男性の中に女性が一人という状態をさして「紅一点」といいますが、その逆の女性の中に男が一人を、さて「黒一点」というのでしょうか、「白一点」と言うのでしょうか?
三省堂国語辞典、新明解国語辞典、広辞苑には載っていません。YAHOOやインフォシークでは、「黒」が8〜9割、「白」が1〜2割というふうな割合でした。
紅白歌合戦では男性は白組です。
みなさんはどちらを使われますか?
益山 健 さんからのコメント
( Date: 2001年 7月 12日 木曜日 3:29:55)
ふつう緑一点ではないのですか?
岡島 昭浩 さんからのコメント
( Date: 2001年 7月 12日 木曜日 12:18:58)
「ふつう」のありようが難しいと思います。
本来のところに戻れば、緑の中の紅一点ですから、逆は緑一点、となるのでしょうが、凡夫の中にいい男が一人居ても「紅一点」とは言わない現状を考えると、紅が女である、と捉えられ、では男性は? となると、黒か白かということになるのでしょう。
赤にたいするものとして、マイナスイメージを持つ場合は黒、プラス若しくは中間的なイメージで白、ということになるような気がします。
「女性陣に囲まれた黒一点です」というと謙遜している感じがしますが、「白一点です」というとなんだか自慢しているような、色男ぶっているような気がしてしまいますが、道浦さんはいかがでしょうか。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2001年 7月 12日 木曜日 13:59:14)
私も「黒一点」だと思ったのですが。「白一点だと、白髪頭の老人が一人というイメージ」という人もいました。
そもそも「紅一点」という言葉が生まれた時代に、「女性の中に男が一人」という状況は、「大奥」など以外にはあまり考えられなかったので、こういった言葉(黒一点」などというものがなかったのではないでしょうか?
小学生の頃(昭和40年代)、「おんなの中に、おーとこがひーとり!」などと歌って、はやしたりしましたが。
益山さんの「緑一点」は、もしかして、麻雀からの連想ですか?
「緑一色」。
たいのじ さんからのコメント
( Date: 2001年 7月 12日 木曜日 14:08:35)
単に「万緑叢中紅一点」の逆ってことでしょ?
岡島 昭浩 さんからのコメント
( Date: 2001年 7月 12日 木曜日 14:32:24)
道浦さんが、たいのじさんのコメントのようなことを考慮に入れていられないようなのはちょっと残念ですが(Yahoo大辞林にも載っていますよ)、「紅一点」といえば女性ひとりのことと定着したのはいつ頃なのかを知りたいですね。
そんな大奥の時代のことではないと思いますよ。近代でも女性ではない「紅一点」がありますね。(日本国語大辞典参照)。
道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2001年 7月 13日 金曜日 8:06:28)
たいのじさんのコメントのようなことを考慮に入れていたかというと、まあほとんど入れてなかったでしょう。なんかそういうのがあったような気がするなあ・・・程度で。「麻雀」というのはまあ、そんなのなかったっけ?という程度の思いつきで。すみません。
しかし、日本国語大辞典でも、本来の意味(?)の用例で一番新しいのは1920年代だし、周囲の若い人に聞いてみても、「紅一点」の意味は「男性の中に女性が一人」の意味しか知りません。
「広辞苑」も「唯一つ異彩を放つもの。転じて、多くの男性の中にただ一人の女性がいること」とあります。
(「転じ」た意味の方が、良く使われているのでは?)
「ただ一つ異彩を放つもの」という意味であれば、「女性の中に男性が一人」の場合にも「紅一点」を使えそうなものですが、実際には使われていないでしょう。今や転義の「紅一点」の方が主流なのではないでしょうか?
それから、「緑一点」という言葉は実際に使われていた(いる)のでしょうか?
