1997年04月03日

【つぶやき】

 昨日触れた、前田愛『近代読者の成立』では、〈深夜放送のアナウンサーがつぶやくようにしゃべる〉ことについて触れている(「あとがき」でも)。ラジオが家庭のものから個人のものになったということである。
 たしかにそんな雰囲気が有った。でも今でもそうした流儀を続けている人は居るのだろうか。


 私が「つぶやき」に接したのは、オールナイトニッポンの第二部、すなわち深夜三時以降の部においてである。第一部では比較的元気にあかるく喋るパーソナリティーが多かったように思うのだが、第二部に出てくるような、フォークソンググループの一人であるような男性は、「つぶやく」というかボソボソと消え入りそうな声で語るのであった。歌声はちゃんと出ているのだが、話し声はボソボソモソモソなのである。これを聞くと本当に眠くなるので、「歌うヘッドライト」に替えたものだった。そういえばラジオ局が一つしかない地方では、「オールナイトニッポン第一部→歌うヘッドライト(或は走れ歌謡曲)」という中継の仕方も多かったはずだ。ともかくダイヤルを替えるだけで、深夜から早朝に替わった気がした。KBCラジオを聞き続けた場合には「おはよう浪曲」にならぬと朝は来なかったのだ。
 しかし、その後このボソボソモソモソは影をひそめてしまったのではなかろうか。ネクラという言葉が流行り、明るいのがよしとされた。暗い歌を歌う中島みゆきやさだまさし、更には松山千春などが馬鹿に明るい口調で喋り、大笑いをする。しかも、聴取者に語りかけるというよりも、スタジオ内での会話(パーソナリティーが一人である場合にも、「スタッフ」なる人への語りかけ)がなされ、それをラジオの前で傍聴する、という感じに変化した。
 暗い人達はどうしてるのかな。NHKの「ラジオ深夜便」でも聞いているのだろうか。



 現在のラジオが個人のものである、というのはまさにそうで、私も結婚してからラジオを聞く機会が減った。しかし、車に乗るようになると又聞くようになった。でも朝夕の番組だけである。だから「ラジオ深夜便」は殆ど聞いた事がないのだ。


【最古級・補】
 NHKニュース7でも「最古級」と言っていた。考古学の世界では普通に言うのだろうか。日本語史の方でも使ってみるか。「これは最古級の用例です」と。

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1997年04月02日

【音読(朗読)・黙読】

 私は、玉上琢弥「物語音読論序説」(『国語国文』s25-12)も読んでいない不勉強な者だが、前田愛『近代読者の成立』の同時代ライブラリー版ぐらいは持っていて、その中の「音読から黙読へ」を眺めてみた。何故かと云うと、日下部重太郎『朗読法精説』(中文館書店 s7.10.25)を見ていたら、江村北海の『授業編』が引用してあって、
書を読むに、声をあげて読むがよきや、黙して読むがよろしきやと問ふ人あり。これは各々得失ありて一方に定めてはいひ難し
とあったからだ。黙読が音読と張合っているではないか。
 『授業編』は関心を持っている書物で、一部を電子化したりもしているのだが、以前の私もこの部分に引かれたようで、第二章からはこの部分だけを入力していた。『江戸時代支那学入門書解題集成』の第三集(汲古書院1975.9)でみると、これは「読書第三則」の冒頭にあった。また、「読書第一則」には、
声を発して誦するを読書と云。声を発せずして読むを看書と云。少しの違はあれども。すべてこれを読書と云。
ともあった。

 『日本国語大辞典』で「朗読」を引くと、既に唐の李商隠に「朗読する暇がないので黙って視る」というのが載っていた。


 漢文を黙読するのであれば、日本文を黙読することもあったのではないかと思えるのですが、江戸時代以前のそういうことを示す例はありますでしょうか。
 また、日下部重太郎氏は大変面白い本をいくつか出しています。JIS漢字の選定の際にも参考にされたと聞きました。ただ伝記的な事が全く解りません。ご存じの方はお教え願えれば幸いです。《『国語学大辞典』『現代国語思潮』の項に1876-1938と。『国語と国文学』にある。》

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1997年04月01日

【万愚節】

 今日は「エイプリルフールの日」だった、というと「建国記念日」のように落ちつかぬ言い方だが、これを「万愚節」というらしい。

 『日本国語大辞典』の「万愚節」の項には、「英 April fool の訳語」とあるが、これは間違いだ。本当に英語から入ったのかは知らないが(もとはフランスだともいうが)、英語からだとしたら All fool's day の訳であろう。大正ごろの外来語辞典にはオールフールズデーと書いてあった。しかし「〜節」ってのも大袈裟だな。


