2003年06月05日

『遊ぶ日本語 不思議な日本語』にご教示を(Yeemar)

「日本語本」を出版しました(飯間浩明『遊ぶ日本語 不思議な日本語』岩波アクティブ新書 2003.06)。私のホームページ(こちら)に書いたメモふう文章にもとづき、用例を加えたりして全面的に書き改めたものです。こちらの皆さまにもお世話になりました。お陰さまで無事出版できました。

きのう見本本を受け取り、あらためて見ておりますと、いろいろと神をも恐れぬことが書いてあります。

・愕然としたのは、仮名遣いの誤り。「あめつちの詞」を引用しているところがあって(p.145)、「山 川 峰 谷」「人 犬 上 末」の「川」「上」に「かわ」「うえ」とルビがふってあります。日本語の音を1回ずつ用いるというのがこの詞の趣向ですから、「かは」「うへ」でなければ意味をなしません。原稿では「かは」「うへ」だったのですが、どこかで仮名遣いが間違って、校正刷りでも看過しました。

・「モーニング娘。」などと固有名詞に使われる「。」について触れました(p.119)。これがいつごろからのものか、ということについて、はっきりとは書いていませんが、私は1980年代以降というニュアンスで書き、用例もそのころのものを出しています(1970年代のものは見つけていませんでした)。ところが、本が出る直前、1972年の吉田拓郎のアルバムのタイトルに「元気です。」、また、1975年の井上陽水のアルバムタイトルに「招待状のないショー。」とあることをご教示いただきました。これはもはや追記の余裕はありません。

・「なやましい」が「官能的だ」以外に「頭を悩ませるようだ」という意味で使われるようになっていると、「公に指摘」されたのは、1996年、ある出版社で開かれた研究発表会〔三省堂・語彙辞書研究会〕が初めだと思うと記しています(p.90)。ところが見坊豪紀『ことばの海をゆく』(朝日選書 1976)の p.150に、追記のようにして

(古語の復活的用法として有名なものに「悩ましい」があります)
と記されていて、すでに20年前に「有名」だったことが知れました。ではあの研究発表会は何だったのか、会場に並み居る語彙・辞書の権威からも「その話はすでに有名ですよ」という質問もなかったようだが、などと言っても詮ないことです。私は研究史を看過したことになります。もっとも、私の本では、大正時代にすでに使われている(室生犀星)とも書いていて、「悩ましい」の「新用法」は意外に古いというのが主旨です。

かような次第で、満身創痍、とまでは、さすがにひいき目もあって思いませんが、きずのあることは今から分かっております。もし本書がお目にとまって、お気づきのことがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。のちに何らかの形で反映したいと存じます。

こういうことは、自分のホームページに掲示板を設けてお願いするのが筋のような気もしますが、「情報はできるだけ一元化を」というのが理想だと思いますので、こちらに書き込みました。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 05日 木曜日 09:34:55)

上記のような次第もあって、お求めになろうとされる方がいられたとしても、もう少しお待ちいただいたほうがよろしいかと存じます。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 05日 木曜日 09:36:38)

と言うと売れなくなってしまいますね。むずかしいところです。


skid さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 05日 木曜日 16:50:42)

固有名詞の「。」に関して、ご存じかもしれませんが念のために。
『言語生活』第277号(1974年10月)に「現代の句読法」という特集がありまして、土屋信一先生が「新聞広告の句読点──キャッチフレーズを中心に調べる」を書いています。
また、1973年1月号の「ことばのくずかご」でも取り上げられているそうです。
広告の見出しに句読点を付けるのは1970年代前半に流行したようですね。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 05日 木曜日 17:20:23)

ご出版、おめでとうございます。まずはリンクなど。
岩波
アマゾン


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 05日 木曜日 19:36:44)

skidさん、これはさいわい存じておりまして、「土屋信一氏の研究によれば……」という文言を入れてあります。「索引」もつけることができ、ことばだけでなく、研究者の方を中心に人名もできるだけ入れました。

岡島さん、リンクありがとうございます。「ホーコー鍋」(中国風しゃぶしゃぶのこと)ということばに関してお名前を引用させていただきました。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 13日 金曜日 17:43:21)

「のの」について書きます。ずっと以前にメールで申し上げたと思うのですが、すでにそのメールは残っておりません。

私は福岡の人間ですが、連体助詞の「の」は「ん」で、準体助詞の「の」は「と」と対応します。「私の金」は「わたしんかね」、「いいの」は「よかと」(「いいと」とも)。それで「私の(もの)」は同音重複もなく「わたしんと」と言うわけです。

そこで、「わたしんと」を共通語に置き換えようとした場合、「わたしのの」になってしまいそうになります。「わたしのん」は口にしたことがありますが、「私のの」は共通語の知識によってなんとか抑えられます。

「がの」「のが」「がん」「のん」と言っている人にとっても、これを共通語訳すると「のの」と言ってしまいそうになるのではないかと思うのです。
「いいの」を「いいが」と言っている人にとって、共通語訳するには「が」を「の」に置き換えればよい、と。それで「がの」が「のの」で現れる。

「のの」が現れるのにはそういう背景―母語として「のの」を持っているわけでなくても「のの」が現れる―もあるように思います。

なお、福岡の「んと」ですが、「飯間君の(もの)」は、「ん」のあとに「ん」を続けるわけには行かず、「飯間くんんと」ではなく、「飯間くんのと」と言います(「飯間くんと」という人もいるようですが)。「ん」が「の」の訛形であることが意識されているわけです。

とりあえずweb版の方にリンクしておきます。

ほかののを


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 13日 金曜日 22:44:25)

ありがとうございます。以前お教えいただいて、そのご趣旨を理解していなかったのかもしれません。

鹿児島の若者が「じゃっど、じゃっど」を共通語に直訳して「だよ、だよ」と言うなどの「からいも普通語」を連想します。それと原理的には同じようなことが「んと」「がの」「のが」「がん」「のん」などを使う人にも起こりうるということですね。

そう考えると、『漱石の思ひ出』の筆録者である松岡譲が方言として「のの」を持っていなくても、「がん」(これは今の新潟)などを持っていれば、文章で「ほかののを」などと書く可能性はありますね。そこまできっちり言及することができず残念です。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 22日 日曜日 01:12:35)

クラッシュで飛んでしまった「今日この頃」の話題です。「私だけだろうか」の関連話題ですが。

小林信彦『唐獅子株式会社』(新潮文庫)の「唐獅子意識革命」は「新しい女」「翔んでる女」に影響される話ですが、「そうした女の存在が奇妙に新鮮に感じられる今日このごろです」と語る部分が出てきます(新潮文庫114頁)。これは、「新しい女」の物言いを真似たものでしょうか。

初出は1978年春であるようです。

一つ学問をした


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 06日 日曜日 09:47:21)

産経新聞での紹介記事です。

【新書専科】「遊ぶ日本語 不思議な日本語」飯間浩明著


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 06日 日曜日 11:59:52)

ご報知ありがとうございます。ほんとうに広く情報にお目を配っていられますね。私は著者であるのに狭い目配りしかしておりません。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 06日 日曜日 13:58:55)

(本題ではありませんが)たまたま産経新聞を取っているだけです。

私は朝日新聞を取りたくない、という気持ちがあります。別に主義主張がいや、というわけではなく、受験参考書であることを標榜している新聞は取りたくない、という思いです(これは朝日新聞から入試問題を作り続ける大学側にも大いに問題があるのですが)。
アンチ巨人なので、読売新聞も読みたくない。
本当はローカル紙・ブロック紙が好きなのだけれど、大阪には真面目なローカル紙が見当たらない。
毎日か産経か、ということで、これまで見たことがない産経にしたのでした。

これはまた思った以上に癖のある新聞でした。思想的なことはともかく、「言葉の乱れ」についてもうるさい新聞であります。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 06日 日曜日 22:52:20)

自分の紹介が出ているというのは気になるもので、駅前で「産経」を買ってきました。なるほど、「ことばの乱れ」についてもうるさい新聞です。そういう論説が出ていました。切り抜いておきましょう。

「産経抄」には安本美典氏のことが出ていたりして、やはり自分の取っている新聞(朝日新聞)だけでなく、折に触れて各紙を見なければいけないなあ、と思いました。


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 07日 月曜日 17:06:37)

産経新聞は、校閲部長のSさんという方が、言葉と漢字に”うるさい”方で、特に表外字の使用規制緩和に関して、積極的に活動なさっています。最近は、「本文中に登場しない表外字」を、見出しにルビなしで使い、関係者の間では論議を呼んでいます。こないだも「黴菌」を見出しに使っていました。ある意味では漢字の勉強になる新聞です。


田島照生 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 24日 木曜日 18:51:18)

『遊ぶ日本語 不思議な日本語』、拝読いたしました。

ほんとうにどうでもよい事で申しわけないのですが、飯間さんはペ122に、
「映画では(「。」のついた題名の作品としては)『どっちにするの。』(金子修介監督 一九八九)あたりが最初でしょうか。」
と書いておられます。しかし、この四年前に、『花いちもんめ。』(伊藤俊也監督 一九八五)という映画(『恍惚の人』みたような内容の映画です)が公開されていました。主演は、十朱幸代さんと、今は亡き千秋実さんです。

どういうわけかこの映画、「日本映画データベース」では、「。」抜きで登録されていました。けれども、たしかにあの映画は「。」附きでクレジットされていましたし、ヴィデオのパッケージも「。」附きになっています。

日本映画データベース


田島照生 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 24日 木曜日 19:16:43)

訂正です。
>たしかにあの映画は「。」附きでクレジットされていました
→たしかにあの映画は「。」附きで登録されていました

それと、「飲みニュケーション」(ペ125〜ペ128)に関連することなのですが、これまたどうでもよい事で申しわけありません。

関西ローカルとおぼしき「やぐら茶屋」のCMに、「Let's 飲みニケーション」というキャッチ・フレーズが現れます。このCMはおそらくバブル全盛期あたりに撮られたものか、あるいはもっと以前に撮られたものかもしれませんが、とにかく古いCMで、一九九五年よりは以前のものと思われます。

このCMはずっと使いまわされていて、新たに撮り直されることがなぜかありません。今でもABCテレビ(テレビ朝日系列)のニュースの後に、しばしば見かけます。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 24日 木曜日 21:00:33)

ありがとうございます。軽々に「最初」などと書くものではありませんね。おそろしい。もっとも、自信のなさが「……あたりが最初でしょうか」という表現になったのでした。「おじいちゃんが壊れていく」というコピーで話題になりましたね。休日朝のNHKの映画枠で見たような気もします。

「Let's 飲みニケーション」は、関西に行ったときに見たような記憶もあるのですが、はっきりしません。そこで、手元にあった古い例から1995年の例を出しました。前後関係としては「ノミニュケーション」→「ノミニケーション」の順で出現したと考えるのが自然だと思っております。

東芝けあコミュニティ(「花いちもんめ。」)


佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 25日 金曜日 13:57:54)

よく探鳥に通う〈ながら川ふれあいの森〉近くに某社の研修・娯楽施設
があるのですが、その社名を表示した看板に

  ホラタ、工業

とありました。「ホラタミ」が本来で(でも意味不明ですが)「ミ」の
2画が消えたのだろうと思いつつ見直すのですが、それにしては「、」
の位置が「タ」に寄りすぎている…… で、ヤフーの電話帳で調べたら、

 ホラタ、工業株式会社 第一工場  (代) 0583-xx-xxxx 岐阜県各務原市金属団地9 鉄鋼工業(各務原市)

と出てきました。マピオンやMSNの地図では「ホラタ工業」(誤って「ホタ
ラ工業」もあり)のごとく、読点は入っていません。読点が入ったのは、
誤りと考えてのことでしょうか。下記リンクでは「.」を使用していますが
(下1/4あたり)、正式名称としては「ホラタ、工業」なのでしょう。

しかし、なぜに読点が入ったのか…… 
・漢字「工」に接する片仮名「タ」が、漢字「夕」でないことを示すため?
 (でも「夕工業」っておかしな業種ですね。「斜陽」への連想を嫌った??)
・片仮名「タ」に接する漢字「工」を片仮名「エ」に誤認させないため?
 (「ホラタエ業」…… これも誤認しそうではないですね)

ローカルな話ですが、御参考まで。

18


佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 25日 金曜日 14:12:04)

ヤフーの電話帳で「。」「、」で検索すると、用のないもの、固有名詞では
ないものもひっかかりますが、けっこういろいろあるようです。

  プリント、ス(PRINT‐SU) 0574-xx-xxxx 岐阜県可児郡御嵩町中1608-47 印刷(御嵩町)
  K。一級建築士事務所 076-xxx-xxxx 富山県富山市山室荒屋515 建築設計
(富山市)

とか。すでにお試しのようでしたら、ご放念ください。


Yahoo!電話帳


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 26日 土曜日 10:32:57)

田島さん、Yeemarさん、「飲みニケーション」は私も先日「櫓茶屋」のCMを目にして「あ!飲みニケーションだ」と思いました。古いですよね、あのフィルム。よく映画館に行くと、上映前に流れていました(今も?)。
撮影は1980年代でしょう。イメージとしては「翔んだカップル」ぐらいの頃の髪型の女性が出てくるような感じです・・・って言っても分りませんね。もう少し調べたらまた書きます。


田島照生 さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 26日 土曜日 18:22:56)

そうです、そうです。どこかでよく見かけたCMだなあと思っていたら、道浦さんの仰るように、「映画館」だったんですね。思い出しました。私もよく見てました。

けれども最近は、スクリーンではなくもっぱらヴィデオで観ているので(これが映画産業斜陽化の一因であるので、申しわけない気もします)、以前と同様にあのCMが放送されているかどうかは分りません。

もうひとつ、かなりローカルのCMに、「ユニバー」のCMがあります。これはサンテレヴィジョンでよく流れているものですが、七十年代後期(ちょうどカラオケが誕生したあたりの)に製作されたものではなかろうかという様なたいへん古いCMです。「やぐら茶屋」は、それよりも新しいものではないかと思います。

>イメージとしては「翔んだカップル」ぐらいの頃の髪型の女性が出てくるような感じです・・・って言っても分りませんね。

おっしゃりたい事はよく分ります。私は、故・相米慎二監督の映画(とくに独特の「長回し」)も好きなので、「翔んだカップル」も観たことがあります。いまデータベースで調べると、公開年は一九八〇年になっていました。バブル全盛期どころか、プラザ合意よりずっと以前の映画なんですね。

それから道浦さん、最後になりましたが、『「ことばの雑学」放送局』も拝読いたしました。ちなみに、私は大学生ですが、「煮詰まる」を梨元さんと同じ様な意味で使っておりました。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 26日 土曜日 23:48:37)

佐藤さん、Yahoo!電話帳で調べるという方法、お教えいただきありがとうございます。句点が出てくるのは、「ここだけ。」とか「サボテン。」とか、全部で6件(軒)あります。これらの所に電話して「すみませんが、お宅の店は何年に創業でしょうか……」などと聞くと興味深いことが分かるかもしれません。しかしちょっと躊躇しますが。