それに、元の意味の「唯一つ異彩を放つもの」の逆の意味ならば「ありふれて異彩を放たないもの」という意味になりますが、その場合に「緑一点」としても、「緑の中に緑一点」なのか、「紅の中に緑一点なのか」がわかりません。色が逆ならば「紅の中に緑一点」ですが、それだと、元の意味の「逆」=「ありふれている」にはなりません。やはり「唯一つ異彩を放つ」からです。
「緑の中に緑が一点」では目立たなくて「ありふれている」という、「本来の意味の逆」になりますが、そうなると今度は、「男性の中の唯一人の女」的な、「多くの女性の中に男が一人」という意味にはなりません。
そもそも「紅一点」の転義がいつごろ生まれたのか?岡島さんがおっしゃるように、知りたいところですね。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 1月 07日 月曜日 22:36:06)
向田邦子さんは、「黒一点」を使っています。
女がひとりで小料理屋に入り、カウンターに坐ってお銚子を頼むのは、ひとりで外国旅行に出掛けるぐらいの度胸がいる。
そう言ったら、男がひとりでお汁粉屋に入り、満員の女客の中の黒一点としてあんみつ{4字傍点}を注文する時の度胸と同じだよと反論されてしまった。(向田邦子『無名仮名人名簿』〔1980年発表〕文春文庫 1983.08.25 第1刷 p.65)
男を表す場合、私にとっても「黒一点」が一番理解しやすい表現です。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 21日 土曜日 02:28:48)
目を隣の国に転ずると、韓国では「『男がひとり』のことを『青一点』と言います。『紅一点』は同じです」という証言を、留学生の人からもらいました。奥が深いですね。
益山 健 さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 21日 土曜日 04:16:48)
その場合の「青」は何色なのでしょうか。みどりではないのでしょうか。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 21日 土曜日 15:56:04)
それはうっかり聞き漏らしました。「緑一点」でなく、あえて「青一点」としてあるところから、てっきりブルーを頭に描いていました。
「白砂青松」などというところをみると、もともと漢語の「青」は、ブルーも表すし、グリーンも表すのでしょうね。(と思いますが、どうでしょうか)
朝鮮語(固有語)では、青と緑の区別はそもそもないそうです。すると、朝鮮語として用いられた漢字語の「青一点」は、なおさら、グリーンの意味で用いられやすくなっていかもしれません。
UEJ さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 22日 日曜日 09:16:26)
広辞苑(電子辞書版)で「青」の字を引くと、
| 会意。「生」(=草の芽ばえ)+「丼」(=井戸の中の清水)。草の芽や清水のような色の意。
| 「生」「丼」の一方を音符とする説もある。
とあります。
日本語でも青と緑の区別は本来無かったわけですよね。
→ 「みどりの黒髪」とはどんな髪か?
かねこっち さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 22日 日曜日 10:17:33)
笑福亭鶴光師の落語のマクラに登場した、六代目笑福亭松鶴晩年の逸話ですが、
ある日突然松鶴師匠に「アオのマジック買うてこい」と命じられた弟子の一人
が「青」のマジックインキを買ってくると「ドアホ、これはアイやないか」と
としかりつけられた、で、今度はいますこし薄い色を買ってくると「これはソラ
色やないか、ドアホ」といって師匠は納得しない。しかたなく、売っている色を
みんな買ってきて差し出すと「あるやないか、ドアホ」といって手に取ったのが
緑色のマジックインキであった、というお話。
マジックインキの緑を「アオ」といった松鶴師匠が、色の呼称においてなにかの
伝統の中にあったのか、あるいは、視力減退などの個人的要因を抱えていたのか
は、その噺では判然としませんでした。
ただ、ちょっと前の人までは、たとえば信号機のあの色を「青」といわれても
不思議には思わなかったのではないでしょうか。
ちなみに六代目は大正7年生まれだそうです。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 22日 日曜日 18:35:38)
かねこっちさんの話を読んで思い出しました。黄色をもアオと呼ぶという話ですが。
常見純一氏の調査による沖縄本島北部西海岸地方の挿話が紹介されている。お婆さんが息子の嫁に、「オール(青色)のタオルを取っておくれ」と言った。「そんなタオルはありません」「そこにあるオールのタオルだょ」。お婆さんの指したタオルは、常見氏には鮮かな黄のタオルに見えたとのことである。
佐竹昭広『万葉集抜書』「意味変化について」(『言語生活』204が初出とのことですが、どうやらこの部分は言語生活にはないようです)
また柴田武『生きている方言』の挿話も紹介されています。これは講談社学術文庫の『生きている日本語』では101-103ペ−ジ。