 「万愚節」は季語になっているようなので、歳時記などを引けば用例がみつかるだろうが、一体どんな句が、と思ってしまう。『日本国語大辞典』には、中村草田男の

銅像の片手の巻物万愚節
というのが載っているがどういう意味だろう。昭和三十一年の『母郷行』という句集に入っているらしいのだが。


 そういえば福井市ではつい最近まで、小学校の入学式が4/1に行われていたらしい。どこでも4/7ごろが入学式なのだろうと思っていたのだが、そうでもなかったわけだ。多分この、片手に巻物を持った銅像は学校にあるのではないか。違うかな。
【万愚節・補】
 「節とはおおげさ」と書いたが、「万聖節」というのに対応しているのだそうだから、おおげさでよいようだ。

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1997年03月31日

【ドラえもん・神】

 子供を映画に連れて行ったのだが、しずかちゃんはのびた君のことを「のびたさん」と呼んでいるのに気付いた。古風なんだ(参照)

 しかしこの映画「ねじまき」という名であるので村上春樹みたいだ、と思っていたら羊博士みたいなのまで出てきてびっくりした。


 ダイマジンてのが出てきたから、「大魔神」かと思ったら「大魔人」と書いてあった。ひょっとして昔の映画の「大魔神」とは違うのだ、と逃げをうっているのかな。
 「神、シン:ジン」と「人、ジン:ニン」の区別は時として厄介で、神代と人代はジンダイ・ニンダイと読めばよいのだと思うが、人代はジンダイと読まれやすくそうすると神代と混乱する。
 そういえば「鬼神」という言葉をキシンとよめば良い神で、キジンと読めば悪い神である、と書いてある本があるそうだ。確か百科事典か何かにそうある、と何か辞書関係の随筆書に書いてあったと記憶する。これは〈濁音減価〉の現われであろう。《ことば会議室でのYeemarさんの報告を参照》


 「予告編」というのだろうか、映画が始まる前に見せられる宣伝映像で、幸福の科学が作った映画の一部が流れた。「東宝配給」と書いてあったのだが、映画業界に於ける「配給」ってなんなんだろう。


 ドラえもんで小便小僧が動いていたことを、娘(6)が「地球はおおさわぎ」みたいだね、と評した。ツツイストに育ちつつあるのだろう。

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1997年03月30日

【最古級・最も〜ものの一つ】

 3/29の毎日新聞に「最古級の土器」という表現があった。「最高級」という言葉があるのだから「最古級」があってもいいようにも思えるが、「最高級」は「最+高級」である。「高級」という言い方はあるのに「古級」という言い方がないので、「最高級」はよくとも「最古級」が変だと感じるわけである。



 新聞がこの表現で言いたいことはわかる。〈「最古」ではないかもしれないけれどそのクラスだ〉ということであろう。これまでに「最古」と報じたことによっていろいろとクレームが来たりしたのだろうか。


 それはともかく、「最古級」という言い方は「最も古いものの一つ」という言い方を連想させる。「最も〜なものの一つ」という言い方は気になる言い方として言及されることが屡々あるように思うが、今手元には資料はない。「最も」が〈いちばん〉の意味であるなら「〜の一つ」はおかしかろうというわけである。これは、英語の one of the most 〜 の翻訳なのではないかとか、いやいや「最も」が〈いちばん〉の意味であると思うのが行けないのだ、「尤も」という字もあるとかいう。


 この辺を確定するためには用例を集めなくてはならないのだが、これがまた辞書を引いても出てくるわけではないから困る。私の知っている例としては谷崎潤一郎の『文章読本』にあった、ということを記しておこう。

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1997年03月27日

【筆順】

 娘の小学校入学を睨んで教育産業の置いて行ったビデオでは、「筆順もちゃんと覚えないといけません」と言っている。未だに金科玉条としてやっているのかな、と思うのだが、そういえば漢字検定は文部省認定をうたいつつ、筆順を出題しているから、筆順の試験はますます盛んなのであろう。でも、多分筆順の試験問題を作る人は文部省『筆順指導の手びき』(昭和33.3)など見たことがないだろう。あるいは、見たことがある積りでもその一部しか見ていないのだろう。