田島さん・道浦さん、「やぐら茶屋」のCMはずいぶん古いのですね。すると「ノミニュケーション」の発生時期が気になります。「ノミニュケーション」→「ノミニケーション」という、私が示した推論が揺らぐことにならなければいいが、と不安に思います。いずれにせよ私が示した例は少々新しすぎたようです。


守沢良 さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 03日 日曜日 23:21:15)

ご無沙汰しております。
 以前このサイトでYeemarさんからコメントをいただいたことがあったため、何か参考になる話が書けないかと思っていました。時間ばかりが過ぎてこんな時期になってしまったうえ、なんの役にも立たないコメントなった気がします。読み流してください。基本的に読書メモに手を加えたものなのでデアル体で失礼いたします。

 p.14の「声をあららげる」「目をしばたたく」の話。
 いきなり赤面。「荒らげる」と書いて「あらげる」と読むと思い込んでいた。「荒」の字に「あ」と「あら」の2種類の訓読みがあるから悪い。しかし、「あ」と読むのは、「荒れる」とか「荒らす」だもんな。「荒らげる」で「あらげる」はちょっと無理。

 p.65〜のテーマは〈81番さま〉。テーマは最近よく話題になるヘンな日本語。
 フジテレビでこの夏始まった「トレビアの泉」で、タレントのタモリ(敬称略)がしていた話がおかしかった。もともと深夜枠で好評だったものを、ゴールデンタイムにもってきた第1回目(やはりこれは重言だろうな)の放映だったと思う(彼はその後の放映でも若者言葉にインネンをつけつづけている)。
・「〇〇って言うじゃないですか」
 投書の冒頭にあったこの表現が暴発のキッカケ。馴れ馴れしさのせいか「大っ嫌いだ」と吐き捨てたタモリは、続いて嫌いな表現をふたつあげた。
・「一万円からお預かりします」
 これに対して「オレは一万円じゃなくタモリだ。タモリ様からお預かりします、と言え」というようなコメントしていた。こういうインネンのつけ方もあるらしい。視点のユニークさが新鮮だったが、気になって確認したらこの表現を扱った『お言葉ですが(3)』(高島俊男)にも同じようなことが書かれていた。
・「こちら〇〇になります」
 これもよくヤリ玉にあげられる。「これから〇〇になるのか? もうすでになってるじゃないか」というインネンはごもっとも。

 p.135〜の重言の話。「ラム酒」「シェリー酒」と似た印象があるのは「バルサミコ酢」。インターネットで検索すると、「バルサミコ」で1万8500件ヒットし、「バルサミコ酢」だと7390件。「バルサミコ」は「バルサミコ酢」も含むから、おおざっぱに言って、半々というところか。「バルサミコビネガー」なんてのも348件ヒットした。

 p.152に出てくる「取れ取れ」(取れたばかり)。これは関西の方言とのこと。昔近ツリ(近畿日本ツーリスト。これは正解がよく判らない略称で、旅行業界「近ツー」が一般的らしい)のガイドブックの仕事をしたとき、言い換え集のなかに、「とれとれ」は「とれたて」にする、とあった。方言であることをだれかが指摘して、お達しが出たのだろう。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 04日 月曜日 08:34:16)

数点にわたるご指摘ありがとうございます。

「こちら〇〇になります」という言い方がやり玉にあげられるのはいつごろからのことかと思い、「語彙索引の検索」を見ましたが、文献はわかりませんでした。私の記憶では、だれかから借りて読んだ内田春菊さんの漫画の中にありました。何という漫画であったか忘れました。1980年代後半のことです。

友人同士でファミリーレストランの店員をからかいに行くという話。店員がメニューかなにかを持ってきて「こちらメニューになります」と言ったところ、彼らは「メニューになるんですか?」と言って、「じー」などとそれを見つめるのでした。(「コーヒーになります」だったかもしれません)

料理をしないので「バルサミコ」というのはよく知りませんが、イタリア語で芳香性の意だそうですね。原語では「aceto balsamico」(すなわち「芳香酢」?)と書いてある例もあります(イタリア語・英語で説明してあるページ)。とすると「ワイン酒」「ウィスキー酒」とでも言うがごとき、いかにも重言らしい言い方とはちょっと事情が異なるのではないかと思います。

「鰺の取れ取れ」という谷崎の例を、以前こちらに書き込みましたが、聞いてぴんと来ない地方の人もいると思われます。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 08月 04日 月曜日 20:10:45)

「〜になります」については、道浦さん「平成ことば事情」の「ことばの話23「になります」」参照。(1999/10/8)この項は文庫本『「ことばの雑学」放送局』にも収録。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 16日 木曜日 01:33:16)

I章の3「「でも」か「ででも」か」について、質問をいただいたので、以下に書き込みました。

ででも? でも?


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 21日 金曜日 00:22:46)

 松本で見つけた句読点付きの商品名ですが、全国区のようです。

白鶴 | ほの、


NISHIO さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 21日 金曜日 03:41:21)

まれに「アチェートバルサミコ酢」と呼ぶ人もいます。これは明らかに重言。

通常は「バルサミコ」だけで通じるので「酢」が余計な印象を与えるのでしょう。「モッツァレラ」を「モッツァレラチーズ」(イタリア語+英語)と
言うが如く。

「取れ取れ」と聞いて「ぴちぴち」と続くのは関西人ですね。

アチェートバルサミコ酢


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 21日 金曜日 07:46:02)

とーれとれ、ピーチピチ、カニ料理。確か、キダ・タロー。
「京橋は」と言うと、「ええとこだっせ」と続くのも関西人。
さて。
私は始めて「バルサミコス」と聞いた時に、「ス」は「酢」とは思わずに「ス」まで「一体の言葉」と感じておりましたから、「バルサミコ酢」という表記を見たときにはドキッとしました。


NISHIO さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 24日 月曜日 21:36:23)

「悩ましい」の新しい用法の古い用例について。

1996年の三省堂・語彙辞書研究会での「公に指摘」、1976年の見坊豪紀『ことばの海をゆく』(朝日選書)よりも、さらに20年古い用例です。

      ---------
『言語生活』の1956年(昭和31年)2月の項。(『言語生活の目』p.79より)

   一知半解ということばがある。あることばの形だけは知っていても、
   その使い方を誤ると、とんでもない文章ができあがる。以下はその珍文四題。

   ▼その二――Y紙社説。
     国語や国字も、混乱と不安定のままに放置されていると、その祖国への
     愛着感をうすくする。とくに、この問題は、老人たちより若人にとって
     一層なやましい問題であり……
   若人にとってナヤマシイとは、国語国字問題も昇格したものです。
      ---------

最後の1行は編集担当(国語研究所研究員)のコメントです。(全般に皮肉っぽい口調が気になります)

その他の「珍文」。
・A紙政治面:「やんやの不平が飛んでいた」、
  コメント:どんな不平ぶりか、一度聞いてみたいもの。
・某区民新聞:「設備に糸目をかけられる大会社や大工場の住宅、アパート〜」、
  コメント:「金に糸目をつけない」というのなら、聞いたことはあるが…。
・本の広告文:「正確な史実に基く 馥郁たる艶話集」
  コメント:フクイクたるエロ話だって! ちょっと読んでみたくなるね。

平成ことば事情・ことばの話654「悩ましい」


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 27日 木曜日 02:43:50)

ありがとうございます。これは、私自身たいへんうかつでした。『言語生活の目』は愛読書で、しばしばこちらでも引用しています。当然、文章中で触れるべきところで、それをしなかったのは、やはり研究史を看過したとしか言いようがないところです。今、当該ページを見てみると、鼇頭に「なやましい」と私の字でメモしてありますから、注意だけはしていたのであります。それが文章に生かされなかったのは、「メモ」→「データベース化」のプロセスを怠っていたからです。『言語生活の目』は、索引が大ざっぱで、それだけでは使いものにならないため、私のメモを含めた索引をデータベース化するつもりだ、などと岡島さんに申していたのですが、あれから話は、どこへ行ったやら。ちなみに「なやましい」は元の索引にもちゃんとあります。

「メモ」→「データベース化」を怠っているものが溜まっておりまして、ちょっと恐ろしいことです。

ついでに、その後気がついたことについていくつか:

国境の長いトンネル」の p.158
〈一つ山越しゃ他国の星が/凍りつくよな 国境{くにざかい}〉とある東海林太郎「国境の町」について

日本国と満洲{まんしゅう}国(現在の中国東北部)との境を指しています。
これはいけない。小沢昭一・大倉徹也『小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ』(新潮文庫)p.124によれば、
 作詞者は、大木惇夫{あつお}という詩人の方。この歌詞の「他国の星」とあるところを、最初「ロシヤの星」とお書きになったそうですね。ところがレコード会社のエライサンが、国際情勢を考えるとロシヤと具体的な名前を出すのはまずいんじゃないかと、それだけ書き直しを頼んだ。それで「他国の星」になったというエピソードが伝わっております。
ということですが、この記述を待つまでもなく、この国境は「蘇満国境」、すなわちソ連と満洲の境と考えるのがふつうではないのか。だいたい「日本国と満洲国の国境」とはどこだね、日本海ではないのか? まあ、私としては何となく日本領朝鮮半島と満洲ということでつじつまを合わせていたのでしたが。

男のポップス・女のポップス(p.107以下)
歌謡曲雑誌に収録された歌詞を対象に、男女の文末表現について小調査を行い、一定の男女差を認めました。しかし、もう一言ほしかった。それは、「男女どちらに向かって歌いかけているか」によっても語尾は変わってくるということです。たとえば依頼表現「〜て」(例、「誰か言って」)を女性は多用し、男性も使いますが、男性が「何々してよ」というのは女性に対するときが多いのではないのか。

もともと、日本語に男女のことばの差は少なかった。ところが近代以降、男女のことばの差が分かれた――という弱からぬ説ないし主張があり、ある一面では真実かと思いますが、もう一面では男女の言語生活は厳然と違ってもいた。だいたい昔の男は漢文ばかり書いていて日本語はちょびっとしか書かなかった。おのずと、男は「はなはだ○○なり」という言い方になり、女は「いと○○ぞや」という言い方をしただろう。しかし、男も女に向かっては「いと○○ぞや」と言っただろう。相手の言い方に合わせるのは男から女に限らずよくあることで、いい大人が子どもに対し「ぼく、いくちゅ?」(君、いくつ?に非ずして)と言うのも同様だろう。現代、男が女に「君、○○してよ」と言うのも、やはり同じだろう。(今、よく知らぬまま、考えをメモした次第です)

大野晋『日本語の年輪』(新潮文庫)で、「な……そ」の使い方についても同様のことがあったと記述。

あっ、どうもどうも(p.69以下)
いろいろな場面で使える便利な「どうも」を、もっと積極的に使っていこうではないかと主張しました。執筆当時に知っていればぜひ触れたかったのは、篠崎晃一・小林隆「買物における挨拶行動の地域差と世代差」(『日本語科学』2 1997)。端的にまとめれば、西日本ではアリガトー類が多く、東日本ではドーモ類が多く使われる。とすると、「どうも、どうも」を擁護するのは東日本出身者に多く、非難するのは西日本出身者に多いかもしれない(私は西日本出身だけれど擁護派)。「ありがとう」と言うか「どうも」と言うかで地域差があろうとまでは考え至らなかった。「執筆当時に知っていれば」と申しましたが、考え至らないものは触れることもできなかったわけです。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2004年 04月 07日 水曜日 23:01:10)

3月26日に、電子書籍版が出たようです。ご教示いただいたことを含め、できるだけ手直しいたしました。もっとも、どういう方がダウンロードして下さるのだろうかと思います。電子書籍というのは普及しているのでしょうか。

岩波Web書店


posted by 岡島昭浩 at 09:31| Comment(5) | TrackBack(2) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年06月02日

踏んだり蹴ったり(道浦俊彦)

「踏んだり蹴ったりの目にあった」と言っている本人は、本当は「踏んだり蹴ったりの目に合わされた」わけで、そういう意味から言うと、
「踏まれたり蹴られたり」
と表現した方が、現実に合致しているように思うのですが、なぜ「踏んだり蹴ったり」と言うのでしょうか?また、恐らくこれと似たような「例」があると思いますので、それもあわせてご教示ください。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 03日 火曜日 14:10:53)

 「ふんだりけったり」は、私の意識では、〈歩こうにも、異物を踏んだり蹴ったりで、七転八倒してしまう〉、という感じだったのですが、『日本国語大辞典』によれば、加害者側の言い方がもとであるようで、被害者側のものには用例がありません。

 「ふんだりけったり」の目にあわせてやる

のようなところから、攻守が入れ替わったのではないか、という気もしますが、どうなのでしょう。

加害者・被害者がともにいる場合には、どちらにも解釈できそうで、明らかに被害者側から言ったいいかたである、と断定できそうなのに、次のものがあります。

尾崎一雄「まぼろしの記」九

 椎名氏も夫人も、こつちの気のせゐではなく、確かに老けたやうだ。農家へのアルバイトにも出なくなつた。
 暫くして、夫人が眼を悪くしたといふことだつた。
「緑内障つていふ病気ださうです。ちよつと見たところ、何でもないやうですけど」
 と妻が報告した。
「そりやソコヒだ。白内障、黒内障、緑内障と種類があつて、緑内障は悪質と聞いたけど…」
「ソコヒですか。盲目になるんでせう、あれは。あの奥さん、踏んだり蹴つたりですね」


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 04日 水曜日 00:45:46)

見坊豪紀『ことばの海をゆく』(朝日選書) p.74には

 池田弥三郎氏は「気になることば」(『暮らしの中の日本語』毎日新聞社昭和51年3月刊所収)のなかで〔略〕おかしいことばをいくつかせんさくして、〔略〕「ふんだりけられたり(けったり)」などとともに〔下略〕
とありますから、1970年代に「ふんだりけられたり」と言う人がいたらしいことがわかります。これは、(その原文を見ずに私が臆測すると)「ふんだりけったり」が行為者側からの言い方であることに違和感を感じた人が「ふんだりけられたり」と、(なぜか後のほうだけ)受け身形にしたということかもしれません。


masakim さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 04日 水曜日 07:12:55)

”明らかに被害者側から言ったいいかた”の用例としては天明4年発行の『柳多留』19巻に次のようにあります。

   ふんだりけたりの目に今川出合(19-20)
   [桶狭間で敗れた今川義元]

牧村史陽編『大阪ことば事典』(講談社学術文庫 1984年)でも「散々な目にあうこと。重ね重ねひどい目にあうこと」と”明らかに被害者側から言った”ものです。

小峰大羽『東京語辞典』(新潮社 1917年)では定義は加害者側、例文は被害者側です。

   ふんだり・けッたり【踏蹴】非道に非道を重ねること。「―散々の献に遇ふ」

平凡社の『大辞典』の「踏んだ上に蹴る」の語釈も「[諺]散々な目に遭ふに譬へる。踏んだり蹴たりともいふ」と被害者側からのものです。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 04日 水曜日 15:37:29)

masakimさん、有り難うございます。

 「明らかに被害者側とわかる」という書き方は不足でした。「加害者がいないので被害者側からとしか判断できない」という風にした方がよかったかと思います。(例えば「……させて頂く」にしても、させる主体がいる場合と、いなくても「させて頂く」という場合では、許容度が異なるようなことを考えました)

「踏んだり蹴ったり」とは違う「殴る蹴る」ですが、こちらは被害者側からの言い方にはなっていないと思われます。

仕切屋が何か細工して、秤をごまかし、それがばれて屑屋の仲間からなぐる蹴るの目にあわされたという話。(井上光晴「眼の皮膚」1966)
「なぐる蹴るの目にあわされた」から「なぐる蹴るの目にあった」となったとしても、「加害者・被害者がともにいる場合には、どちらにも解釈できそうで」というつもりのものでした。

それにしても、平凡社大辞典1936は、語釈上、被害者を前面に押し出していているわけですね。

尾崎一雄「まぼろしの記」は、1962年でした。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 04日 水曜日 16:27:32)

池田弥三郎『暮らしの中の日本語』(旺文社文庫1980.4.30)「気になることば」(『風景』昭和50年6月)にある、「へんな言い方の一覧表」のなかに、

○クリン・アップ・トリオによって、つるべ打たれた。
○これではまったく、ふんだり、けられたりである。
つるべ打たれる、ふんだりけられたり、の例でみると、話者が、ウロウロしているのが、このごろの特徴なのかもしれない。
とありました。


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2003年06月01日

家庭 ということばについて(角田圭子)

最近読んだ「裏庭」(梨木香歩さん)という本の中に、イギリス人の発言として、日本ではホームのことを「家庭」という。家の中に庭があるという非常に心理的な意味合いの深いことばである、と書かれてあり、気になってしまいました。明治時代の訳語なのでしょうか? それとも古くからあることばでしょうか。広辞苑をひくと出典は「高允の徴士頌」とありますが、これもまったく意味がわかりません。
「学びの庭」などということばもあり、なにかの場所を「庭」とよびならわすのは伝統的な日本語なのでしょうか? 