秋田の近藤国一氏が勤め先の学校から自宅に使いを出して、「机の上のアオイ表紙の本をこの人に渡してくれ」とメモしたものを持たせたら、当時七十何歳かだった母親から届いたのは、表紙の黄色い本だったという話を聞いた。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 22日 日曜日 18:44:20)
信号機の色ですが、あれは地方によって、また作られた時期(また納入業者)によって色の違いがあるようです。青信号の色をJISで定めるということはしていないわけですね。
高校の修学旅行の時に名古屋で見た信号の青さに驚きました。それまで九州で見ていた信号の色はもっと緑が強かったので、名古屋でみた信号があまりに青々していたので驚いたのです。アオ信号だからミドリじゃ変だ、という理窟言いが、大都会名古屋には居て、そうなったのだろうか、と高校生心に思ったのを覚えています。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 22日 日曜日 19:44:39)
信号の色は、昔グリーンで、徐々にブルーに近いグリーンに代わってきているようです。
〔緑信号を青信号と呼ぶ人が多いため〕そこで警察庁は47年、法律に出てくる「緑信号」ということばを「青信号」に変えるとともに、73年からは、信号機を取り換えたり、新設したりする時に、実際の色も「緑」から「青色と呼べるような緑色」に変えてきた。(朝日新聞夕刊 1989.11.29)
名古屋などでは早く取り替えが進んだということでしょうか。
なぜ緑信号を「アオ」というのか、あるとき(郁)という記者が疑問に思って「朝日新聞」夕刊 1993.10.7 に「緑信号と日本人」という文章を書いています。今これをデータベースで検索しても出てきませんが、こうあります。
古来、日本での色は春の青、夏の赤、秋の白、冬の黒の四色で代表されていたという。そこで、アオは青から緑まで広い範囲を表現したのだろうか?
さらに、気象も影響しているようだ。日本は湿度が高い。その湿度が遠くのものを青く見せてしまう効果がある。水蒸気を多く含んだ大気中を通過する光は、より散乱され、青い色調を帯びたものになる。遠い山が青く見えるのはそのためなのだ。
これを読んで私は「何か、違う」と感じました。「クロ・シロ・アカ・アオが日本語の基本色彩語彙であるのはそのとおりだが、『青春・朱夏・白秋・玄冬』という考え方は中国のものであって日本のものではない、また、グリーンが水蒸気によってブルーに見えるからグリーンを『アオ』と呼ぶという発想は、グリーンとブルーを区別する人間のものであって、古代の日本語ではグリーンとブルーを区別しなかった、佐竹昭広さんという人の論文があるからお読みなさい」というようなことを、うらなくも投書した覚えがあります。その後、続編がまた夕刊に載りましたが、佐竹氏の論とは関係のない話が書いてあり、がっかりしました。これも今データベースで探しても出てきませんでした。
skid さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 22日 日曜日 20:41:21)
安全の象徴的な色としては緑色だから、青色の信号はちょっといただけない感じがしています。
しかし、黄色もアオというとは知りませんでした。
黄色と青色を混ぜると緑色になることとは関係ないのでしょうね。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 23日 月曜日 00:46:08)
警察庁の意図的なことだとは知りませんでした。私の名古屋への修学流行は1977年のことでした。でも、今でも地域差はあるように思います(気のせいかなぁ)。
上記、黄色の挿話は、佐竹昭広『古語雑談』岩波新書にもありました。
また黄色は、アオではなく、アカととらえられることもあったようです。青い蜜柑が赤く色づく。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2002年 12月 24日 火曜日 01:28:32)
金田一春彦『ことばの博物誌』文藝春秋1966(後の文庫『ことばの歳時記』)の4月23日の項(文庫では140ページ)「菜の花」に秋田・岩手県境の話が載っています。
「菜の花」ということばには黄色のイメージが強く焼きついている。ところが、秋田県・岩手県の境あたりに行くと、「菜の花がまっさおに咲いてうづぐすいなっス」など、土地の人が言うのを耳にする。菜の花が青いといっても、別に土地の人たちが色盲だからではない。これは国語学者佐竹昭広氏によると、昔、アオということばは今よりももっと広い意味に使われて青のほかに緑・黄なども含まれ、はっきりしない中途半端な色という意味を持っていたその名残りだという。
とあります。佐竹氏もこれには注意していて「秋田県鹿角地方には、黄色を「あおい」という習慣がある(大里武八郎「鹿角方言考」)。黄の概念に弱かった民族的伝統は、こんなかたちでも名残を留めているのだ」と書いています(「意味変化について」――前に岡島さんが引用された直前の部分です)。金田一氏は、それとは別個に現地で「菜の花がまっさおに……」を聞いたものでしょうか?
