオ深夜便」は殆ど聞いた事がないのだ。


【最古級・補】
 NHKニュース7でも「最古級」と言っていた。考古学の世界では普通に言うのだろうか。日本語史の方でも使ってみるか。「これは最古級の用例です」と。

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1997年04月02日

【音読(朗読)・黙読】

 私は、玉上琢弥「物語音読論序説」(『国語国文』s25-12)も読んでいない不勉強な者だが、前田愛『近代読者の成立』の同時代ライブラリー版ぐらいは持っていて、その中の「音読から黙読へ」を眺めてみた。何故かと云うと、日下部重太郎『朗読法精説』(中文館書店 s7.10.25)を見ていたら、江村北海の『授業編』が引用してあって、
書を読むに、声をあげて読むがよきや、黙して読むがよろしきやと問ふ人あり。これは各々得失ありて一方に定めてはいひ難し
とあったからだ。黙読が音読と張合っているではないか。
 『授業編』は関心を持っている書物で、一部を電子化したりもしているのだが、以前の私もこの部分に引かれたようで、第二章からはこの部分だけを入力していた。『江戸時代支那学入門書解題集成』の第三集(汲古書院1975.9)でみると、これは「読書第三則」の冒頭にあった。また、「読書第一則」には、
声を発して誦するを読書と云。声を発せずして読むを看書と云。少しの違はあれども。すべてこれを読書と云。
ともあった。

 『日本国語大辞典』で「朗読」を引くと、既に唐の李商隠に「朗読する暇がないので黙って視る」というのが載っていた。


 漢文を黙読するのであれば、日本文を黙読することもあったのではないかと思えるのですが、江戸時代以前のそういうことを示す例はありますでしょうか。
 また、日下部重太郎氏は大変面白い本をいくつか出しています。JIS漢字の選定の際にも参考にされたと聞きました。ただ伝記的な事が全く解りません。ご存じの方はお教え願えれば幸いです。《『国語学大辞典』『現代国語思潮』の項に1876-1938と。『国語と国文学』にある。》

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1997年04月01日

【万愚節】

 今日は「エイプリルフールの日」だった、というと「建国記念日」のように落ちつかぬ言い方だが、これを「万愚節」というらしい。

 『日本国語大辞典』の「万愚節」の項には、「英 April fool の訳語」とあるが、これは間違いだ。本当に英語から入ったのかは知らないが(もとはフランスだともいうが)、英語からだとしたら All fool's day の訳であろう。大正ごろの外来語辞典にはオールフールズデーと書いてあった。しかし「〜節」ってのも大袈裟だな。


 「万愚節」は季語になっているようなので、歳時記などを引けば用例がみつかるだろうが、一体どんな句が、と思ってしまう。『日本国語大辞典』には、中村草田男の

銅像の片手の巻物万愚節
というのが載っているがどういう意味だろう。昭和三十一年の『母郷行』という句集に入っているらしいのだが。


 そういえば福井市ではつい最近まで、小学校の入学式が4/1に行われていたらしい。どこでも4/7ごろが入学式なのだろうと思っていたのだが、そうでもなかったわけだ。多分この、片手に巻物を持った銅像は学校にあるのではないか。違うかな。
【万愚節・補】
 「節とはおおげさ」と書いたが、「万聖節」というのに対応しているのだそうだから、おおげさでよいようだ。

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1997年03月31日

【ドラえもん・神】

 子供を映画に連れて行ったのだが、しずかちゃんはのびた君のことを「のびたさん」と呼んでいるのに気付いた。古風なんだ(参照)

 しかしこの映画「ねじまき」という名であるので村上春樹みたいだ、と思っていたら羊博士みたいなのまで出てきてびっくりした。


 ダイマジンてのが出てきたから、「大魔神」かと思ったら「大魔人」と書いてあった。ひょっとして昔の映画の「大魔神」とは違うのだ、と逃げをうっているのかな。
 「神、シン:ジン」と「人、ジン:ニン」の区別は時として厄介で、神代と人代はジンダイ・ニンダイと読めばよいのだと思うが、人代はジンダイと読まれやすくそうすると神代と混乱する。
 そういえば「鬼神」という言葉をキシンとよめば良い神で、キジンと読めば悪い神である、と書いてある本があるそうだ。確か百科事典か何かにそうある、と何か辞書関係の随筆書に書いてあったと記憶する。これは〈濁音減価〉の現われであろう。《ことば会議室でのYeemarさんの報告を参照》