 「1.本書のねらい」というところに次の様にある。

もちろん,本書に示される筆順は,学習指導上に混乱を来たさないようにとの配慮から定められたものであって,このことは,ここに取りあげなかった筆順についても,これを誤りとするものでもなく,また否定しようとするものでもない。

 実は、この「本書のねらい」のところを削る形でこの「手びき」を掲載している本があるのだ。国語科教育法資料集とかいった本でそういうのがあった。しかしまあこんなのはましな方で、多くは教育漢字の筆順一覧を載せて終り、というのが多い。


 では筆順はどう書いても言いのか、という点に関しては、学習指導要領・国語にも、「筆順にしたがって」とあり、又「手びき」の「5.本書使用上の留意点」には、

1.本書に取りあげた筆順は,学習指導上の観点から,一つの文字については一つの形に統一されているが,このことは本書に掲げられた以外の筆順で,従来行われてきたものを誤りとするものではない。


となっているので、なんでもよい、というわけではないと考えているようである。しかし、「従来行われてきた」筆順がどのようなものであるのかが列挙されている訳ではなくその点は不安である。手びきの中で「広く用いられる筆順が,2つ以上あるもの」として示されているのは、「上点店・耳へん・必・癶・感盛・馬・無・興」といったところである。他の字は2つ以上ないのか?
 例のビデオでも取り上げていた「左右」の筆順だが、この「手びき」では字源主義(象形文字に遡るもの)ではなく、
横画が長く、左払いが短かい字では、左払いをさきに書く。(右有布希)横画が短かく、左払いが長い字では、横画をさきに書く。(左在存抜)

としている。でも「当用漢字字体表」や「常用漢字表」で、「左右」の長さは違っているのかな。原本は見ていないのだが、一般に見られるものでは違わないように見えるのだが。「手びき」では、「本書は字体の手びきではない」と言っているし。「右有……」の筆順にも二種あると言って宜いように思う。


 しかし、「手びき」は当用漢字によっているわけだから、〈常用漢字に沿って〉という名目でよいから、一度〈筆順金科玉条〉の隆盛に反省を促すべく、「筆順指導の手びき」を見直して欲しいもんだ。でも下手に見直すと、また「新筆順!」とか銘打って儲けようとする出版社が居るんだろうと思って悲しくなる。

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1997年03月26日

【赤血球・白血球】

 セッケッキュウ・ハッケッキュウ、と促音が二つ続く。そのこと自体は珍しくない。「のっかって」「つっぱって」などの動詞のテ型、「ピッポッパ」「ラッタッタ」「アッパッパ」などの擬声語擬態語などがそうだ。



 でも、辞書に載る形で、この様に促音が二つ続くのは珍しいと言ってよかろう。小さい辞書ではこの二語だけ、ということもあるのだが、『広辞苑』の三版で捜しても、この二つの他には、「褐鉄鉱カッテッコウ」「直滑降チョッカッコウ」だけのようだ。外来語を入れても、ウィッケット、サッケッティ、ボッカッチオぐらいのようだ。外来語の促音挿入にもいろいろ問題があるのだが、此處ではおく。
 辞書に載らない形で考えてみると、「六角形」「八角形」がそうだし、辞書には「ホッキョケン」で載るだろう「北極圏」もそうだ。


 考えてみると、「北極圏」はホッキョクケンと言い得るのだが(「[六八]角形」も)、「赤血球・白血球」は「セキケッキュウ・ハクケッキュウ」とは言いづらい。「直滑降」の「チョクカッコウ」も、どこか、ぎ[ごこ]ちない。「褐鉄鉱」は少し性格が違うが、カツテッコウとは言いそうにない(「褐色」は「カツ」ではなく「カッ」でなければ落ちつかぬからということもあろうが)。


 「赤血球・白血球・褐鉄鉱・直滑降」、この三文字熟語、意味から考えるといずれも1+2で、「北極圏・六角形」が2+1であるのと対照的である。セキケッキュウなどとならないのはこういうところに原因が有るように思う。


 ついでに言えば、カ行の前の「キ」が促音化するのは(「的確」のテッカクなど)、「ク」が促音化するの(「学校」のガッコウなど)に比べると辞書に載りにくいのに、セッケッキュウが載っている、というのもセキケッキュウの言いにくさ(「言わなさ」(?))を証明している。

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1997年03月25日

【拗音促音の小さな字】

 子供が小学校に入学するにあたって、市販のものを見ていてびっくりしてしまった。「やゆよっ」などの仮名を小さく書くのに、マスを上下左右の四つに分けてその右上の四分の一に書け、とあるのだ。