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 23:05:04)

まず「高允の徴士頌」というのは、中国の高允という人の「徴士頌」という文章に出てくるということでしょう。これが出典というわけではなく、これにも出てくる、という程度のことでしょう。『日本国語大辞典』には「宋史」章得象伝の例が出ています。

『日本国語大辞典』の記述からすると、昔の中国語として、「家庭」は屋敷内の建物の前の場所を指していたものと思われます。ずっと時代が下り、「明治二〇年代(一八八七〜九六)に入ると、(日本で)雑誌を中心に「家庭」の語が頻繁に登場するようになる」「「家庭」をホームの訳語とする意識も生まれる」ということです。まあ、homeの訳語として、昔の中国語の「家庭」ということばを持ち出して当てたというふうに考えて良いのではないでしょうか。

「家庭」は、家の中に庭があるわけではなく、家プラス前庭というほどの意味だろうと思います。そう考えれば、それほど奇異なことばではありません。

「家庭」「朝廷」「法廷」「宮廷」などの「庭・廷」は、中国語では広場とか庭とかいう意味で使われていたのでしょう。また、日本語の「ニハ」も、これが変化して「バ(場)」になったという語源説が正しいとすれば(たとえば、「饗庭」さんという人がいますが、「あえば」と読む)、gardenだけでなくplaceも指したのでしょう。もっとも「学びの庭」「教えの庭」などは比較的新しいことばのようです。


masakim さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 04日 水曜日 07:57:13)

平凡社の『大辞典』では王僧孺の徐府君集序から「事顕家庭、声著同族」を引用しています。

樺島忠雄・飛田良文・米川明彦『明治大正新語俗語辞典 新装版』(東京堂出版 平成8年)では

   かてい【家庭】[英homeの訳語]夫婦・親子を中心とした血縁者の最小集団。家族。一家。この語は屋敷内の庭の意であったが明治二〇年代後半から三〇年代にかけて、家庭改革の風潮に伴いhomeの訳語として一般化した(半沢洋子「かてい(家庭)」『講座日本語の語彙9』参照)。

と説明し、明治4年から昭和11年までの6用例をあげています。

なお現代中国語でも家庭という語はhomeの訳語として使われているようです。

   home n 1 a the house where one lives 家;家庭... 2 the house and family one belongs to 家庭. (『朗文當代英漢雙解詞典』香港 朗文出版(遠東)有限公司 1988年)


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 28日 土曜日 06:55:44)

> 『日本国語大辞典』には「宋史」章得象伝の例が出ています。

この「宋史」は「宋・元・明・清」の宋で、比較的新しいですね。

> 中国の高允という人の「徴士頌」

は、新村出が六朝の文章だと説明しています。『広辞苑』の記述は新村自身の研究が反映されているわけです。

 支那で家庭という文字が見えるのは六朝の文章からである。第一は『全後魏文』巻二十八に収録されている高允の「徴士頌」の詞の中に「「怡{ゐ}々{タル}昆弟、穆{ぼく}々{タル}家庭」とある文句であって、私たちが用いる家庭の意義に近い。高允は渤海の生れの還俗僧で後魏の太和十一年(西紀四八七年、日本の顕宗三年)に歿した人で、文集二十一巻があったが、「徴士頌」は、斉の魏収の撰した『魏書』巻四十八「高允伝」から転載したものである。次には『全梁文』巻五十一に載せてある王僧孺という文人の『Щ�{せんじ}徐府君集序』に見えるところの「事顕{シ}2家庭{ヲ}1、声著{ス}2同族{ヲ}1」という文句である。この文は唐の欧陽詢が編した『芸文類聚』巻五十五巻より収録したのである。王僧孺は梁の普通三年(西紀五二二年、日本の継体十六年に歿した人である。唐宋以後、家庭という文字はしばしば用いられたことと思うが、元の脱々等の編した『宋史』巻三百十一「章得象伝」に、得象の父奐{かん}が家庭に笏を積むこと山のごとくなりしを夢に見た逸話がある。これら以外の用例は私の直ちに見出しかねるところであるから、その増補は後日に期待せねばならぬ。
(「家庭という語」『語源をさぐる』講談社文芸文庫)
つまり「徴士頌」→「徐府君集序」→「章得象伝」の順で古いのです。

また

> もっとも「学びの庭」「教えの庭」などは比較的新しいことばのようです。

これは間違いで、上記・新村の文章に拠れば、

定家の『拾遺愚草』の歌にも、「教へし庭の道の月影」の文句が見え、勅撰集には『続古今』をはじめ、『新千載』『新拾遺』『新後拾遺』より『新続古今』に至るまで、また『新葉集』にも「庭の訓へ」とか「教への庭」とかいう句が散見する。
とあり、「おしえの庭」はけっこう古いようです。「庭訓」〔庭の訓へ〕が古いのは分かりますが「おしえの庭」も古いのでした。しかし「まなびの庭」はやはり新しいのではないでしょうか。


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2003年05月30日

ヱビスはYEBISU(道浦俊彦)

ヱビスビールの「ヱ」は、平仮名なら「ゑ」で、「ワ行」です。ところがビールの缶を見ると、「YEBISU」と書いてあります。この「YE」はワ行の「ヱ」なんでしょうか?
日本円の「円」も「YEN」と書いてあります。
ということは、「YEBISU」は「ローマ字表記」ではなく「英語表記」であると考えられますね。それでいいのかな?
でも英語の音としては「WE」ではなく「YE」という音ですから、「ヤ行」(に近い音)と考えてもよいのでしょうか?
このあたり、どうなんでしょうか?


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 30日 金曜日 17:52:22)

これはFAQですね。まずは、下の記述を読んでから、話を進めましょう。

サッポロビール/お問合せ


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 30日 金曜日 18:06:59)

まず、「えびす」の本来の仮名遣いは「えびす」だが、「え」と「ゑ」が同音になり、其の後、漢字「恵比寿」が当てられることにより、かな書きでも「えびす」ではなく「ゑびす」が優勢になった、と。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 31日 土曜日 00:17:23)

日本語の音韻変化の概説としては、古典的でわかりやすく過不足のないものとして橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』(岩波文庫)に収録されている「国語音韻の変遷」があります。(岡島さんのテキスト、および、青空文庫にも収録)

これに拠りつつ、現代「え」と発音する音韻に関してごくごく雑にまとめてみますと、
 第一期(〜奈良時代)
  「え」は e および ye、「ゑ」は we、「へ」(語中語尾)は Fe のように発音された。つまり今の「え」は当時4通りに発音された。
 第二期(平安初期〜室町末期)
  e、we、Fe(語中語尾)の発音がみなyeに合流した。
 第三期(江戸初期〜現代)
  yeがeになった。

「えびす」は第一期はむろん「e」で発音、しかし第二期に「え・ゑ・へ(語中語尾)」の発音ががすべて「ye」になったため、かなの使い分けの基準が分からなくなって、「えびす」と書く者も「ゑびす」と書く者も現れた。発音するときはいつも「ye」だったから、外国人はそのようにローマ字化した。

ところが、「ヱビスビール」は「明治23年に発売」ということですから、当時は「ゑ」も「え」も e と発音されたわけで、そこをあえて「YEBISU」としたのはなぜか、「EBISU」で十分ではないかという疑問は、サッポロの説明を読んでも、なお残ります(「WEBISU」はありえません、「we」はすでに第二期に滅んでいます)。「日本人は最初エはYEと書くものだと思った」というのは、「明治23年」において多くの日本人がそうだったという意味でしょうか?

幕末のメドハースト『英和・和英語彙』をみると、「え」は多く「Ye」と書かれ、たまに「ヱジ E zi」(衛士)、「ヱビ E bi」(海老)などと「E」を使うものがあります。明治初期のヘボンの『和英語林集成』をみると、ヘボン式ですから当然「夷・蛭子」は「EBISU」です。

では当時の日本人自身は「え」をどう書いたか?

明治18年の羅馬字会「羅馬字にて日本語の書き方」(岡島さんのファイル)によれば、「E」は「エ、ヱ」に使われ、「例へば ebi蝦{エビ} en 園{ヱン}又「ヘ」を「エ」と読むとき例へばmae前{マヘ}」としています。ただし「テニヲハの「ヘ」に限りyeを用ふ其外の「エ」の音は皆eと書くべし」ともあります。これに従えば「夷・蛭子」は ebisu になるはずです。

明治40年代の石川啄木のローマ字日記では「え」は e です。ye や we はありません。

すると、「ヱビスビール」を「YEBISU」と書く積極的根拠はあるのかということになります。もしや、当時のビール会社の人は、(発音とは関係なく)「エ」を e、「ヱ」を ye で表していたのではないかとも思われます。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 31日 土曜日 00:25:39)

> 「えびす」は第一期はむろん「e」で発音、

ああ、これはまったくいけません。「えびす」は第一期では「e」だったか「ye」だったかよくわからない、しかし「e」は少なかったので、発音されたとすれば「ye」の可能性が大、でも「we」ではあり得なかった、というのがより真実に近いのでしょう。


skid さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 31日 土曜日 01:37:55)

あまり関係ないかもしれませんが、三省堂の『帝国大辞典』(明治29年)を思い出しました。
この辞典は、本文の全頁ケシタに五十音順でひらがなを入れていますが、

  やゐゆゑよ らりるれろ わいうえを 

となっている箇所が圧倒的に多いのです(わ行の「え」は「江」の草体)。
第三版で、頭から数頁だけは直したものの、結局ほとんどはそのまま。
もちろん、本文の見出しや前付の文法摘要では正しくなっています。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 31日 土曜日 22:39:16)

> 明治初期のヘボンの『和英語林集成』をみると、ヘボン式ですから当然「夷・蛭子」は「EBISU」です。

これもまったくいけませんね。初版(1867、慶応3)で「YEBISZ」、再版(1872、明治5)で「YEBISU」です。そのあと、3版(1886、明治19)でようやく「EBISU」です。つまり、明治初期はヘボンも「Ye」で通していたわけですね。

この前は「港の人」の三本対照『和英語林集成』の「E」のところを見ながら書いたつもりでしたが、「E」の項目ということに気をとられてしまい、見出しの表記を看過しました。そして、私がヘボン式ローマ字について基本的なことを知らないということを露呈してしまいました。まこと、取り消しのきかない掲示板はおそろしいです。

「当然」とか「むろん」とか書いているときは、確認がおろそかになっている証拠ですね。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 31日 土曜日 22:51:17)

このヘボンの話は、高島俊男氏の新刊『お言葉ですが…7 漢字語源の筋違い』(文芸春秋)の「「円」はなぜYENなのか」に「たとえば慶応三年に出たヘボンの『和英語林集成』では、日本語のエはすべてyeであらわしている」とあり、「イェ〜?」と、ここで気づいたということも、併せて告白しておきます。


skid さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 00:10:30)

Yeemarさんは「イェーマー」さんじゃないですよね、当然?
むろん、「エーマー」さんでもない?


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 10:39:45)

皆さん、ありがとうございます。Yeemarさん、、高島俊男「お言葉ですが・・・7」、目の前にありました。読んだはずなのに・・・連載の時とあわせて2回も。橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』もつい2年ほど前に呼んだはずです・・・忘れていました。ありがとうございました。エビスビール(=サッポロビール」の広報にも電話で話を伺いましたので、また「平成ことば事情」にまとめます。
ところで、なぜ「ヱビスビール」の「ヱ」の話になったかというと、うちの新人アナウンサーが、研修の中で「を」を「お」と区別して「ウォ」と発音しているのに気づいたからです。そこで、30人ぐらいの若い人(17歳から23歳)に「『を』と『お』の発音を区別しているかどうか」聞いたところ、7人が区別していると答えたのです。甲南大学の都染先生によると、「小学校の先生が、そういうふうに教えているようだ」とのこと、また岡山大学の中東先生も「日本語学の別冊に、たしかそれについて書いてあった」と教えてくださったのですが、何か情報をお持ちの方はいらっしゃるでしょうか?(別スレッドのほうがいいですかね?)

あ、日経新聞の今朝(6月1日)の朝刊1面下の「岩波アクティブ新書」の広告に、Yeemarさんの6月5日に出るという御著書、『遊ぶ日本語、不思議な日本語』、見つけました!!