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 18日 土曜日 00:46:50)
そういえば、浅黄と浅葱は混同されて、黄色なのか水色なのかよくわかりません。
さっき、「積ん読」本の山から小松英雄著『日本語の歴史──青信号はなぜアオなのか』(笠間書院、2001年)を見つけました。
岡島 さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 18日 土曜日 01:47:18)
北原保雄『青葉は青いか』大修館書店、というのもありますね。もっともこれは全編その話題ではなく、表題作がある、ということですが。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 18日 土曜日 02:29:14)
柴田武『語彙論の方法』(三省堂、1988)p.79以下にも「色彩語彙の体系」という節があり、詳述されています。
また、鈴木孝夫『日本語と外国語』(岩波新書、1990)は、言語によって虹がいくつの色に分かれるかとか、フランスでは茶色のタクシーをオレンジというとかいった、たいへん興味深い内容が記されています。
今、小松氏の本をぱらぱら確認したところでは、柴田・鈴木氏の論には言及がないようです。佐竹氏には言及がありますね。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 01月 17日 金曜日 21:44:30)
小松氏は、鈴木氏の論を無視したのですね。たしか名前を出さずに批判していた記憶があります。『徒然草抜書』の中だったように思います。文庫化の際の加筆部分であったか。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 02月 17日 月曜日 07:46:29)
福田恆存氏の文章です。1956(昭和31)年7、8月「知性」に発表されたとのことです。ここで触れられている「朝日新聞」の金田一春彦氏の文章を読んでみたいものと思います。
最近、朝日新聞紙上である教師が「みどり」を「あを」といふ日本人の色彩感覚を軽蔑してゐましたが、それにたいして金田一さんは、といつても京助さんのはうではなく、春彦さんのはうが、反対意見をだしてをりました。なるほど「みどり」と「あを」とを混同し、一語に二色をこめるのはよくないかもしれぬが、それは言語の分析能力からのみ見た考へかたで、言語にはその分析能力と同時に綜合能力があり、それにしたがへば、「みどり」と「あを」の二色を「あを」の一語で代表させるのもいゝといふのです。その例として「黒靴」にたいする「赤靴」と映画の「赤い靴」では異るし、「赤土」「白土」の赤・白は「赤旗」「白旗」とは異るといつてをりました。私は卓見だと思ひます。
「青い麦」「青畳」「青信号」といつても、私たちはそれをけつしてブルーと混同してはをりません。このばあひの「青」は「麦」「畳」「信号」と照応し、それとの結合の場において、はつきり緑と理解されるのです。日本人色盲説とは無関係です。逆に、言葉といふものは、ある一定の場が成立してゐなければ、ほとんど理解できぬといへませう。「米国最初の水爆投下実験」といふ新聞の見だしにしても、この「最初の」が水爆実験にかゝるのか、飛行機からの投下にかゝるのか、これは言葉からだけでは判断できないのです。(福田恆存「金田一老のかなづかひ論を憐れむ」『国語国字教育史料総覧』国語教育研究会 p.500-501)
引用文中の漢字については、検索の便宜を考えて、福田氏の意に反するようですが、新字体にしてあります。
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 04日 火曜日 06:08:50)
話が「青信号」にそれたままですが、柴田武著『面白くてためになる日本語常識』(三笠書房、知的生きかた文庫)にも載っていました。
この本は、『日本語を考える』(博文館新社)を加筆・再編集したものです。
見出しは、“「青信号」のくせに、なぜ「緑色」をしいるの?”。
英語では、交通信号の色は red と green である。日本語では、赤と
青である。以前、小中学校の図工の先生たちが信号の色を赤と青でいう