 昭和61年の「現代仮名遣い」には、

拗音に用いる「や,ゆ,よ」は,なるべく小書きにする。

とあるだけだし、昭和21年の「現代かなづかい」には、
第九 拗音をあらわすには[や]、[ゆ]、[よ]を用い、なるべく右下に小さく書く。

第十 促音をあらわすには[つ]を用い、なるべく右下に小さく書く。

とある。これは、横書きのことを言っているのだろうか。《縦書きの場合は〈上の字の右下〉と解されるか》


 もしかすると、学校での指導のための何かにこういったことが書いてあるのだろうか。右上四分の一というのは不格好な感じがするが。《後日》
 不格好と言えば、拗音促音を現わすのに、ワープロなどでポイントを落したり、半角にしたりしてやっている人が居たものだが、そういう人はちゃんと減っているだろうか。ワープロソフトが警告を出したりするだろうか。

《後日》

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1997年03月23日

【たいこめ】

 国語学関係の論文や書籍について前年に出された分を記した『国語年鑑』というのがあるのだが、その最新の1996年版(1995年発行のものが載っている)を見ていて驚いた。山本コウタロー等編の『たいこめ辞典 複刻版』というのが載せてあるのだ。

 なぜこんなものが、と思う。今から20年ほど前に、TBSラジオ系の深夜放送であったパックインミュージックで、金曜深夜(土曜未明)は山本コウタローの担当であった。その中の「たいこめコーナー」というのを元にして出来たのが、この『たいこめ辞典』であった。「たいこめコーナー」というのは、
鯛釣(たいつ)り船(ぶね)に米(こめ)を洗(あら)う
というのを逆から読むと、深夜放送向けのネタになる、という投書を元に始まったものであった。「回文」は〈上から読んでも下から読んでも〉というものだが、これは〈下から読むと……〉という趣向であった。


 私はこの放送を福岡のRKBラジオで聞いていた。当時はニッポン放送系のオールナイトニッポンが盛んな頃で、福岡でもKBCラジオで流されていて、友人たちもこれを聞く人が多かったようなのだが、私はこのパックインミュージックを聞いていた。全国的に見てもネットしている局は少なかったと記憶している。ラジオ局が一つしかない地方ではまずオールナイトニッポンを中継しているし、大阪・名古屋といったところでは自主制作番組をやっている(そういえばRKBも自主制作の深夜放送をやっていた時期があった)。
 そんな具合で、オールナイトニッポンに比べれば聴取者は少なかったであろうパックインミュージックも、書物はいくつか出していたように思う。山本コウタローの番組にしても、「恥の上塗り」というのも本になったと思うし、木曜夜の野沢那智・白石冬美は何冊も「もう一つ別の広場」というシリーズを出している。小島一慶・林美雄はどうだったか。


 私はこの頃、「投稿マニア」とまでは行かないが、結構好きだった。『ビックリハウス』では、「教訓カレンダー」には採用されずじまいだったけど「ビックラゲーション」には一度だけ載った。『高二コース』では何度か採用され、原稿依頼が来たこともあったのだが、これは怖気付いて書けなかった。オールナイトニッポンも確か第二部(3:00-)で採用された記憶がある。
 そしてこの「たいこめコーナー」は私の好きな〈ことば遊び〉である。これに投稿しない手はない。でも投稿したのは一度だけだったと思う。ボツになったと思っていた。ところがこの『たいこめ辞典』を書店で見てぱらぱら見ていると、私の作品が載っていたのだ。ただしペンネームである。どういうペンネームであるのかは忘れた。

ミカ思いのことをしたわ

というものであった。著作権は投稿した時点であっちに譲り渡していて、すでに私のものではないのだが(だからこそ「掲載します」の連絡もないわけだ)、引用と言うことでよいだろう。


 その時は買わずにいたのだが、ここ数年、欲しい気持ちがあった。古本屋で出ないだろうかと思っていた。でもこの手のものはなかなか出ないようだ。鶴光とかあのねのねだってたまにしか見かけないのだ。何故欲しいのかというと、こういう言語遊戯関係のものをぼつぼつと集めているからだ。そしてこの「たいこめ」は、回文とは違うようだが、やはり回文に通じるものがあるのだ。例えば先程のものにしても、