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 11:49:35)

「を」と「お」については、「は」と「わ」のスレッドで出てきます。

BBS_MSG_991024103546.html


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 14:43:22)

skidさん、「Yeemar」は英語式には [ji:ma:] と発音することになるのでしょう。私は「Yee」を「イー」にあてています。

ゾロアスター教の伝説の王にイマ(Yima)というのがあって、これも英語式には [ji:ma:] だそうです。私の場合はこれとは関係なく、本名をできるだけめんどくさい綴り字にしたというだけのことです。


かねこっち さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 22:47:04)

「円の国際史」(菊地悠二著2001年有斐閣第3版)によりますと「YEN」の表記には
諸説(「刀祢舘[1986]による」の注あり)ありとして以下のような記述があります。

 (1)ENとすると,英米人はインと発音しかねない。また,フランス人は「において」,
   オランダ人は「そして」と,それぞれ母国語で理解してしまう。
 (2)横文字にする場合に,YENとした方がより安定感があり,貨幣の名称にふさわしい。
 (3)Nで終わる数字の直後では,N-ENとリエゾンしてしまう。
 (4)英米人が発音に忠実に表記すれば,江戸がYEDOであったように,YENが自然である。
   円の呼称に国際性を与えるためには,その方がよい。
 (5)北京語では円・元ともにYUAN,また華南地方ではYAN・YENと発音される。
   円のアジアでの普及を展望して,華僑になじみやすい表記にした。
 (6)イとエは江戸中期ごろまではイェと発音されていたとみられる。YEの表記を残したのは
   当然の成り行きであった。
  これらの諸説は,いずれもそれなりの説得力がある。関係当局がこの種の公式決定をする場合,
 念のため母国語を話す学識経験者に確認を求めることは,現在でもあり得る自然な発想である。
 そう考えれば,英文による表記にあたってENではなくYENとしたことは,YEDOの例にみる通り
 いわば当然の帰結といえよう。当時の造幣寮に英国人の顧問や技術者がいたことを考え合わせると,
 ほとんど自動的にYENに決まったともいえるのではなかろうか。
  以上の諸説に対して,そもそも「清朝後期にメキシコドルが中国に流入して以来,特に区別する
 ことなくyuanまたはyen(元または円)と呼ばれており,メキシコドルの香港鋳造所がyen(円)
 マークを刻印していた」という有力な説がある。初期に香港から造幣機械を導入した経緯からみて
 も,呼称が円に決まればYENが英文表記になることは半ば自明のことであったことになる。

「YEN」の場合は、国内事情よりも「外国人関与」という事情が色濃く反映しているのかもしれません。


益山 健 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 02日 月曜日 06:13:22)

>「エ」を e、「ヱ」を ye
文語訳聖書の固有名詞がこの方式ですね。


新会議室「円はYENか」に続く

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2003年05月29日

結構毛だらけ、猫灰だらけ(道浦俊彦)

有名な寅さんのタンカバイのセリフ。なぜ「猫」なんでしょうか?なぜ「灰だらけ」何でしょうか?ご教示ください。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 29日 木曜日 19:45:25)

これは何なんでしょう? 私もよく存じませんが、宮沢賢治の『猫の事務所』にこういうところがあります。

 四番書記は竃{かま}猫でした。
 竃猫というのは、これは生れ付きではありません。生れつきは何猫でもいいのですが、夜かまどの中にはいってねむる癖があるために、いつでもからだが煤{すす}できたなく、殊に鼻と耳にはまっくろにすみがついて、何だか狸のような猫のことをいうのです。
猫は暖かいところで寝るのが好きですからね。すると、「灰猫」はさしずめ、竃の中や、長火鉢か何かの中で寝る、しつけの悪い猫なのではないでしょうか?

と思い、『大辞林』で「灰猫」を引いてみると

火を落としたかまどの中に入って暖をとり、灰だらけになった猫。かまどねこ。
「―のやうな柳もお花かな/おらが春」
と、ここで俳句に詠まれる景物のひとつ(季節・冬)であることがわかります。


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 30日 金曜日 07:34:08)

Yeemarさん、ありがとうございました!「一つ学問をしました」。


masakim さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 31日 土曜日 05:34:57)

改造社版『俳諧歳時記(冬の部)』(昭和22年11月30日発行;例言・凡例は昭和8年)には次のように書かれています。(原文は正字・旧仮名です)

 竃猫(かまどねこ)
 [季題解説]猫は冬になると縁側の日向とか、暖炉の上とか、囲炉裏ばたとか、暖いところを追つてあるく。丁度よく温もりの残つたへつついの上などは最も好むところで、いつまでもその上に香箱を作つて目を細くしてゐるものである。時には火の落ちた生あたゝかい竃の中にもぐつてゐて、灰だらけになつて出て来ることもある。これを竃猫として新季題に入れることは言葉としても熟してゐるし、ちよつと面白い。

当時はまだ季語として認められていなかったようです。講談社版『カラー図説 日本大歳時記』(昭和58年11月24日発行)には「かじけ猫 灰猫・竃猫・へっつい猫・炬燵猫」として例句12句と共に載っていますが、解説の最後に「『竃猫』は富安風生氏の造語である」と書かれています。

寅さんの啖呵は川崎洋『かがやく日本語の悪態』(草思社 1997年5月26日)の157〜158ページに引用されています。


masakim さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 31日 土曜日 05:55:20)

投稿してから、鈴木棠三『新版 ことば遊び辞典』(東京堂出版 昭和56年11月15日)で見たような気がしたので調べてみると、IIしゃれ むだ口(756ページ)に載っていました。

結構毛だらけ  結構結構というとき、または、結構ということばをまぜ返す戯言。〔俚言集覧〕
 ▽結構毛だらけ灰だらけ〔時代子供うた〕
 ▽結構毛だらけ猫灰だらけ〔伊豆・駿河・出雲〕
 ▽結構毛だらけ穴だらけ
 ▽結構毛だらけ猫の穴
 ▽結構毛だらけ猫灰だらけ、けつのまわりは糞だらけ〈伊豆〉
 


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 01日 日曜日 10:43:42)

masakimさん、ありがとうございます。上記、二冊とも、書棚の奥にあるような気がしますので、確認してみます!昔は「猫」と人間の距離は、今より近かったのですかね・・・もちろん、猫好きの方にとっては今も昔も変わりないかと思いますが、マンション住まいでは距離も遠くなりますねぇ。住まい方の変化、というわけでしょうか。


posted by 岡島昭浩 at 16:46| Comment(1) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年05月28日

一つ学問をした(Yeemar)

「おかげで一つ学問をした」という言い方は、常套句といえるのでしょうか。
わたしは浅学にして生活文とはどういふものかを知らないが、実物から推測するに、どうやら他愛もない作文のことを近頃はかう呼ぶらしい。おかげで一つ学問をした
(丸谷才一『日本語のために』新潮文庫 p.48)
憎まれ口または皮肉、冗談としてよく使うような気がします。司馬遼太郎『国盗り物語』(新潮文庫の100冊)にもあります。
(おなごとは無用の縁を持たぬことよ。奈良屋の後家のごとく利益ある縁ならばよいが、金輪際、役にもたたぬ縁をもたぬことだ)
 庄九郎、一つ学問をした
なお、常套句の話については少し前に出ましたが、データクラッシュによって飛んでしまったようです。「今日この頃」という常套句の話しが出、向田邦子『阿修羅のごとく』から
巻子「波風を立てずに過ごすのが本当に女の幸福なのか、そんなことを考えさせられる今日此の頃である
鷹男「『今日この頃である』――女は好きだね、こういう言い方――」
という例を引きました。朝日新聞の投書欄「声」の10年ほどの調査によれば、向田邦子のいうごとく女性のほうが平均して多かったのでした。私のホームページの文章「私だけだろうか」の話も出ました。


km さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 28日 水曜日 17:58:57)

Googleで一つだけ見つけました。
「何事も勉強、一つ学問をしたり。」
これは昭和十七年の日記の記事です。

「一つ勉強をした」「一つ勉強になった」という言いかたの方が良く耳にする気がします。

五十五年前の日記帳


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 28日 水曜日 20:43:22)

遺品の「従軍中に書いた日記帳」とのことで、貴重なものですね。

しかしインターネットでほとんど出てこないということは、常套句というにはほど遠そうです。

ただ、私は本などで、何度か目にしたことがあるように記憶します。

多くの人は使っていなくても、何人かの文人なり随筆家なりが使っているという、狭い範囲の常套句ということはないだろうかと思います。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 30日 金曜日 16:58:09)

私も「勉強になった」を思い出したのですが、「いい勉強になった」とか、「これは勉強になった」とか。憎まれ口などに使うのも同様かと思います。

更に思いだすのはクレージーキャッツの「悲しきわがこころ」。谷啓のせりふ「勉強になりました」。大学8年生の歌です。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 30日 金曜日 17:53:56)

別スレッドで道浦さんが「学問をした」を使ってくださいました。

私が「学問をした」が「よく使われることば」だと思ったのは、「勉強になった」等々と取り違えているにすぎないのかもしれません。

「勉強になった」はよく使われますが、こちらは(常套句ではあるにせよ)「典拠あることば」という感じが希薄です。これに対し、「一つ学問をした」は、丸谷才一と司馬遼太郎の例しか見つけていないのに、「典拠あることば」という感じがなぜかするのです。大仰な言い方だからでしょうか。

筒井康隆『俗物図鑑』には「よい勉強をした」。これも「典拠あることば」という感じは希薄です。ただ、こうした皮肉の言い方自体は、溯って行けばだれかの文章に行き着くかもしれません。

 それまでは随筆というものが「心象と物象との交わるところに生じる文である」とは夢にも思っていなかったため、ぼくは腹立ちを押えてウーンと考え込み、さては随筆というものは「心象と物象との交わるところに生じる文で」あったか、これはよい勉強をしたと、ぽんと膝{ひざ}を打ち、便所へ行って小便をし、その晩はぐっすり眠ったのである。

『狂気の沙汰も金次第』新潮文庫 p.12)
ここまでをまとめますと、私の興味は(1)「一つ学問をした」という言い方に典拠ありや(2)「一つ学問をした」「勉強になりました」「よい勉強をした」(「ためになった」)等々、皮肉表現としての同趣の言い方には源流はありや(もしくは源流などなく、古今東西だれもが使う自然な表現か)、ということになります。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 30日 金曜日 18:01:31)

> 筒井康隆『俗物図鑑』には

これは間違いです。あとの『狂気の沙汰も金次第』が正しいのです。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 30日 金曜日 18:05:03)

> (2)「一つ学問をした」「勉強になりました」「よい勉強をした」(「ためになった」)等々、皮肉表現としての同趣の言い方には源流はありや

これはさすがに、ただの皮肉表現であって、源流もへちまもないような気もします。


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2003年05月23日

アクセントによる聞き分け


 昨夕の夕食時に、当方が「二つ」と注文したものを店側では「一つ」と聞いていたらしいことに気づいたのは、小皿を持ってきたときだった。


 それが判然とする前にわが子が、「ウェイトレスが一つといったような気がする」と言ったが、私は「いや、あとの方の〈一つ〉と違って聞こえたから二つといったと思う」と答えていたのだが、子のほうがちゃんと聞いていたわけだ。


 私は普段、「ひとつ」と「ふたつ」の聴き分けにはアクセントが預かっているように感じる。平板で言えば「ふたつ」、中高で言えば「ひとつ」。


 類例は、「お子さん」と「奥さん」。「幸せ」と「不幸せ」もそういう傾向があることを前に書いた。「幸せ」それとも「不幸せ」


 ところが問題があって、「ひとつ・ふたつ」は前に「お」をつけると中和してしまうのだ。どちらも平板になってしまう。不便なものだ。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 27日 火曜日 09:56:41)

 横浜ベイスターズの投手に「中野渡」という投手がいる。これが姓で「なかのわたり」と読むのだが、「わ」の後に下がり目がくる。


初めて聞いたとき、「次の投手は中野渡でしょうか」という文脈だったので、「中野あたりでしょうか」と言っているのかと思ったものでした(アクセントは同じ)。


さて、この中野渡をニュースで「なかのわたる」と読み間違えたアナウンサーがいて、そのアクセントは平板。「渡」は、中野という同姓の人がいて付けられた名前だと思ったのでしょう。


で、「なかのわた」まで聞いて下がっていなかったら、その読み手は姓名だと思っている、と判断してよかろう、というお話でした。


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2003年05月16日

嫁とカミサン(さなださな)


なんとなく思ったんですけど、「妻」の呼び方が

関西では「ヨメ」、関東では「カミサン」という気がしませんか?

ヨメ文化圏、カミサン文化圏とかってないのでしょうか。

こういう話題でもいいですか?



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 16日 金曜日 23:33:25)

大阪出身の会社員である知人が、まだ若い奥さんのことを「嫁」「嫁」とやけに封建的と私には思われる呼び名で呼んでいたので、マッチョを気どっているのか、それとも会社員の用語なのかと思っていましたが、関西式の呼び名だったのでしょうか。


『日本方言大辞典』では「よめ」を「妻」の意で用いるところは、古くは久留米・筑紫、今は山梨・岡山・香川・熊本・宮崎。「よめご」は古くは久留米、今は福岡・佐賀・熊本。「よめごどん」は熊本。「よめさま」は福島。「よめさん」は香川。「よめはん」は大阪・香川。「よめじょ」は佐賀・熊本・宮崎・鹿児島。「よめじょー」は福岡・宮崎。「おゆみ」はかつて長崎の対馬、といったところです。


九州に多いですね。書きながら、「いとし・こいし」とか「阪神・巨人」とかの上方漫才を思い出しました。漫才で「よめはん」は使われていますね。


会社員の知人は「よめはん」の「はん」を略したのでしょうか。


「かみさん」を自分の妻の意に用いるのは、『日本方言大辞典』には載っていませんでした。



道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 18日 日曜日 17:29:01)

「ヨメ」は関西では普通に言います。たしかに東京での「カミサン」と同じ使い方だと思います。つまり「嫁姑」の「嫁」のつもりでは使っていません。だから、夫が妻のことを言う時に「うちのヨメが」といいますね。「家」の制度とは関係ありません。(今、使われている使い方は。)

「妻」というのも表現が「堅い」し、「パートナー」なんて気取ってるし、「奥さん」って、自分の身内に敬語も・・・というと、「ヨメ」は適度にくだけて、親密感もあっていいのでは、と思うのですが。

私個人は「家内」という言葉も好きなんです。音の響きが。字を見ると、「一番封建的ではないか」と思われますが。もっとも、普段は働いていて、家の中にいることがほとんどない「家内」なので 「名称に偽りあり!」ということになりますが。

時々「うちのヨメが・・・」と言うと、「えらそうに、亭主関白を気取って・・・」とかいう人がいるのも確かですから、ジェンダー意識の高い女性の前では使わない方がいいようです。「うちのカミサン」は、コロンボ警部のセリフでなじみがあります。


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2003年05月14日

「最もAAであるBBのひとつ」って(ぴ)


どこで聞いていいやらずっと困っていたことがあるので、場違い

かもしれませんが、相談させてください。


最近「最もAAであるBBのひとつ」という言い方が増えてきたと

思います。しかしこれは、英文を訳すときにしかたなくつかわ

れた用法で、正しい日本語ではないと聞いたことがあります。

(日本語の「最も」は単数であって複数ではないものだから)

本当はどうなのでしょうか?


もともと違和感があったのですが、先日NHKのニュースでも使

われていたのを聞いて、ぐっと違和感が高まりました。



道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 15日 木曜日 07:30:13)

英文和訳の影響はあるかもしれませんね。根拠はありませんが。

ニュースでは「最大級」「最古級」というような表現がよく出てきます。これも「最大」とか「最古」ではなく、「そう呼ばれているもののうちの一つ」ということなんです。そういう意味では、「最古級」は、その「最も古い」ものが確定していないような場合に使われています。「最大級」は「最大」であることがメリットである場合に、それに「あやかりたい」という、売り手側、宣伝側(マスコミなども含む)の意図によって生みだされたのではないでしょうか?