のは図工教育をそこなうから、赤と緑に言葉を変える運動を起こした。
それに対して、新聞の読者欄で活発な議論があり、国語検定教科書でも
赤と緑を採用したものがあった。
「小中学校の図工の先生」というのは甚だ不審ですが、信号の色を変えるより「青信号」を「緑信号」に言い換える方向へ行こうとしたことがあったようです。
それから、“赤・青・白・黒──すべての色はこの「四色」のどれかには入る!”には「青=黄」について書いてあります。
そのキセイレイには二種類あって、羽に白がまじっているのと黄がま
じっているのとがある。正式の和名では、前者をハク(白)セキレイ、
後者をキ(黄)セキレイという。
ところで、糸魚川と地続きの長野県北安曇郡では、この二種をシラシ
ゲ、アオシゲといい分ける。シラが「白」というのはわかるが、青とは
何か。この場合、青は「黄色」のことである。
岐阜県飛騨で黄菊のことを青菊という。同じ飛騨に、おなかが黄色い
青バチがいるという(鏡味明克氏の報告)。国立国語研究所の『日本言
語地図』で菜の花の色をたずねているが、青森県の津軽に「菜の花は青
色」というところがある。
skid さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 03日 月曜日 11:38:08)
訂正です。
誤……“「青信号」のくせに、なぜ「緑色」をしいるの?”
正……“「青信号」のくせに、なぜ「緑色」をしているの?”
キーボードが親指シフトかな入力のせいか、キーを速く打つとときおり反応が遅くて文字がとんでしまいます。
誤……“赤・青・白・黒──すべての色はこの「四色」のどれかには入る!”
正……“赤・青・白・黒──すべての色はこの「四色」のどれかに入る!”
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 29日 火曜日 15:20:01)
アルクの「日本語何でも質問箱」の「語彙・意味」の中に、「日本では「青」と「緑」の区別があいまいなのはなぜ?」というのが載っています。要点は、
1. 古代日本語の「あを」は一般には「黒と白の間」とされている
2. 狭く見ても現代語の「藍、緑、青」をカバー
3. 「みどり」は「あを」より指し示す範囲が狭かった
4. 「緑信号」は規則を改正して「青信号」と言うようになった
1と2との関係の説明がわかりにくいようです。「黒と白の間」のモノトーンだけが「アヲ」ではなく、鮮やかな「アカ」に対して、漠然とした色の総称が「アヲ」であると佐竹昭広氏は述べたものと理解しています。
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 29日 火曜日 15:59:49)
今西 浩子『青の系譜 古事記から宮沢賢治まで』(横浜市立大学叢書 6)
東信堂 2002.12
という、国語学者による本が出ているようですが、どんな本でしょうね。
面独斎 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 30日 水曜日 07:30:40)
とりあえず、目次だけ……。
今西浩子『青の系譜――古事記から宮沢賢治まで――』(横浜市立大学叢書6、東信堂、2002.12.20)
序章 色と色の概念
第1章 青の系譜
第1節 白馬の節会
第2節 アヲという色
第3節 アヲの呪術性
第4節 アヲの地名
第5節 「みどりご」と「みどりの黒髪」
第6節 「きいろ」を「あお」と言う地方
第2章 アヲとミドリの言語史
第1節 上代のアヲとミドリ
第2節 中古のアヲとミドリ
1 八代集の場合
2 中古仮名文学の場合
3 中古歴史物語の場合
第3節 中世前期のアヲとミドリ
1 説話の場合
2 軍記物語の場合
3 中世歴史物語の場合
4 中世随筆の場合
第4節 中世後期のアヲとミドリ
1 お伽草子の場合
2 謡曲・狂言の場合
3 連歌の場合
4 中世歌謡の場合
第5節 結語
第3章 アオ・ミドリの漢字
1 「青」について
2 「緑」について
3 「蒼」について
4 「碧」について
5 「翠」について
第4章 近代文学作品の中のアオ・ミドリ
終章 青は藍より出て……
注
追記
あとがき
岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 30日 水曜日 08:24:51)