ミカ思いのことをした私、男の芋を噛み

とすれば回文になるし、「鯛釣り〜」にしてもそうすることは可能だ。
 そういえばこの「うら」、聞いていた当時は、「おら」を訛らせたものだと思っていたのだが、〈私〉のことを「うら」という地方はいくつもあるのであった。そして福井もその一つだった。


 でも、1200円だ。古本で200円ぐらいなら躊躇せずに買うのだが、わざわざ注文して1200円のを買うかな。うーむ。でも、なぜ覆刻なんてしたのかが買うと分るかもしれないし。《後日

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1997年03月21日

【アンダーグラウンド】

 妻が読み終った村上春樹『アンダーグラウンド』を私も読んだ。村上春樹でなくても書ける、とかいう意見もあるようだが、村上春樹が書いたものでなければ我が家では購入しないであったろう本であることは確かだ。

 「被害者の姿をまんべんなく伝えたい」という姿勢は、証言の活字化の姿勢にも現われていて、普通のインタビュー本であればカットされるのではないかと思われることばもそのまま載せているように思われる。
 p332の「ベッドがだあーっと並んでいる」という「だあーっと」は、私もつかうと思うが、辞書類には載っていないと思う。p404の「かーっと晴れ上がる」、p406「こほこほと咳をする」、p408「体の力がふっふっと抜けてきた」。
 俗語としては、p376「(車で)かっとばす」、p379「メントリ」(免許取消)、p380「けつをあおる」。「かっとばす」で私が使うのは、打って飛ばすのだけだが、ここでは「ぶっとばす」の意味で使っている。
 あと、「(休み|連休|休日)の谷間」という言い方の他に、「連休の中日」という言い方がでてきた(p421と、確かもう一ヶ所)。ナカビなのだろうか。丁度翌21日が彼岸の中日(チューニチ)だがそれは関係なく、相撲などの中日(ナカビ)からだろうか。不思議と「飛び石連休」という言い方は出てこなかった。
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1997年03月20日

【新聞から】

 昨日の送別会は深酒はしなかったのだが、なんだか寒くて日本酒を飲んでしまった。それでどうもいけなかったようだ。


 「服役囚一部釈放」という見出しに、「服部四郎? いや、服部四一郎?」と思ってしまった私。服部四郎氏は言語学者。《小田実『受験指南』(講談社文庫)にも登場する》



 「固化体」。動燃の事故で、「アスファルト固化体」とも書いてあるが、単に「固化体」とも書いてある。変な名称だ。〈固体化した(液)体〉なのだろうか。《「固化施設」という》


 「球春」。『三国』では二版から。


 「牛刀」。諺でしか使わないことばと思っていたら、《オウムの》村井幹部を刺したのは「牛刀」であるという。これも『三国』によれば、肉切庖丁のことをこう呼ぶらしい。

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1997年03月18日

【て・で】

 形式を改めることにした。1日に何項目も書くことはなくなってきたので、リスト形式は辞めようと言うことだ。



 『古書通信』を眺めていたら、『奥の細道』の自筆影印に就いて触れてあり、

田一枚植えて立去る柳かな

の句に就いて、
「植えて」の「て」に濁点が付されており(汚れではなく明かに濁点だ、と)、これで「植えで」、つまり「植えないで」の意味であることが明かになった。しかるに影印本の翻字では「植えて」としてある。

というようなことが書いてあった。本当かいなと思って影印本を見てみると、私の目にはやはりこれは汚れか、紙を張り付けてある下の文字が透けて見えているか、という感じである。実際ここは紙を張り付けてある箇所である。
 「連用形+て」「未然形+で」が、上下一二段動詞では、濁点を打っていないと見分けがつかないことに拠る、解釈の揺れはあるわけだが、わざとのものもある。
わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見
、と言ったのは塙保己一とも言うが、それは〈学のある盲人と言えば塙検校〉という思い込みに拠る仮託であろう。為永春水『閑窓瑣談』(日本随筆大成(旧)1-6のp550)によれば、宝永の板鼻検校であるという。前田勇『國語随想/俳諧腰辨當』(錦城出版社1943.2.28)によれば、板津検校であるともいうそうである。



 次は、前田氏も引いているし、『和訓栞』の大綱にも引いてあった笑い話。

庭の雪に我が跡つけて出でつるをとはれにけりと人やみるらむ

これを、
庭の雪に我が跡つけ出でつるをとれにけりと人やみるらむ

とすると、「訪はれにけり」が「飛ばれにけり」となって大層面白い。


 前田氏の著書から、もう一つ挙げると、漱石の『草枕』で、

馬子唄や白髪も染め暮るゝ春


の「で」は濁点のある本とない本があるという。




 明日の送別会は深酒をしないようにしたいものです。
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1997年03月17日