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 15日 木曜日 07:38:54)

 鎌倉時代の「宇治拾遺物語」には「昔、天竺に一寺あり。住僧もつともおほし。達磨和尚、この寺に入て、……」とあり、これはこの寺が住僧の人口において天竺第1位というわけではなく、「住僧が非常に多い」ということと解されます。

 すると、日本語では「最も」は古来only oneである必要はなかったことになります。

 「最も優秀な学生の一人」という言い方が欧文脈の直訳ということは間違いないでしょう。もとの言語では論理的に正しいのかどうか分かりませんが、もとの言語では、あるいは「最も優秀な学生(のグループ)の一人」という考え方なのかな、と想像しますが、いかがでしょうか。

 欧文脈が日本語にどのように取り入れられていくのか、もう少し勉強してみたいと思います。明治〜大正〜昭和とどのように移り変わっていくのか知りたいものです。



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 15日 木曜日 07:41:24)

上記「宇治拾遺物語」の例は『日本国語大辞典』の用例にとられているものです。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 19日 月曜日 00:43:27)

「最も○○なものの一つ」の用例ですが、どうやら明治以降のようですから、翻訳による表現だ、ということがあるのでしょうが、Yeemarの書いておられるように、「最も」の意味が唯一である必要がない、ということは関係してくると思います。ただ江戸にも「もっとものひとつ」というように見えるのがあり、これを検討せねばなりません。


さて、明治以降の用例です。


漱石『三四郎』

この字は三四郎の覚えた外国語のうちで、尤も長い、又尤もむずかしい言葉の一つであった。意味はまだ分らない。


漱石『彼岸過迄』

敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間を極めて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。


鴎外『妄想』

凡ての人為のものの無常の中で、最も大きい未来を有しているものの一つは、やはり科学であろう。


伊藤左千夫 大正四年九月「アララギ」長塚節追悼号

いい加減にしておくことは、長塚君の最もきらいなことの一つであった。


島崎藤村『家』

その晩は、若いものに取って、一年のうちの最も楽しい時の一つであった。


寺田寅彦「映画時代」

そういう意味でニュース映画は自分にとって最もおもしろいものの一つである。


古そうなのだけ。


posted by 岡島昭浩 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年05月03日

ど真ん中(Yeemar)


「ど真ん中」というのは大阪弁である、野球中継によって広まったのである、東京では「真ん真ん中」と言うのである、という説を聞きます。これはどなたの説であったか、肝心のことを忘れてしまいました。巷間流布されている説でしょうか。


しかし、『日本国語大辞典』によれば、久保田万太郎(生粋の江戸っ子)が使っています。


してみると、この一事で「ど真ん中」野球報道由来説というのが、ぐらつくように思われるのですが、いかがでしょうか。


ご存じのことがございましたら、ご教示いただければと思います。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 04日 日曜日 01:12:46)

丸谷才一『日本語のために』「当節言葉づかひ」でしょうか。

あれは野球の解説者がたいてい関西出身なので(あるひは関西出身でなくても関西人の多い野球選手のなかでもまれてゐるうちにどうしてもそれに近くなって)しきりに使ったせゐかもしれない。たしかに、「ドまん中に投げる」ならサマになるげれど、「まんまん中に投げる」では凄味がなくていけないかもしれない。


ここは、
伊藤正雄といふ国文学の先生の著書に『国語の姿勢  ある大学教師の“国語白書”』といふ好著がある。この先生、東京生れの東京育ちでありながら、ずつと関西の大学にお勤めだつたせゐで、上方ことばと関東ことばといふ問題にたいそう敏感になつたらしい。


という部分の後なのですが、この本で「ど真ん中」が取り上げられているかどうかはわかりません。ちなみに、この伊藤先生は足立巻一『やちまた』の拝藤先生のモデルですね。『忘れ得ぬ国文学者たち』右文書院 , 1973の著者ですし。

なお、『国語の姿勢』は黎明書房 , 1970



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 10日 土曜日 01:49:27)

Yeemarさんのコメント、並びに私が『放送用語論』から引いたものが、消えました。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 19日 月曜日 18:34:30)

『国語の姿勢』みました。「戦後の日本語を点検する 五 関西語の進出」(p354)

交通やマスコミの急速な発達と、東京・関西の文化交流との結果、関西語が東京語と混血して標準語化し、純粋の東京語の影が薄くなった例も珍しくない。大阪の「ど真ん中」が、戦後東京の「まn真ん中」を制圧して、中央の座を獲得したのは、その好典型である。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 23日 金曜日 22:26:25)

伊藤正雄氏。丸谷氏が「東京生まれの東京育ち」と書いたのは誤り。『国語の姿勢』の略歴にも「大阪市に生まる。幼少時を東京に過し、中学時代の半ばに郷里大阪に帰住」とあります。

「関西語の進出」で挙げられているもの。

「ガラスを破る」「窓を破る」

コキブリ(油虫)

かぼちゃ(唐茄子)

根性

えげつない(あくどい)

がめつい(貪欲だ)

いじましい(けちくさい)

してほしい(してもらいたい)

言うなれば・するなれば


なお、『忘れ得ぬ国文学者たち』が復刊されていまして、宣伝文句に足立巻一『やちまた』の拝藤教授のモデルであるとも書いてありました。

『忘れ得ぬ国文学者たち』



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 25日 日曜日 18:07:25)

「ど真ん中」については、橋本五郎監修・読売新聞新日本語企画班著『新日本語の現場』 (中公新書ラクレ、2003.02)でも触れられており、道浦さんのHP「平成ことば事情」も引用されています。


やはり関西から野球を通じて広まった、というふうに書いてあったと思います。(手持ちのお金が少なかったため、まだこの新書を買っていないのです)



masakim さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 26日 月曜日 04:59:48)

私もまだ橋本五郎監修・読売新聞新日本語企画班著『新日本語の現場』 (中公新書ラクレ、2003.02)を購入していませんが、『読売新聞』2002年(平成14年)7月11日夕刊18頁の”44 「ど真ん中」と「真ん真ん中」”には次のように書かれています。


 「井川の三球目、ど真ん中に決まった」――。野球中継で使われる「ど真ん中」は、もともと関西の言葉だ。接頭語の「ど」について、「日本国語大辞典」(小学館)は、名詞や形容詞などの上に付けて強調する俗語で、「近世以来の上方の言葉。現在も関西方面を主として用いられている」と説明している。

 関東では本来「真ん真ん中」のように「真(ま)」を付ける。「真っ青」「真ん丸」「真正直」といった具合だ。東京・銀座にドラッグストアチェーンが進出するという記事の見出しに「銀座のど真ん中」と付けた時のこと。「ど真ん中は大阪弁だ」と先輩から指摘された。見出しを担当した筆者は大阪生まれだが、これが関西風の表現だとは全く意識していなかった。

 十年ほど前、山形県で新たに売り出された米の銘柄に「どまんなか」というのがあった。開発した同県立農業試験場によれば、「米どころ新潟と秋田に挟まれた山形は、米どころの中心といった意味。『ど』を付けて強めたつもりだったが、関西の言葉とは思わなかった」という。

 一方、気になる言葉をホームページで取り上げている読売テレビのアナウンサー、道浦俊彦さんは、「『ど』には、強調語という以上に、対象をけなす感じが込められている」とみる。「大阪ことば事典」(講談社学術文庫)にも「けんか用の語意を強めるための接頭語」とあった。「どアホ」「どケチ」「どあつかましい」「どタヌキ」……。確かに関西弁には、迫力のある言葉が多いようではある。



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 28日 水曜日 01:25:15)

『新日本語の現場』は、読売新聞の連載をそのまままとめたもののようですね。


「ど真ん中」の話になると、野球の話がよく出てくるように思われる、というのは冒頭に私が書いたことですが、これが丸谷才一氏の文章以来のことなのか、それ以前にだれか言っていたのか、興味は尽きません。丸谷氏は「あれは野球の解説者が……しきりに使つたせいかもしれない」と、いわば思いつきを記しているのですが、それがいつしか伝言ゲームで、人々の間で「野球解説者が広めた」となっていはしないだろうかと疑います。


私は、久保田万太郎が1928年に『春泥』の中で「道のどまん中」と使っているという『日本国語大辞典』のたった一つの用例から空想を広げて、「ど真ん中」というのは東京でもふつうに使われていたということであれば面白いな、と思いました。「野球を通じて関西弁から入った」ということが仮に信じられていて、しかもそれは俗説であったというような展開になれば、なおさら面白いと思います。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 28日 水曜日 16:10:10)

クラッシュで飛んでしまった『放送用語論』を、今度はちゃんと引用します。

地方の方言のうちで、なんらかの理由で最近東京でも広く使われるようになった単語がいくつかある。大阪方言からの例が多いようであるが、野球中継などから広まったと見られる「どまんなか」や「もうひとつ」、ドラマから広まったと見られる「がめつい」などのほか、「えげつない」「ややこしい」「しんどい」など多くのものが、東京にいる人にも、時には使われもするし、少なくとも理解はされるようになった。


『放送用語論』63ページ 第1部第3章「放送用語と標準語」(石野博史氏)

NHK総合放送文化研究所 日本放送出版協会 昭和50年3月20日発行


『日本語のために』の単行本(1974.8)から一年も立たぬうちに、「かもしれない」ではない情報になっています。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 04日 水曜日 15:58:01)

『日本語のために』の単行本は1974.8ですが、「当節言葉づかひ4江戸明渡し」は、『小説サンデー毎日』1973年4月号が初出のようです。


また、Yeemarさんは文庫版でお引きになっていると思いますが、私は単行本(S51.11.30 22刷)で引いています。「表記法」の注記の「字音仮名づかひは原則として現代仮名づかひ」というのは共通ですが、文庫本には、

字音の仮名づかひのうち、特に誤りやすいもの。「――のせい」(セヰとしない。「所為」の字音ソイの転だから)。
とあります。



NISHIO さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 17日 月曜日 03:09:17)

山形県に「どまんなか」という銘柄米があります。名前の意味は、「山形県が米どころの中心を担っていくとともに、おいしさのどまんなかを突き抜ける味わいの米であること」だそうです。


「ど」はあまり品のよい接頭辞とは思えないので、食べ物の名前には不適切な気がします。というわけで、食べたことはありません。



どまんなか


posted by 岡島昭浩 at 15:16| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年04月22日

横書きと符号(Yeemar)

skidさんが別スレッドでご指摘になっていたことと関連しますが、横書きと「くの字点」の関係について触れているものとして楳垣実『日本外来語の研究』がありました。
 9 表字符と表語符――「つゝ」「毎日々々」「よろしく\/」などと、横書きにこの種の符号を使ふことも、特に最後の場合には感心しない。近頃の学生の答案には、この表語符をよく見かける。表字符の方はさほど不便でも目障りでもないが、行がかわつて〔ママ〕最初へ「ゝ」や「々々」が来る時は、なるべくこれらの符号を使はない方がよいと思ふ。(p.386、原文横書き)
横書きの受験参考書に古文が載る場合、「\/」のように書かれていたのを記憶しています。活字を組むとなると単純に90度回転するのでそのようになるのでしょう。手書きの場合は、「/\」を使用していた高校の時の同級生を知っています。

「〜」という符号が、縦書きと横書きとで単純な90度回転ではなく、裏返しになるのであるということは、長い間気づきませんでした。横書きの場合は「N」のようになり、縦書きの場合は「S」のようになります。しかし、マイクロソフトの「Excel」で資料を作成していると、「〜」は「И」のごとく表示されます。この理由がちょっとわかりません。

いけいけギャル


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 22日 火曜日 12:50:16)

上の楳垣実の本は昭和十八年七月発行です。


skid さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 25日 金曜日 00:52:24)

縦組と横組で違うものには、オンビキもありますね。
なんだか、どこかの続きになりそう。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 19日 月曜日 00:21:45)

消えてしまったものが回復できずに申し訳ありません。

かつて、パソコンではなくワープロ専用機を使っていて、データを他機種でよむなどということを考えていない頃に、「くの字点」に「く」の倍角文字を使っていたことがありました。ディスプレイでは横書きしか出来ずにまるでクレッシェンドのように見えているのですが、縦書きで印刷すると「くの字点」のようになるというものでした。(後年パソコン用にデータ変換した際、普通の「く」と区別が付かなくなって面倒でした。「くの字点」と「く」が区別が付かないことはOCR認識でもあることです)

さて、今なぜか見当たらないのですが、ここ数日の学会前後に目にした資料で、横書きの際の「くの字点」に、「へ」の横倍角を使っていると思しきものをみつけました。
なお、国語学会の発表予稿集では、/\と\/の両方がみられました。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 23日 月曜日 08:00:19)

佐竹秀雄編『言語生活の目』(筑摩書房)p.379に

▼次の如き小さな看板が電柱の上部に貼ってあった。
 マ|パ
長音符は下のように図の横に引いた方がわかりやすいのではないか。
 マーパ
(東京都 藁谷降純さん)
とあります。「マ|パ」「マーパ」の部分だけ横書きになっています。前者は右横書きに縦の長音符が入った例であり、「横に引いた方がわかりやすいのではないか」というのは現代的な感覚ですね。

『言語生活の目』の索引が不十分というのは前に触れたと思いますが、「パーマ」も引けません。また、ページ数に誤植が多く往生します。ページ数が正確でなくては索引の用をなしません。

なお2003.04.27ごろでしたか、skidさんがご報告になり、クラッシュで飛んでしまった情報は:

岡倉由三郎『新英和大辞典』(研究社、昭和2年3月5日)の巻末広告に「英語発音練習カード」というのがあり、それが左横書きにもかかわらず「英語発音練習カ|ド」と長音符号が縦になっていたということであったと思います。


佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 10:49:21)

今日再放送した『プロジェクトX』で、木村秀政の終戦直後の日記の画像が出ました。横書きの日記ですが、くの字点は次のように縦書き風。

  いよ失職か

木村秀政を検索すると歴史みらいパーク木村秀政ホールに。そこで使われている「〜」が「И」型。エクセル文字?