面独斎さん、ありがとうございます。やはり、ここでの話題に関連した本ですね。
かねこっち さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 30日 水曜日 15:36:04)
菅原都々子の「月がとっても青いから」というのはどんなもんなんでしょうか(w
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 01月 25日 日曜日 10:54:30)
長谷川町子『サザエさん』33(朝日新聞社)p.122にはこうあります。
(1)(先生が黒板に信号の絵を描く)
(2)先生「これから青{あお}といわずにミドリとよびましょう」
(3)カツオ(学芸会の練習で馬役に向かって)「ミドリよ」
(4)先生(駆け出て)「塩原多助{しおばらたすけ}は「アオ」でいいんだきみ!!」
この巻は「昭和41年7月から12月分までを収録しました」。つまり1966年の話ですが、何かこれにちなむできごとがあったのでしょうか。上のコメントで引用した
> そこで警察庁は47年、法律に出てくる「緑信号」ということばを「青信号」に変えるとともに、73年からは、信号機を取り換えたり、
と関係があるのかどうか。
「月がとっても青いから」は英語でいえば「pale」ですね。顔・月のアオを表すところでは中国語の「蒼」にどんぴしゃりという感じがします。英語の場合、顔色は名詞では「pale white」なのか「pale blue」なのか(前者かな?)。
がしかし、「蒼」はまた「鬱蒼」などというのですから、木々のアオも表すところでは「pale」と異なりそうです。また、現代中国語で「顔色が青くなる」は「発青」とか「蒼白」とかいうそうですから、「青」もpaleな顔色を表しうるわけです。
朝鮮語は、小学館『朝鮮語辞典』によれば、「プルダ」が「総称的表現で,空色,緑色,藍あい色も含む.基本的には青と緑の区別はしない」。また「パラッタ」は「(くっきりと鮮やかに)青い,非常に青い」。「恐ろしさのあまり顔が青くなった」は、「パラッタ」のほうに含まれています(が、おそらく「プルダ」でもいいのでしょう)。
ロシア語は、『改訂新版 博友社ロシア語辞典』の説明によれば、「синий」(シニー)は「(黒味をおびて)青い,こん色の,あい色の」。シアンの色ということか。「紺碧の空」「青い海」などに使われるほか「(皮膚がひどく青ざめたため)青黒い」の意味も。名詞「синева」(シニヴァー)は「空/水の青」などに使用。もっと薄いのは「голубой」(ガルボイ)で「空色の」。名詞は「голубизна」(ガルビズナー)で「空色,淡青色」。濃・淡の青を総称する言い方はないか? 「pale」にあたる語はまず「бледный」(ブリエドヌイ)で、「青白い,赤みのない」「生気のない,死んだような,生彩のない」。名詞は「бледность」(ブリエドナスチ)で「蒼白」「生彩のないこと」。他方、「green」に近いと思われる「зелёный」(ズィリョーヌイ)には「緑色の,青々とした,草色の」のほか「顔色の悪い,青ざめた」「植物の,野菜の,樹木の」「熟していない,青い」「未熟な,くちばしの黄色い」とあり、「green」とも微妙に違う模様。名詞「зелень」(ズィエリニ)は「緑色,青々とした色」「青草,草木,植物,緑の樹木」「青物,野菜」。
智 さんからのコメント
( Date: 2004年 01月 28日 水曜日 16:42:24)
僕も黒と赤のイメージが強いです。
トイレの表示やランドセルの色が皆赤と黒なことからかなと思うのですが…
(ランドセルは最近変わってきましたね(^^))
"月がとっても青いから"という本があるのですね。
僕は岐阜県民なんですが、中日新聞で北村想さんが"月が照っても青いから"というコラム(エッセイ?)を書いておられて面白いです。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 01月 29日 木曜日 01:34:27)
「月がとっても青いから」は書名ではなく歌の題です、と書こうとして念のためamazon.co.jpを確かめると、菅原都々子さんについて書いたそのような本がでているのですね。知りませんでした。