【卒園など】

 春休みなので時間はある筈なのだが、各種送別会であるとか、その二日酔いであるとか、なんやらかんやらで時間を取られるのである。さらに研究室にPowerMACが出現したので、いろいろとセットアップしたり、SCSIケーブルを買い足さずに繋げるにはどうしたらよいかを考えたりせねばならず疲れてしまう。一度はSCSIケーブルの総延長が長すぎた為、HDが変調を来し、あせったりもした。


 子供の卒園式もあったのだが、その「卒園」ということば、新しげなことばである。案の定『日本国語大辞典』『新明解国語辞典』には載っていない。『三省堂国語辞典』では、第二版からの登場となる。

 一方の「入園」は『日国大』にも載せられていて、学校教育法にその用例があることが分る。
 その他、「園」に関わる語をふと思い立ち調べてみた。


    明解 三省堂  新明解  岩波 新 日
    12 1234 1234 12 解 国
 園児 ○○ −○○○ ○○○○ −− ○ ○
 園舎 −− −○○○ ○○−− −− − −
 園長 ○○ ○○○○ ○○○○ −− − ○
 園庭 −− −○○○ −−−− −− − ※
 園服 −− −○○○ −−−− −− − −
 園帽 −− −○○○ −−−− −− − −
 開園 −※ ※○○○ ○○○○ −− ※ ○
 降園 −− −○○○ −−−− −− − 
 卒園 −− −○○○ −−−− −− − −
 退園 −− −○○○ −−−− −− − 
 登園 −− −○○○ −−−− −− − 
 入園 −○ ○○○○ ○○○○ −− ○ 
 閉園 −− ※○○○ ○○○○ −− − 
※は意味が違う。
切りがないので、これぐらいにする。

 『岩波』は実にいさぎよい。新しい版のは未調査。
 『三国』に載せる「園服」「園帽」は聞いたことが無かった。『三国』では、「退園」を「登園」の対義としているが、私の語感では「登園」の対義は「降園」で、「退園」の対義は「入園」だと思う。勿論、修了せずに出るのが「退園」で修了して出れば「卒園」である。

 上笙一郎・山崎朋子『日本の幼稚園』(集英社文庫1985.12.20、その後ちくま学芸文庫に入った)が自宅にあったのでみてみたが、あまり資料にはならなかった。そこで大学図書館に行って見てみたが、さすがに教員養成学部を擁する図書館だけあっていろいろと資料があった。「園長」の用例は明治時代にあることが分ったし、明治ごろにも「入園・退園」と書いてあるのが分った。


 「登園」の用例としては、徳川夢声『夢声戦争日記(一)』(中公文庫1977.8.10)の昭和17.4.5の条。

今朝、坊やの初登園(?)。
疑問符つきなのは、本人には馴染まないが、母親などが使っていたものであろうか。
《(三)の昭和十八年三月に幼稚園が終るようだが「卒園」などの語は見えないようだ。》
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1997年03月12日

【縮尻(しくじり)】

 井上ひさし『イヌの仇討』(文春文庫1992.4.10)のp83に、「縮尻(しくじ)る」という表記が出てきた。これは初めて見るように思ったが、井上ひさし氏のことであるから、何もなしでいきなりこんな字は使わないであろうと思ったので、まず、杉本つとむ『あて字用例辞典』(雄山閣)を見たが載っていない。次に、『遊字典』(角川文庫1986.8.25、講談社α文庫の増補改題版は買っていない)を見ると(この本も漢字索引が有ればいいのだが)有った。

 十一谷義三郎「仕立屋マリ子の半生」、井伏鱒二「本日休診」にあるとのことである。


 これ以上の用例が無いので推察になるが、「縮尻」は、「縮シク」「尻シリ」という具合に、「しくじり」という連用形(名詞)に宛てられたものであろう。そしてそれを他の活用形にも及ぼしたのであろう。


 「尻シリ」はよいとして、「縮シク」というのはどうなのだ、ということ。
 まずシとシュは(ジとジュも)よく入替わる。子供の頃に「宿題」を「しくだい」と思っていた人は多いだろうし、「手術」なんて「シュジュツ」と発音されることは少ないだろう。逆にもともとジッポンだった「十本」がジュッポンになる。これはジュウに引かれた、ということもあるが、ジとジュが近いからこそ間違えるのだ。
 このことはよく話題にもなるのだが、漢字音のシュク、宿縮粛叔祝蹙……、に関してはもうちょっと厄介なことがある。