第124回 9月16日放送「運命の滑走」〜日本初 人力飛行機に挑む〜 


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 18:13:19)

〜ですが、ソースを見ると、

&〜
ですね。私、このあたり、ついて行けなくなりつつあります。
meta content="MSHTML 5.50.4923.2500" name="GENERATOR"
ということですが。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 18:21:57)

このページでも表示されるのですね。
〜の半角。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 18:46:25)

ちょっと勉強してみます。

数値文字参照が符号化方式に依存しないことに注意してください。Shift_JIS でも ISO-2022-JP でも BIG5 でも ISO-8859-7 でも UTF-8 でも、© は常に Copyright 記号を示します。もっとも、お馬鹿なブラウザは HTML4.0 のレパートリではなく、他の符号化方式に当てはめて変な文字を表示することがあります。(下記ページ)

知りませんでした。

301cというのは、なんでしょう。

HTMLで使える文字実体参照


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 21日 日曜日 19:11:35)

Unicodeということで、いいようですね。
   
、 、
。 。
〃 〃
〄 〄
々 々
〆 〆
〇 〇
〈 〈
〉 〉
《 《
》 》
「 「
」 」
『 『
』 』

【 【
】 】
〒 〒
〓 〓
〔 〔
〕 〕
〖 〖
〗 〗
〘 〘
〙 〙
〚 〚
〛 〛
〜 〜
〝 〝
〞 〞
〟 〟

〠 〠
〡 〡
〢 〢
〣 〣
〤 〤
〥 〥
〦 〦
〧 〧
〨 〨
〩 〩
〪 〪
〫 〫
〬 〬
〭 〭
〮 〮
〯 〯

ゐ ゐ
ゑ ゑ
を を
ん ん
ゔ ゔ
ゕ ゕ
ゖ ゖ
゗ ゗
゘ ゘
゙ ゙
゚ ゚
゛ ゛
゜ ゜
ゝ ゝ
ゞ ゞ
ゟ ゟ


skid さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 22日 月曜日 01:04:00)

高木弥三郎著『最新速記術講義』(京文社書店、昭和10年)は横組の活版印刷なのですが、くの字点は縦に組まれていて、下の行間へ飛び出しています。
行間がちょうど文字の大きさと同じため、下だけに出しているようなのですが、くの字点の後に読点のコンマ(,)がある場合は上下へ出して、くの字点の下に合わせた位置にコンマを組んでいます。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 18日 土曜日 00:14:29)

誤植の可能性が低くはっきり左横書きに「|」(縦の長音符号)が使われている例を見つけました。

といっても、タイプ打ちの図書カードです。

早稲田大学図書館の昭和30年代に作成されたと思われる図書カードに見られます。たとえば、

へ22
8130
150〜153
名探偵登場 I至IV
早川書房編集部訳編
昭和三一年二至六月
1-4 洋小(ハヤカワミステリブツクス)

の中のカードは、すべて横書きですが、著者名・作品名に見られる長音符号がすべて縦向きです。いくつかを挙げると:
150 失くなつたネツクレ|ス(英・J.フツトレル撰・砧一郎訳)
152 総理大臣の失踪(英・A.クリステイ|撰・高橋豊訳)
153 ボ|ダ|・ライン事件(英・M.アリンガム撰・宇野利泰訳)
この「撰」というのもよくわかりません。「|」は縦向きの長音符号のつもりです。


NISHIO さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 26日 水曜日 01:44:08)

別スレッド「日本語の右表記はいつから…」に書いた、屋名池 誠『横書き登場』(岩波新書)に、横書き文で縦書き用記号を使っている例が図版入りで出ていました。

ひとつは、夏目漱石の自筆資料のうち『それから』の創作メモ。明治42年。
  「ウェ|バ|」、「へクタ|」、「ワ゛ルキ|ル」(原文は左横書き)

もうひとつは、昭和21年10月2日付『岐阜タイムス』(現岐阜新聞)の第1面写真のリード。
  「グンリ|ゲ・ンマルヘらか左」「ツツニ|デ・ル|カらか左列後ろ」など。(原文は右横書き)

日本語の右表記はいつからなのですか? 


posted by 岡島昭浩 at 12:47| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本語の右表記はいつからなのですか?(free1974)


はじめまして、櫻井と申します。映画の美術の仕事をしている者です。只今昭和20年から25年までを舞台とした作品を準備しています。

ポスターなどの作りに関して、いつから右表記にしてよいものか解らないでいます。また、現在のような表記になったゆえんも教えていただければとおもいます。宜しくお願いいたします。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 22日 火曜日 08:01:33)

「右表記」とおっしゃっているのは、〈左からの右への横書き〉のことでしょうか。

これは、ある時を境にパッと右横がきから左横がきに変わったというものではないのです。ご関心はポスターではどうか、ということのようですが、これはよく存じません。映画ポスターを集めたような本を御覧になるのが早いのではないでしょうか。


横書き一般については、岩波書店のPR誌『図書』に、一昨年から昨年に掛けて連載されていた、屋名池誠氏の「横書きの歴史」がとても詳しいです(岩波新書に入る予定と聞きました)。


国語協会横書問題研究委員会『横書きするなら左から』という、昭和14.5.26に出た本がありまして、この本の中に、町に左横がきと右横がきが混在していることが写真入りで報告されています。


また、佐藤貴裕さんの「気になることば」もご参照下さい。

気になることば第2集



skid さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 22日 火曜日 09:27:14)

戦前の映画ポスターでも左横書きのものがありますね。

それより、当時のタイトルはまだ縦書きのほうが多かったと思います。


朝日新聞を見ますと、昭和22年1月1日から横書きの見出しを左からにしたようです。

縦組の本文に横組の見出しをつける場合、縦組の行が右から左へ行くため、見出しも右からになったままでした。

本文自体の左横書きは、英語や数学の本が明治の半ば頃から始めています。

それまでは縦書き主体でした。



skid さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 22日 火曜日 22:59:36)

朝、慌てて書いたせいか、分かりにくい文章になりました。

つまり、縦組本文に横組みの見出しを組み合わせる場合は、右からの横書きの習慣がすぐには改まりにくかったということです。

縦組1字詰めの感覚だったのですね。



佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 23日 水曜日 21:10:34)

>縦組1字詰めの感覚だったのですね。


原則ないし基本的にはそうなのですが、周縁的な例を見てみると、一筋縄では

いきません。もちろん、少数の例外に過ぎない、と言ってしまってもよいので

すが、そう一刀両断するには惜しい。

 一行一字縦書き(?)の長音記号

   http://www.gifu-u.ac.jp/~satopy/kini010.htm#5

 縦書きと横書きのはざまで

   http://www.gifu-u.ac.jp/~satopy/kini080.htm#5

面白いのは、縦書きを左から右へと書きつらねたものもあること。

  徹底? 妥協?

   http://www.gifu-u.ac.jp/~satopy/kini083.htm#5

これと同趣の例は、岡島さんが、もっと古い別の例の画像を早くから掲げて

らっしゃいました。



skid さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 24日 木曜日 01:13:21)

今、ちょっと寝ぼけているので、理解不足かもしれません。

右からの横書きで音引(長音符号)も縦のままにしているものもありますよね。

漢字の「一」のようになっているというのは、筆の入り具合を表しているのでしょうか。

活版の場合は、縦組用の音引を右へ寝かせれば右からの横書きに合った書き方になります。

左からの横書きに合わせた音引の活字は戦後になっても用意していない印刷所があり、縦組用を左へ寝かせて使用していたので、筆の入りが下向きになっていました。


また、漢数字で「十・百・千」を使った表記の場合、縦書きでも空いている位に「○」を入れることがありました。

横になった音引も「○」の使用も、縦組と右からの横組と、どちらが先だったのでしょうか。



佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 24日 木曜日 19:03:37)

>右からの横書きで音引(長音符号)も縦のままにしているものもありますよね。


 はい。始めは「縦組1字詰め」ないし「一行一字の縦書き」でしょうからあるでしょう。ただ、ご指摘のような場合は、横書きというより、縦書き(の一種・変形)とみたいですね(もちろん、横書きか縦書きか弁別できる例はかなり少ないことになりますが)。


>漢字の「一」のようになっているというのは、筆の入り具合を表しているのでしょうか。


 右から左に引いたように見える、というのが趣旨です。これだと一行一字の縦書きではなく、右からの横書きと認めてよい(認めざるを得ない)ので。なお、地図中の地名表示なので手書きのようです。手書きでも活字に似せる訳ですが、活字を回転するような二次的な対処ではなく、筆記者の意図がより反映されやすいように思います。そこが興味深いと思っています。


>活版の場合は、縦組用の音引を右へ寝かせれば右からの横書きに合った書き方になります。左からの横書きに合わせた音引の活字は戦後になっても用意していない印刷所があり、縦組用を左へ寝かせて使用していたので、筆の入りが下向きになっていました。


 御教示、ありがとうございます。特に後者、是非、見てみたいです。


>また、漢数字で「十・百・千」を使った表記の場合、縦書きでも空いている位に「○」を入れることがありました。横になった音引も「○」の使用も、縦組と右からの横組と、どちらが先だったのでしょうか。


 「どちらが先」という問われ方ですと、準備もないことなので、答えにくいですね。むしろ、漢数字の縦書きなのに空いている位を「〇」で埋めるという発想が何に由来するのかを考えたいと思います。また、長音記号が横向きになるのが、一般的な縦書きのなかで起こるとは少々考えにくいように思います。



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 24日 木曜日 22:03:43)

縦組用の長音符号を左へ寝かせて使用した結果、筆の入りが下向きになっている出版物はけっこう最近ものにもみられますね。たとえば1960年初版の三上章『象は鼻が長い』(くろしお出版)の巻末の横書き部分がそうです。手もとのものは1987年第17版ですが、「インドヨーロッパ語」「ハンガリー語」などの長音符号がそのようになっています。


くろしお出版は近年、出版物を洗練された装丁に直しているので、今売られている本は電算写植になっているのではないでしょうか。



skid さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 24日 木曜日 22:50:15)

御返事ありがとうございます。

やはり寝ぼけて変な書き方をしていました。

オンビキが右からの横書きで縦になっていることはあるものの、それほど多く目にすることがないものですから、もしかしたら横に寝かせることより後に行われた可能性もあるかもしれないと思ったのです。


右からの横書きでオンビキが横になっていれば、縦1字詰めではなく横書きと認めてよい、と言われて目を開かれた思いがいたしました。

たとえば、図版や写真のキャプションでも昔は右からのものがありましたが、長い場合は2行以上になっています。

これを縦1字詰めと捉えると、2段組、3段組といったことになりますね。


ただ、地図の手書き文字を疑えば、活字で多く見かける横向きのオンビキを真似ただけではないのでしょうか。

括弧や句読点なども右からの横書きでは、読む方向へ沿うように付けられ、縦組と同じ向きにしたものはないようです。

このへんは、わたしも調査不足なので最初からそうなのかどうか、はっきりしません。


左からの横書きで縦用のオンビキを使った例は、昭和三十年代頃なら大蔵省印刷局によるものがそうでした。

国立国語研究所の刊行書などで、わりあい簡単に見つかると思います。



佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 24日 木曜日 22:59:52)

Yeemarさん、ご教示感謝します。明日にでも仕事場で確認してみます。

自宅内に何かないかと探してみたら、色川大吉『明治の文化』(日本歴史叢書、岩波書店。「理想社印刷」とあります。1970第1刷です)の索引もそのようでした。本文は縦書きですが、索引は横書きで「ガンジー」「ゴーガン」「ケーベル」などなど、長音記号は縦組み活字の左倒しでした。

岩波のものでもこうだとすると、私も、かつては実見していたのを、当時の組み方の常識と見て、意識に上すことがなかったもののようです。お手数をおかけしました。



佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 24日 木曜日 23:15:29)

 skidさん、ご教示ありがとうございました。蔵書をひっくり返していて行き違いました。ごめんなさい。で、1970年初版の例も出てきてしまってびっくりしているところです。いつまで下れるものか、これはこれで興味深いですね。


 ところで私が書き込んだばっかりに、このスレッドの方向が脱線してしまったような気がします。申し訳ありません。お詫びにリンクしておきます。



戦中紙芝居の横書き



NISHIO さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 25日 火曜日 03:46:42)

『横書き登場 ―日本語表記の近代―』(屋名池 誠著、岩波新書、2003年11月20日)

という新刊書を購入しました。

まだパラパラめくった程度ですが、今までにないテーマで結構面白そうです。

横書き登場 ―日本語表記の近代―


posted by 岡島昭浩 at 01:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年04月11日

ラムズフェルドのアクセント(道浦俊彦)


アメリカのラムズフェルド国防長官の「ラムズフェルド」のアクセントは、頭高でしょうか?それとも中高でしょうか?

英語なら2音節の頭高で「ラムズフェルド(HLL・LLLL)」だと思いますが、外来語として日本語の中に入ってしまうと、「ラムズフェルド(L・H・H・H・L・L)と中高で6音節になるのではないでしょうか?

で、ブッシュとかパウエルとか、日本語(外来語)にしても4音節以内の短い名前だと、中高にならずに、英語と同じ頭高アクセントで発音しますよね。その境目は5音節にあるのか、6音節にあるのか。そのあたりについても伺いたいと思います。



skid さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 11日 金曜日 15:49:04)

私も気になっています。

なかには「ラムズフェルド(HLL・HLLL)」と、姓・名のような言い方をしている人がいて、奇妙な感じをいだきました。

日本語としては中高が自然に思います。

マンスフィールド元駐日大使などは、どうなのでしょう。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 11日 金曜日 23:36:04)

外来語のアクセント規則は、シラブルとモーラが両方絡んでくるようです。

パウエルは4モーラ3シラブル、ブッシュは3モーラ2シラブル、マンスフィールドは7モーラ5シラブルですね。


で、その規則ですが、人によってやや書き方が異なります。

  ○後から数えて3モーラ目を含むシラブルに下がり目が来る

という書き方があります。ブッシュはそのままブの後で下がる、と。ラムズフェルドもフェで下がる、と。パウエルは後から3モーラ目のウを含むシラブル「パウ」に下がり目がある、と。同じくマンスフィールドも後から3モーラ目の「ー」を含む「フィー」に下がり目がある、と。


おおむね、この法則で行けるのですが、最終シラブルが長音の場合、うまくいかないようです。たとえば、フィールダー・チャンドラーというような語形のものがフィール'ダー・チャンド'ラーでなく、フィ'ールダー・チャ'ンドラーになるのを法則化しようとするともう少し加えねばなりません。


posted by 岡島昭浩 at 11:01| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴァーサスの表記(道浦俊彦)


「巨人対阪神」の「対」にあたる表記に「VS」というのがあります。「ヴァーサス」「バーサス」と読みます。英語の略語でしょう。昔はこれを「巨人VS阪神」(きょんじん・ブイエス・はんしん)と呼んでいた気がしますが、最近は、前述の「ヴァーサス(バーサス)」と読むことが増えていると思います。

問題はアルファベットで表記する際、

(1)大文字か小文字か?

(2)Sの後に、省略の意味を表わす「.」(ピリオド)を付けるかどうか?

です。いかがでしょうか?

私は、英語なら小文字でピリオドが必要ですが、日本語(?)なら大文字でピリオドはいらないように思っています。昔は日本語(?)表記だったけど、最近は「英語表記」が増えているように思うのですが、どうでしょうか?