この機会に、清水みのる作詞のこの歌詞をチェックしておきましょう:
*「夢をいとしく 抱きしめて」(2番)
「抱きしめる」にかかる連用修飾語は「ぎゅっと」「しっかり」「力一杯」「固く」「強く」など情態性をあらわすものばかりで、「いとしい」など情意性をあらわすものは異色。そこに詩情が出てくるのでしょう。
*「もう今日かぎり 逢えぬとも/想い出は 捨てずに/君と誓った 並木道」(3番)
「逢えぬとも」は「逢えずとも」が正解でしょう。接続のあやまりというわけ。
余談でした。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 16日 火曜日 04:18:11)
「黒一点」についての記述です。柴田武『知っているようで知らない日本語 2』ごま書房 1987.12.20 p.22「紅一点」に
どこの大学でも、文学部は女子学生が圧倒的に多くなり、男子学生は“黒一点”になりがちだという。この“黒一点”は、「紅一点」に対して作られた言葉であることは言うまでもない。〔略。紅一点の〕もとの意味は、“多くの同じようなものの中で、一つだけ異彩を放つもの”ということだ。だから、大勢の女性の中に、一人だけ地味でさえない男が加わっていれば、その男を「紅一点」といっても、けっして間違いではないわけだが……。
Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 25日 木曜日 09:13:11)
新村出『語源をさぐる』講談社文芸文庫 p.45以下「青空」に、
この空のアオは、時に緑とも歌や文にはよまれている。greenではないblueであり、詳しくいえばsky blueであるけれども、西洋のgreenにしても緑にしても必ずしも最初からgreenを表現したかどうかは、きまっていない。西洋のgreenあるいはgru¨nはしばらくおき、日本の緑は、もとはミズミズしいという言葉であって、漢字をあてるならば、淡という字があたる。
……
さてそのアサギ色とは普通これもまた混同されがちであるが、一方では浅黄色と書かれ、また別に浅葱色とも書かれる。〔一茶の句などでは空を形容してアサギ色というが〕空のアサギは、第一に文字が示すアサギ色であって〔つまり空のことではなく「浅葱」の文字の通り葱などの色であって、ということか〕、日本の国語の歴史の上ではその方がより古い。ネギの色をキイロと称し、また根を尊重するからネギなどと称したが、古くはネブカのネギ、また同類の野菜を一般に概称してキといった。このキの色の薄いところから、アサギという色彩名ができたわけである。
ほか、色彩についての記述さまざま。この文章はもとは『語源をさぐる(1)』昭和26年3月刊、岡書院に載ったもののようです。
かねこっち さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 25日 木曜日 11:17:24)
英語に blue moon という言葉があるようです。
「長い間」という意味だそうです。
使い方がよくわかりませんが、辞書(ジーニアス英和辞典)には
once in a blue moon で、ときたま;めったに[ほとんど]ノしない(hardly)
などとあります。
「ブルームーン」でネットを検索しますと
>ひと月のうちに満月が2回あるとき、2回目の満月を「ブルームーン」と呼ぶ
などという記述がありました。
「めったにないこと」であるからなのでしょうか。
「月がとっても青いから」の作詞者清水みのるさんが「blue moon 」を意識して作詞
したかどうかはわかりません。
そういえば、ブルース・ウィリスが主演するドラマに「こちらブルームーン探偵社」というのが
ありました。
この社名などは、英語を母語とする人はどのように感じるのでしょう。
→ http://www.astroarts.co.jp/news/2001/12/27nao509/index-j.shtml
UEJ さんからのコメント
( Date: 2004年 03月 25日 木曜日 12:30:20)
とりあえず辞書より引用。
ランダムハウスより
blue moon
【1】青い月:高層大気の微粒子によって起こる現象.
【2】《話》長い間.
英辞郎より
blue moon
ブルームーン、娼家、赤線地帯、非常な長期間
新会議室「色をあらわすことば」