 「予告編」というのだろうか、映画が始まる前に見せられる宣伝映像で、幸福の科学が作った映画の一部が流れた。「東宝配給」と書いてあったのだが、映画業界に於ける「配給」ってなんなんだろう。


 ドラえもんで小便小僧が動いていたことを、娘(6)が「地球はおおさわぎ」みたいだね、と評した。ツツイストに育ちつつあるのだろう。

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1997年03月30日

【最古級・最も〜ものの一つ】

 3/29の毎日新聞に「最古級の土器」という表現があった。「最高級」という言葉があるのだから「最古級」があってもいいようにも思えるが、「最高級」は「最+高級」である。「高級」という言い方はあるのに「古級」という言い方がないので、「最高級」はよくとも「最古級」が変だと感じるわけである。



 新聞がこの表現で言いたいことはわかる。〈「最古」ではないかもしれないけれどそのクラスだ〉ということであろう。これまでに「最古」と報じたことによっていろいろとクレームが来たりしたのだろうか。


 それはともかく、「最古級」という言い方は「最も古いものの一つ」という言い方を連想させる。「最も〜なものの一つ」という言い方は気になる言い方として言及されることが屡々あるように思うが、今手元には資料はない。「最も」が〈いちばん〉の意味であるなら「〜の一つ」はおかしかろうというわけである。これは、英語の one of the most 〜 の翻訳なのではないかとか、いやいや「最も」が〈いちばん〉の意味であると思うのが行けないのだ、「尤も」という字もあるとかいう。


 この辺を確定するためには用例を集めなくてはならないのだが、これがまた辞書を引いても出てくるわけではないから困る。私の知っている例としては谷崎潤一郎の『文章読本』にあった、ということを記しておこう。

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1997年03月27日

【筆順】

 娘の小学校入学を睨んで教育産業の置いて行ったビデオでは、「筆順もちゃんと覚えないといけません」と言っている。未だに金科玉条としてやっているのかな、と思うのだが、そういえば漢字検定は文部省認定をうたいつつ、筆順を出題しているから、筆順の試験はますます盛んなのであろう。でも、多分筆順の試験問題を作る人は文部省『筆順指導の手びき』(昭和33.3)など見たことがないだろう。あるいは、見たことがある積りでもその一部しか見ていないのだろう。


 「1.本書のねらい」というところに次の様にある。

もちろん,本書に示される筆順は,学習指導上に混乱を来たさないようにとの配慮から定められたものであって,このことは,ここに取りあげなかった筆順についても,これを誤りとするものでもなく,また否定しようとするものでもない。

 実は、この「本書のねらい」のところを削る形でこの「手びき」を掲載している本があるのだ。国語科教育法資料集とかいった本でそういうのがあった。しかしまあこんなのはましな方で、多くは教育漢字の筆順一覧を載せて終り、というのが多い。


 では筆順はどう書いても言いのか、という点に関しては、学習指導要領・国語にも、「筆順にしたがって」とあり、又「手びき」の「5.本書使用上の留意点」には、

1.本書に取りあげた筆順は,学習指導上の観点から,一つの文字については一つの形に統一されているが,このことは本書に掲げられた以外の筆順で,従来行われてきたものを誤りとするものではない。


となっているので、なんでもよい、というわけではないと考えているようである。しかし、「従来行われてきた」筆順がどのようなものであるのかが列挙されている訳ではなくその点は不安である。手びきの中で「広く用いられる筆順が,2つ以上あるもの」として示されているのは、「上点店・耳へん・必・癶・感盛・馬・無・興」といったところである。他の字は2つ以上ないのか?
 例のビデオでも取り上げていた「左右」の筆順だが、この「手びき」では字源主義(象形文字に遡るもの)ではなく、
横画が長く、左払いが短かい字では、左払いをさきに書く。(右有布希)横画が短かく、左払いが長い字では、横画をさきに書く。(左在存抜)

としている。でも「当用漢字字体表」や「常用漢字表」で、「左右」の長さは違っているのかな。原本は見ていないのだが、一般に見られるものでは違わないように見えるのだが。「手びき」では、「本書は字体の手びきではない」と言っているし。「右有……」の筆順にも二種あると言って宜いように思う。


 しかし、「手びき」は当用漢字によっているわけだから、〈常用漢字に沿って〉という名目でよいから、一度〈筆順金科玉条〉の隆盛に反省を促すべく、「筆順指導の手びき」を見直して欲しいもんだ。でも下手に見直すと、また「新筆順!」とか銘打って儲けようとする出版社が居るんだろうと思って悲しくなる。

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