畠中敏彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 05月 13日 火曜日 10:03:16)

>英語なら小文字でピリオドが必要ですが、日本語(?)なら大文字でピリオドはいらないように思っています。


正当性はともかく、私もそういう傾向にあります。

たとえば、追伸の「p.s.」と「PS」のように。 もっとも辞書では「P.S.」となっていますが。


posted by 岡島昭浩 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年04月08日

都議・市議・県議/府会・市会・県会


 以前から、なんとなく思っていて、今回の統一地方選挙でも、やはりそんな気がしておりますが、関西では「県会・府会・市会」の使用が、「県議・府議・市議」を押さえているようだ、ということです。つまり、市議会を「市会」と呼ぶだけでなく、市議会議員をも「市会」と呼んでいるような状況です。

「府会に立候補した」という表現だけでは、「府議会に(出るべく)立候補した」と解釈できないこともないのですが、「府議に立候補」ということのように思えます。


「県会候補」でググってみると、関西と中部と神奈川県、という感じでヒットするようです。詳しくは見ておりませんが。


「県会撰」で引くと「県議選」に比べてググッと低いヒット数ですが、地域性までは感じられません。


どんなものでしょうか。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 08日 火曜日 23:58:57)

 たしか月刊言語の冒頭あたりのエッセイかなにかではなかったかと思うのですが、都議会議員である女性が、「トギの○○です」と名乗っても理解してもらえないのは自分が女性であるから都議会議員という職業と即座に結びつかないのであろう、と書いたものがありました。


女性だろうが男性だろうが「トギ」ではわからんだろうと思いました。ある程度の文脈の支えなしには、「トギ」という音と都議会議員が結びつかないだろうと。


フギもわかりにくそうですね。


posted by 岡島昭浩 at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年04月05日

のむヨーグルト(Yeemar)


「のむヨーグルト」という言い方は、
「あー、のどがかわいた」

 華子は冷蔵庫からのむヨーグルトをだし、コップになみなみとつぐ。
(江国香織『落下する夕方』1996.11発表、角川文庫 1999.06.25 p.114)
というふうに、文学作品にも出てきます。これは、私のホームページの「のむヨーグルト」にも書きました。


さてこの「のむヨーグルト」というのを初めて使った会社はどこか、をインターネットで調べてみますと、「日本ルナ株式会社」が「昭和55年 日本で初めて「のむヨーグルト」と銘打ったドリンクヨーグルトを発売し大ヒットする。」と記しています(会社概要)。


この事実は、「有限会社中垣技術士事務所」のホームページにも記され、「(代表者は)その後、関西ルナ株式会社(現、日本ルナ株式会社)に移り、ビフィズス菌入り「のむヨーグルト」を開発し、日本で最初にドリンクヨーグルトを発売。」と書かれています(会社概要)。


これでウラがとれたということになるのでしょうか?


ヤクルト「ジョア」の発売はこれより早い1970年で、「のむヨーグルト」の位置づけのようですが、これはドリンクヨーグルトの先行商品ではないのでしょうか。ただし「のむヨーグルト」の名は使われていなかったようです(研究の歴史)。


もう少し調べる必要を感じます。



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 10日 木曜日 13:42:51)

「明治ブルガリアのむヨーグルト」は国立科学博物館のホームページには

1985年にファミリーユースの「明治ブルガリアのむヨーグルト」として発売され、ドリンクヨーグルトの市場拡大に貢献した。
とあります。1985年ということですから、たしかに日本ルナより遅いことになります。
国立科学博物館−産業技術の歴史



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 10日 木曜日 23:33:30)

ジョアは、「味わうジョア」でしたね。「幸せ味わうジョア」ですか。清純派の小柳ルミ子が宣伝してました。


懐古ネタで失礼しました。


posted by 岡島昭浩 at 03:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年04月03日

国語に関する世論調査(Yeemar)

文化庁「国語に関する世論調査」の結果については、文化庁のホームページ「国語に関して」で平成7年度のものを見ることができます。

これ以外に、内閣広報室のページで、なぜか昭和52年度平成4年度のもののみを見ることができます。

入力途中というわけでもなさそうです。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 03日 木曜日 18:14:30)

正誤 ×平成7年度のものを ○平成7年度以降のものを


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 04日 金曜日 13:18:28)

この調査は「毎年」は行われていないからではないでしょうか?たまにしか行われないということで。(入力とチュウではないのに「歯抜け」になっている理由として考えられることは。)で、平成7年以降は毎年やるようになったとか?


後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 05日 土曜日 15:26:37)

国立国会図書館の蔵書検索「国語に関する世論調査」の結果は以下の通りです。ウェブの状況はこれを反映しているのでしょう。

1. 国語に関する世論調査. 平成4年6月調査. -- 総理府内閣総理大臣官房広報室, 〔1992〕. -- (世論調査報告書)
2. 国語に関する世論調査. 平成7年4月調査. -- 文化庁文化部国語課〔1995〕. -- (世論調査報告書)
3. 国語に関する世論調査. 平成9年1月調査. -- 文化庁文化部国語課,1997.3. -- (世論調査報告書)
4. 国語に関する世論調査. 平成9年1月調査 / 文化庁. -- 大蔵省印刷局,1997.5. -- (世論調査報告書)
5. 国語に関する世論調査. 平成9年12月調査. -- 文化庁文化部国語課, 1998.3. -- (世論調査報告書)
6. 国語に関する世論調査. 平成9年12月調査 / 文化庁. -- 大蔵省印刷局,1998.4. -- (世論調査報告書)
7. 国語に関する世論調査. 平成10年度 / 文化庁. -- 大蔵省印刷局, 1999.4. -- (世論調査報告書)
8. 国語に関する世論調査. 平成11年度 / 文化庁. -- 大蔵省印刷局, 2000.5. -- (世論調査報告書)
9. 国語に関する世論調査. 平成11年1月調査. -- 文化庁文化部国語課, 1999.3. -- (世論調査報告書)
10. 国語に関する世論調査. 平成12年1月調査. -- 文化庁文化部国語,2000.3. -- (世論調査報告書)
11. 国語に関する世論調査. 平成12年度 / 文化庁. -- 財務省印刷局,2001.6. -- (世論調査報告書)
12. 国語に関する世論調査. 平成13年度 / 文化庁文化部国語課. -- 財務省印刷局, 2002.6. -- (世論調査報告書)
13. 国語に関する世論調査. 平成13年1月調査. -- 文化庁文化部国語課,2001.3. -- (世論調査報告書)
14. 国語に関する世論調査. 平成14年1月調査. -- 文化庁文化部国語課, 2002.3. -- (世論調査報告書)
15. 国語に関する世論調査. -- 内閣総理大臣官房広報室, 1977.12. -- (世論調査報告書 ; 昭和52年8月調査)


後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 05日 土曜日 15:54:31)

ついでですが、上のYeemarさんの発言の「国語に関して」からのリンクは普通は
たどることができないと思います。下のページからも直接はたどることができず、
一旦文化庁のトップページを経なければ閲覧できないでしょう。
このような文化庁のサイトの構成は、官庁の公式サイトにあるまじき愚行であると
考えます。

日本語教育ネットワークシステム 調査・統計情報


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 20日 金曜日 21:57:15)

「国語に関する世論調査」は、かつてはとびとびに行われ、近年は毎年行われているようですね。「朝日新聞」2003.06.20には「95年度から毎年実施している。」とありますが、国立国会図書館の蔵書では平成8(1996)年の報告書はどうなっているのでしょう。

ともあれ、今回(2003.06.19公表)の報告で「3人に1人がまったく読書しない」という結果が出たのは衝撃的でした。四国では59.8%の人がまったく本を読まないのだそうですから、これはそうとうなものです。危機的状況ではないでしょうか。

斎藤孝氏が朝日新聞にコメントを寄せています。「(1)全く本を読まない層が4割弱いるというのは、日本が知的基盤の弱い国だということだ。(2)先進国の中でも低い方だ。(3)この現実を見る限り、国語教育は失敗したと言えるのではないか。(4)地域別に見ると、地方で本が読まれていないのは、書店の問題だ。あったとしても、漫画や写真集しか置いていない店が多い。書店はつぶしてはならない業界だ。国は、書店を文化として支援するべきだ。」(数字は私が振りました)

このうち(1)(3)は賛成です。(2)は本当なのでしょうか?海外の先進国の識字率は必ずしも高くないと思いますが、本を読む割合は3分の2以上になっているのでしょうか。知りたく思います。

(4)も賛成です。たしかに地方では本が手に入らない。人口が少ないから本が売れないのでしょう。鶏が先か卵が先かという問題でもあります。斎藤氏の論旨は本屋への助成の話に行っていますが、「国語教育の失敗」なのですから、読書教育の充実も急務でしょう。「読み聞かせ」「朝読書」などの試みのほか、どのような案が用意されているのでしょうか。「読書感想文」は廃止したらいいではないかと思います。

「国語に関する世論調査」は、毎年調査項目を入れ替えたりして、内容が一定していないようですが、場当たり的という感想をもちます。せっかく毎年調査するならば、国民の読書量など重要ないくつかの事項については継続して調査すべきであると思います。今回の調査項目「役不足」「確信犯」の意味の正答率なども、今回だけでやめるのはもったいないです。毎年同じ調査項目だと、マスコミに取り上げられなくて困るという事情があるか?


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 21日 土曜日 10:59:20)

「確信犯」に付いてですが、新聞で見た、「正解」と「不正解」の設問が、はっきりいって「わかりにくい」ことが誤答が増えた原因ではないでしょうか?

朝日新聞にのった「確信犯」の×の説明文は、
「悪いことであると分っていながらなされる行為・犯罪またはその行為を行う人」(これを選んだ人57,6%)
◎の説明文は、
「政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる行為・犯罪またはその行為を行う人」(これを選んだ人16,4%)

◎の方にも「犯罪」とありますから、「正しいと信じて」は主観的に正しい、「犯罪」は客観的に「悪い」ということですね。

×の方も「悪いことは分っていてもやってしまう」ですが、その背景には何らかの「信念・確信」があるのではないでしょうか?つまり、×は◎の範疇に含まれるのではないでしょうか。
そう考えると文化庁国語課の設問がわかりにくいような気がします。

「『おれは正しいんだ、悪くない』と思って罪を犯すのが従来の「確信犯」。「 法的には悪いかもしれないけど、おれは悪くないんだ、 そういうふうに追いつめた社会(会社、他人など)が悪いんだ」というふうに他者に責任転嫁して罪を犯すのが新しい「確信犯」?

「悪いと分ってるけど、それによる罰の重さをも考慮して、それに納得して罪を犯す場合」は「確信犯」ですか?

なんかわからなくなってきた・・・。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 06月 29日 日曜日 09:25:56)

下のページによれば、この調査の読書に関することは、朝日新聞でしか報道していないとのことです。
そして、60代の人がいちばん本を読んでいないと。

"国語世論調査"報道に隠されているかもしれない各紙がはっきり書かない真実


skid さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 03日 木曜日 03:29:04)

ご紹介のページはちょっと論理が飛躍していますよね。
しかし、60歳以上の人が本を読んでいない傾向にあるのは、ちょっと不思議に思いました。
定年後、自由な時間が増えると思ったからですが、本を読む必要に迫られなくなったとか、視力の問題とか、新聞や雑誌などを中心にして活字メディアに親しんでいることも考えられます。
また、今はあまり本を読んでいなくても若い頃はたくさん読んでいたかもしれません。
本にも硬軟いろいろなものがあるのに、調査では単行本なら何でもいいということなのでしょうか。
それはともかく、60歳以上の人々が言葉の乱れを強く感じるのは、少しも不思議なことではないと思います。
本を読まなくてもテレビやラジオで日常的に言葉に接する機会はいくらでもありますし、人生経験が長いほど昔との違いに気付くはずですから。
言葉の乱れというとき、主に会話での言葉を指していて、本を読むかどうかと単純に結び付けることはできないと思いました。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 07月 04日 金曜日 16:57:23)

日本人が本を読まなくなった、ということに関連します。

2000.12に出た佐藤学『「学び」から逃走する子どもたち』(岩波ブックレット524)は、生徒たちの間での最大の問題は「勉強しなくなった」ということであることを指摘したものです。いじめも不登校も学級崩壊も少年犯罪もたしかに深刻ではある。しかしそれらは全体から見ればごく一部の問題である。それに対して、「勉強しなくなった」(知的関心の衰退)は全体の問題であると。

家庭学習時間などとあわせて、読書冊数の減少が、その指標に挙げられています。

子どもの読書については、毎日新聞社が一九五五年から毎年、小学校四年生以上〜高校三年以下の児童・生徒一万人余りを対象として行ってきた「学校読書調査」があります。近年の結果は年々、ワースト記録を塗り替えています。調査が開始された一九五五年当時は中学生の読書冊数は月平均三冊以上であったのに対して、今日では中学生の六〇%以上が月に一冊も本を読んでいません。高校三年生になると七〇%以上が月に一冊も本を読んでいません。小学生の読書冊数はそれほど変化がないのですが、中学生、高校生の「活字離れ」は目を覆うものがあります。学校の使命が本の世界(リテラシーの文化)へと子どもを誘うことにあるとすれば、今日の学校教育はその使命を解体させていると言っても過言ではないでしょう。
今回の「国語に関する世論調査」は、「学びからの逃走」が全世代的なものであることを明らかにしたのではないでしょうか。解決への取り組みはどうなっているのでしょうか。佐藤学氏の文章も、解決への道筋を明らかに示すところまでは行っていません。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 17日 水曜日 10:20:26)

新聞等にも載るニュースと思われますが、上記と話題が近いため、参考に書きとめておきます。高校生の読書する割合は世界で最低とのこと。

●2003.09.17 NHKニュース(8:30のニュースで聞いた結果をNHKのサイトで確認したもの)

・若者の読者についての国際調査。日本の高校1年生は、各国に比べて漫画や雑誌などを読む割合が高い一方、難しい内容の本を読む割合が極めて低い。
・OECDが平成12年に世界32か国の15歳、約26万人を調査。日本では、5,200人余りの高校1年生が対象。新聞や小説など難しい本をたくさん読む割合は日本3%で、平均22%を19ポイント下回り、OECD加盟27か国中最低。一方、漫画や雑誌など簡単な本をたくさん読む割合は日本74%で、平均28%を46ポイント上回る。「趣味で読書することはない」と答えた割合は日本55%で、平均32%を23ポイント上回り、27か国中最も高い。
・文部科学省は「学校の図書室の蔵書数を増やすなど本に親しめる環境づくりを進めていきたい」としている。

図書室の蔵書数を増やすのもひとつの手段でしょうが、どうもずれているような気がする。根治療法ではないように思います。国としてそれらしい対策はとっていないというのが実状ではないでしょうか。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 17日 水曜日 20:15:54)

きょうの「朝日新聞」夕刊によれば、「経済協力開発機構(OECD)は16日、加盟30カ国の教育の現状を調査した03年版「図表で見る教育」を発表した。」とありますので、資料はこの報告書のようです。

しかし、この記事には、各国で若手の教員が不足、日本では女性教員が少ないということは述べられていますが、読書については触れられていません。

「国語に関する世論調査」もそうですが、報告書の切り取り方は、報道媒体によってまちまちですね。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 18日 木曜日 12:10:20)

 産経新聞では、上記NHKのような内容の記事がありました。

 しかし、どうも分かりにくい。一見、雑誌・漫画・堅い書物を読む割合を別々に調べたように見えたのですが、よく読むと、そうではないらしい。

第1群第2群第3群第4群
日本14.58.174.43.0
全体22.427.128.322.2

第1群 読むのは雑誌程度
第2群 第1群より読む種類も頻度もやや多い
第3群 文章が短く難易度の低い漫画や雑誌、新聞を頻繁に読む
第4群 文章が長く難易度が高くても頻繁に読む

ということのようです。趣味の読書、文部省の對策についてはかいてありません。

なお、産経新聞では、月曜日から「競う ライバル物語」で、「よりよい国語を求めて 歴史的仮名遣いVs現代仮名遣い」という連載が行われています。


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 19日 金曜日 08:14:50)