 ことば会議室〈「中」の字音〉で書いたことと関係あるのだが、この「宿」等の字は、「育菊畜肉陸」等と同じ韻の字である。「育……」は「イク・キク・チク・ニク・リク」と、iクの形なのに、「宿」等、サ行のものだけ「シュク」となるのだ。

 そこで「これは変だ」と思った江戸の漢字音研究者の中で、これを「シク」と改訂してしまった人もいる。「シュク」の方が訛っている、と思ったのだろう。

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1997年03月11日

【的確】

 昨日からの関連になるのだが、「確」の字を使った「的確」という語がある。これもなかなか面白い語であるように思う。

 『日本国語大辞典』で引くと、明治ごろの例が載っている。しかし中国の例として『朱子語類』も載せている。『朱子語類』といえば、禪宗の語録類と並んで、新しい中国語を日本にもたらしたものとして知られている。日本でももうちょっと古い用例があってよさそうに思う。
 記憶に拠れば、江戸時代の漢文にこの例があった。メモも取ったはずであるが、どこへ行ってしまったのだか。頼春水だったかな。
 こうした漢文の中の漢語の用例と言うものは、どれほど日本語の例として使えるのか、という疑問は当然出てくるのであろうが、日本人が使ったのは事実だ。書いてあれば記録しておくに越したことはない。訓点が施してあれば、音読したか訓読したかまで分って、漢語か否かの判定もやりやすくなるのだが。
 まあこれは、日本人の書いた漢文が日本文学であるか、とか、じゃあ日本人の書いた英語は日本文学なのかよ、とかいう問題とも絡んでくるのだが。


 松井利彦氏は「明確」という語をとりあげた訳だが、これは頼春水の子である頼山陽『日本外史』にあったということだったと思う。

 やはり日本漢文の用例をちゃんと集めなければならないと思う。

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1997年03月10日

【たしかめる】

 ずっと以前から「たしかめる」ということばが気になっている。『日本国語大辞典』を引いても明治の用例しか無いのだ。今思い立って、手元のデータをgrepしてみても(その間に眠くなってしまったので更新が遅れたのです)、近世以前のものにはひっかからないようだ。
 辞典には文語「たしかむ」などと載っているが、「たしかめる」「たしかむ」が明治以前にもし無かったとすると、この行為を何と言っていたのであろう。
 〈明かにする〉の「あきらむ」は「たしかめる」とは意味が少し違うようだし、よく分らない。


 そういえば「確」の字も明治以降になって盛んに使われるようになった、ということを松井利彦氏が書いていらしたように記憶している。松井氏の論を再読しないまま、〈確認するという行為自体が近代的なものなのだ〉というような私好みではない結論にしてしまうのはなんなので、もう少し考える。


 語構成から考えてみると、「たしか」は形容動詞の語幹であり、それをマ行の動詞として活用させるのはありそうなことだ。しかし、「〜か」という語尾を持つもので「〜む」「〜める」という形になっているものは、『広辞苑』の逆引では「たしかめる」以外には見当らない(ただ、形容動詞ではない「短い」を〈短くする〉の意味で「みじかめる」というのは載っていて、『日本国語大辞典』によると幕末の用例がある。英和辞書の訳語であって、気になるところである)

 「たしか」という形は古くから有るのだが、それに「〜む」がついた形がないということなのだが。
 気になるのは「たしむ」あるいは「たしなむ」ということば。意味は「たしかむ」と似ていないようではあるが、全く無関係とも言えないようで(〈気を付ける〉というような意味もあるようだ)、もっと深く知りたいところである。ついでに言えば、「たしなむ」は〈強く好む〉という意味があったのだが、「お酒をたしなむ」と言うのを聞くと、この意味を思い出して可笑しくなる。


 口語から古語を引く辞典は現在は殆ど無いようだが、古作文(「英作文」からの類推)の有った江戸時代・明治時代には作られていた。これでもって「たしかめる」を引いてみれば何か分るかもしれないのだが、手元の『俗語雅調』(弾舜平、明治24)には載っていない。



http://kotobakai.seesaa.net/article/8173724.html?1240502936
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1997年03月09日

【こまめる2・こまめ】

 昨日の「こまめる」について、ことば会議室の方へ、ものぐささんから情報を書込んで頂いた。ちゃんとした福岡方言であるとわかってほっとするとともに、こちらの調査不足にちょっと恥かしくなった。monogusaさんのページからリンクしてある筑豊弁のところにも載っている。他にも九州方言のページを参照すべきであった。


 しかしこれが『日本方言大辞典』『日本国語大辞典』に載っていないと云うことは、古めの方言辞典類には載っていないということで、これがやはり気付かれにくい方言だったということを示しているのであろうか。
 「こまい」は「こまかい」と同源で、接辞の「か」の有無がその差である。「こまい」自体は、まあ方言らしいといえば方言らしいのかもしれないが、その「こまい」から派生した語となるとあまり方言意識を感じないようにも思う。というのは、私は
あいつはコマメな奴だ
という時の「こまめ」ということばを、「こ+まめ」ではなく「こまい」の語幹に「め」の付いた形、つまり、「ふとめ」「ながめ」と同じ形のものだと思って(cf.)、〈こまかいことに気を使う〉といようような意味にとっていたことが有ったからだ。


 しかし、方言ページだけのサーチがあればよいのだが。

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1997年03月08日

【金をくずす・こまめる】

 赤川次郎・横田順彌『二人だけの協奏曲』(講談社文庫1987.10.15)にある、赤川次郎「お札くずし」。この小説では、大きな金を両替して、小さな金にすることを「くずす」と言い、さらに、「細かくする」という言い方も出てくる。『日本方言大辞典』で見てみると、「くだく」「ぶちごす(ぶずぐす・ぼかす・ぼっかす)」が載っている。さらに『日本国語大辞典』では「こわす」もその意味で使っていることが確認できる。「小さくする」とも言うように思う。

 しかし、私の使っている「こまめる」は載っていない。これは「こまかくする」の意味で、形容詞「こまい」に対応する動詞である。「ほそい」に対する「ほそめる」「ひろい:ひろめる」「ふかい:ふかめる」と同様の関係である。ただし、私自身の語感ではこの「こまめる」はお金をこまかくする時にしか使わず、他の物では小さくする場合には使わないと思う。
 ともかくこの「こまめる」、辞書にはみえないし、熊本出身の妻は使ってないし《「きる」》、長谷川法世『博多っ子事情』(集英社文庫1995.9.25)の「博多弁辞典」にも載っていないし、個人言語なのではないかと不安なのである。使うよ、聞いたことあるよ、というかたは是非ご連絡を。
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1997年03月07日

【西郷従道】

昨夜はボッとしてしまいました。
 宮澤甚三郎『日本言語學』(芳賀矢一校閲、弘文館、明治37.8.5)という本がある。方言などにも言及することが多く(各地の方言談話の記録も有る)、面白い本である。
 「音の鼻にかゝるを矯正する法」として、
「字ケシゴム」の附きたる鉛筆にて、懸壅垂の邊を突上げながら練習すべし

とあるとか、「或る場合に飲食物の鼻孔より出づる理由如何」とかある。

 「薩摩人、佐渡人等のラ行音をダ行音に誤る理由、并に矯正法」というのがあるのだが、その中で、
故西郷従道侯、少時の名は隆道なりしに、侯は常に「ヂュードー」と発音せられしより、文字までも従道と書誤られしなりといふ。事実の如何は知るべからざれど兎に角薩州人としては有り得べき事柄なり。

とあるのが興味深かった。これはかつてどこかで聞いたことが有るのだが、明治時代の記録ということで嬉しい。《「隆盛」の弟だから「隆」》
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1997年03月05日

【やっとこせっとこ・ところがどっこい】

 「やっと」を伸した形で『日本国語大辞典』に載っているのは「やっとこ」「やっとこさ」「やっとこさっとこ」「やっとこすっとこ」「やっとこせ」である。

 なぜか「やっとこせっとこ」は載っていない。手持ちの用例としては、田辺聖子『ラーメン煮えたもご存じない』(1977.2.15新潮社p89,1976夕刊フジ連載)に、

やっとこせっとこ医者にする

というのがある。


 これは9/22の「いっつもかっつも」に関わるのだろうが、「ところがどっこい」なんてのはどういうものだろう。何時ごろからあって、何時ごろ定着したものなのだろうか。手持ちの用例としては、小林恭二『小説伝』(福武文庫)p155程度なのだが、私が子供の頃からあった言い方である。

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