産経新聞の、上記の記事見ましたが、データの全体像が分らなかったので、OECD東京センターに「第4群で、日本が低いのは分ったが、高い国はどこか?」と質問をメールで送ったところ、「第1位はニュージーランド(男30,4%、女48,4%)、第2位はオーストラリア(男28,2%、女43,9%)、第3位は英国(男27,6%、女42,3%)」で、最下位の日本は男女別には、男1,9%、女4,0%だったという解答のメールをいただきました。

なお「競うライバル物語」、前半はよくまとめてあると。後半はよく取材してるなと。「産経」ですから、どちらかというと「歴史的仮名遣い」擁護の立場で構成されているように思います。


岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 19日 金曜日 09:00:49)

 下のページが出典であるようですね。
* Table A8.1. Profiles of 15-year-old readers (2000)
というのが、男女別の数字を示しているものですが、女4.0%というのは極端に低い数字のようです。下から2位はベルギーの17.6%。ちなみに男の下から2位はフィンランドの5.6%です。

Education at a Glance 2003


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 20日 土曜日 08:13:45)

どうも、毎日新聞の「学校読書調査」を裏づけるような結果で、憂国の情を抱く以前に、なぜこうなるのか知りたいと強く思います。

ひとつの楽観的な仮説として――、日本の生徒は、質の高い、深みのある漫画を読んでいる。OECDの他の国には、日本ほど質の高い漫画やアニメが存在しないのである。彼らは、日本の生徒がビジュアルに理解する物事を、(絵が描けないので仕方なく)活字によって理解しているのである。彼らのいわゆる「文章が長く難易度が高」い本とは、日本ならさしずめ漫画の形で供給されるところのものである。シェークスピアを、劇場で見るか、書物で読むかの違いのようなものである。韓国にも、日本に及ばないまでも漫画文化がある。そこで韓国の数字も、日本のそれほどではないが、やや低めになっている。読む活字の量のみで、知識の水準を測るべきではない――。

このように無理矢理考えても、慰めになりませんね。それ自体インクのしみでしかない文字を解釈して意味を読みとる読書の作業と、その過程を省略することができる漫画読みの作業とでは、脳みそを使う量にずいぶん差がありそうです。

海外の生徒は、モーパッサンなり、トルストイなり、ヘミングウェイなり、過去の作品をよく読んでいるのかどうかも知りたいところです。もし彼らがそれらの遺産をよく読んでおり、対して、われわれが漱石なり鴎外なり芥川なりをあまり読まないとすれば、やはり相当にヤバそうです。世代から世代への価値の伝達という仕事も、読書によって最も確実に行われるはずのものと思います。

などと、当たり前のようなことをずらずら書いておりますうちに、ふと、以前「なぜ、古文を……」というスレッドを投稿したことを思い出しました。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 23日 火曜日 22:03:37)

文部科学大臣になった河村健夫氏の「横顔」を「朝日新聞」2003.09.23 p.4で読んでいたら、

01年成立の「子どもの読書活動推進法」の議員立法では中心になった。
とありました。さてはそういう法律ができていたのでしたか。

法律(文部科学省のページ)を見てみると、国・地方公共団体・事業者・保護者は子どもの読書活動増進に責務があることを述べた上で、政府は「子ども読書活動推進基本計画」を策定しなければならないとあります。地方公共団体はそれにもとづき計画を策定することになります。また4月23日を「子ども読書の日」とするとしています。

子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画案(概要)」(平成14年6月)を見ると、3つの基本的方針の第1に「図書資料の整備等、諸条件の整備・充実に努める」がありますから、上掲のNHKニュースでの文部科学省の談話はその線にそったものかもしれません。

この計画に沿って、各地方公共団体が具体的な実行計画を策定しています。多くはPDFでインターネット上で提供されているようです。私は「香川県」の26ページに及ぶ案をダウンロードしたところです。


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 29日 月曜日 20:47:03)

4月23日は、本屋さん業界が「本をプレゼントする日」としてす7すめている「サンジョルディの日」ではないですか?業界のプッシュがあったのかな??


佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 30日 火曜日 19:42:32)

 業界のプッシュがあったとしても、乗ってよい、いや乗るべきものと思います。
 読書欲をよみがえらせるのは至難の技で、おそらく、この計画案等によっても、はかばかしい展開は望めないかもしれません。が、仮に出版業界も歩調を合わせるとしたら、それはそれでよいタイミングです。業界にわざわざ声をかけなくても乗ってきてくれるのだから。出来ることは何でもして行かなければならない状況であることを考えると、渡りに舟とも言えます。
 今のような状況にしたのは我々大人なのでしょうから、少しでも効果がありそうなことなら協力したいと思っています。


佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 30日 火曜日 20:14:50)

 思い出しました。20年(ちょっと)前くらい、NHKで『若いひろば』とかいう番組を日曜にやっていて、その中に「マイ・ブック」というコーナーがありました。毎回、著名人をゲストに、斉藤とも子(のちには原田美枝子?)が聞き役で対談するものでした。当時、売れっ子アイドルの斉藤とも子でしたが、紹介される本を読んでくるのが宿題。とうとう読めなくて、怒り出したゲストもいましたね。毎週このコーナーが待ち遠しかったことでした。
 こういう番組、ないしコーナー、今では作れないだろうかなんて思います。見た人全員でなくていい、10いや5%だっていい。紹介された本を読んでくれることを期待して。
 NHKの『トップランナー』あたりで、ゲストが一冊御紹介、とかでもいい。渡辺某さんのように家をたずねるのもいいけれど、本を「たずねる」みたいなのもよいかな、とか。変に格調とかを重視した演出でなく、自然体な番組で。

 下記リンク、URLの 〜/1090001004n.html のnの直前の数字を変えると同番組の別の日にちのページが表示される場合があります。

若い広場 笑っていいのか今の僕らを 劇団 夢の遊眠社 


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 09月 30日 火曜日 23:41:20)

「若い広場」のいくつかの回(今のところ3回分ほど)は、埼玉県のNHKアーカイブスで視聴できますね。「マイブック」ももちろん入っています。東京では、愛宕山の放送博物館でも視聴できます。他の県だと、どこが可能でしょう。

現在、NHK-BS2では「週刊ブックレビュー」という番組があります(若者向けではありませんが)。民放ではテレビ朝日「ほんパラ!関口堂書店」というのがブックレビュー番組ですね。これは、私は見たことがありません。もう放送終了したとか。中高生でも楽しめる番組だったろうと想像しますが、どうなのでしょう。

    * * *

Yoshi著『Deep Love―アユの物語』(スターツ出版 2002.12)という小説が、現在、女子高校生に絶大な人気を誇っていると聞きます。もとは携帯メールの形で配信されていた物語で、目に一丁字なしというような少女(失礼)たちの紅涙をさえしぼっているというのです。

ふだん本を読まない少女でも手に取るというのは、どんな小説でしょうか。もしかすると、これは一つの光明ではないでしょうか。たいへん興味がわき、私も読んでみました。

読後、にわかに感想文が書きたくなったため、これをamazon.co.jp(書籍通販サイト)に投稿しました。ところが、あまりにも激烈に批判したためか、ボツになったようです。ふつう、余程のことがないかぎり不掲載ということはないはずですが。

読み返しても、決して不当なことを書いてはいないと思います。スレッドの話の流れからもそれほど外れないと思いますので、内容の紹介かたがた、こちらに投稿させていただきます。

★☆☆☆☆ 彷徨する少女たちに読まれてよい本

あまりにも類型的な登場人物に驚く。彼らの行動・せりふ・思考内容は、すべて紋切り型だ。主人公は売春はするが〈純粋な心〉の持ち主で、笑顔は〈花のように〉可愛いと描写される。作家ならこんな陳腐な言い回しを繰り返すのは恥ずかしかろう。また、「おばあちゃん」は徹底して主人公に優しく、150万円を彼女に盗まれたことを気づきながらも、〈よほどの理由があってやったのに違いない!〉と信じて、叱りもしない(実際は大した理由ではなかった)。

筋も無茶苦茶だ。心臓が弱い少年のため、主人公はバイトをしたり、売春をしたりして金を貯めては、少年の飲んだくれの父親に〈手術代に使ってね〉と渡す。しかも、少年を虐待するのをやめてもらうため、自分の体も与える(父親にしてみれば丸儲けだ)。また、彼女は同級生に仕返しのためシャーペンを突き刺したあと、おばあちゃんに電話で一言「血が…」とだけつぶやく。すると、おばあちゃんはなぜか血相を変えて足の肉が削れるほど走って駆けつけ、それが原因で死んでしまう。等々。

最も問題なのは、作者の考えの浅さだ。街で少女が体を売っているのも〈……それが時代〉などと、すべてを時代のせいにする。今の時代に生まれたのが不運であり、少女たちは悪くないと。しかし、どういう意味で「時代」と言っているのか。戦時中の時代ならよかったのか。戦前なら、明治時代ならそういう少女たちも幸せになったのか? そんなはずはあるまい。

荒唐無稽の作品だが、これを必要とする読者はいる。それは夜の町を彷徨する少女たちだ。ささくれた毎日を過ごす彼女たちにとって、「あなたは悪くない。本当は純粋な女の子だ。悪いのは時代だ」とおばあちゃんのように優しく語りかける本は自己慰撫の役に立つ。ただ、「こんなことを続けていると、主人公のようにエイズになって死ぬ」ということを自覚するきっかけにはなる。この一点で、本書は少女たちに広く読まれてよい。


佐藤 さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 01日 水曜日 03:20:33)

>埼玉県のNHKアーカイブス
あ、実家からバス一本で行けるのでした。帰省の楽しみが一つできました。

「光明」については何となく考えているだけですが、そうそうハリー・ポッター・シリーズのような作品は出てこないだろうし、出てきても幻想文学ばかりではなんだし。そう漠然と思っていたなかで『Deep Love―アユの物語』。初めて知りましたが、そういう方向もあり、かもしれませんね。どんどん読み慣れて、目を肥やしてもらって、改めて評価してもらう、そういう日がくることを願ってやみません。
 とまれ、こういうのをきっかけに、次のステップに進めないかと貧乏性の私は考えてしまいます。ああ、そうか。次のステップが分からない、何を読めばよいか分からない、ないし分かりにくい。そういうことも読書離れに、あずかっているかも知れない。となれば、読書案内の充実を、と考えてしまいますが短絡すぎるかな。レビューでもいいし、近くの図書館や学校の図書室など、身近な場所に案内人を配せれば。すでに件の計画案などでは盛り込み済みでしょうね。
 また、そういう人がいなくても、本にキーワードが載っていて、そのキーワードをたどって類書に行き当たれる、なんて工夫があると便利かも。実際にやるとなるとむずかしい面もありそうですが、帯などの惹句から抽出してもよいことだし。これを手がかりに配架して似たもの集めをして、可能ならば内容のグラデーションを構成するように本を並べていければ。いやいや、何も物理的並べなくても、パソコンがこれだけ流通しているのだから、バーチャルな配列を充実させるだけで済むことか。そういう工夫があってもよさそう…… などと寝そびれた頭は考えてみました。


道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 01日 水曜日 10:43:48)

朝の5分間か10分間かの読書タイム導入で、小学生は以前よりよく本を読むようですね。読書が根づかない問題の中心は、中学生以降の思春期、及び大学生、そして社会人ではないでしょうか。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 01日 水曜日 11:48:18)

地方公共団体の読書推進の取り組みについて知ろうと、一例として香川県の「香川県子ども読書活動推進計画」(PDF)およびそれに至る「香川県子ども読書活動推進計画策定懇談会」の議事録(ホームページ)を読みました。

計画書は簡潔すぎて分かりにくく(ただし末尾の参考資料は有益)、議事録の議論を読むほうが、問題点がよく分かりました。以下、議論の要点をピックアップします。

道浦さんのいわれる「朝読書」は多少触れられていますが、佐藤さんのいわれる「読書案内」は具体的な議論にはなっていないようです。以下で「子どもに読ませたい本と子どもが読みたい本の乖離が問題であり」とありますが、先生は『しろばんば』や『車輪の下』のような優等生的な本を読ませたいのに、生徒はいやがるということがあるかもしれません。

親が読まなければ〜読み聞かせ活動
親が本を読まないから、子どもも本を読まない現状が問題であり、それをどう変えていけるかが大きな問題である。〔第1回―(1)〕
最近ブックスタートの普及が言われているが、まず、親が読書に親しむ必要がある。それには、子どもができてからでは遅く、妊娠した時点から、妊娠中の学級とか育児相談などの機会に、読み聞かせの方法などの基礎を盛り込んでいけばいいのではないか。〔第2回―(3)〕
子どもが図書館に行きたいと言っても、母親にその気がないとそこで立ち消えるのが現実である。PTAや学級参観の場で、上手な読み聞かせを体験してもらうと、意識ががらりと変わって図書館に足を運ぶようになるので、そのようなことも考えていただきたい。〔第2回―(7)〕
「0歳クラブ」で読み聞かせをしているが、赤ちゃんが本に集中するのを見るとお母さんの意識が変わるので、そのような機会を提供するのが効果的である。〔第2回―(7)〕

中学生から読まなくなる
読書への関心が中学校へ行った途端に薄れていくのが実状で、どのようなやり方をすれば、子どもなりに自発的に取り組んでもらえるかが問題である。〔第2回―(5)〕
指摘があったように、中学生になると読書量は減ってきているが、本が嫌いになったわけではないと思う。高松市内の中学校18校のうち、13校で一斉読書に取り組んでおり、非常に静かに読めているということであり、たぶん部活動や勉強とかで絶対的な時間が少なくなっているからだと感じている。〔第2回―(5)〕
幼児期には、家庭での読み聞かせや親が子どもに関わることが第1だと思うが、中・高校生になると家庭で言っても聞きっこないんで、やはり学校で読書に親しむ機会を作っていく必要がある。〔第3回―(9)〕
アンケート結果では、中学生から差がついており、読む楽しさ、習慣化が必要だと思う。読みたい本が学校にあることが一番大事であり、努力目標として、週1回以上の読書を小・中学校で100%、学校図書館標準達成割合で70%、80%を示しており、アンケート結果を受けてのものである。〔第3回―(11)〕

本が身近にない
田舎では、なかなか読みたい本が手に入らない。コンピューターで検索してということになるが、実物の本を手にとってみると、読みたいという気が湧いてくるので、本のキャラバン隊なんかがあればいいなと思う。〔第1回―(9)〕
県立図書館は遠くて行けない〔注・新しくできたものだが、ずいぶん田舎にある〕という意見をよく聞く。ゆめタウン〔注・新興商業地域〕から図書館までバスを出すとか、利用が伸びる具体策を考えていただきたい。〔第2回―(16)〕
千葉県市川市にある子ども図書館はショッピングセンターに併設されており、また、子どもの教育関係機関の分室もあり大変利用者が多かったので、これから図書館をつくる自治体に先進例を紹介すればよい。〔第2回―(16)〕

古い本は読まない
新しい本をいくら購入するかが、その図書館の利用を左右するのが現実で、古い本がいくらあっても、子どもは読まない。小学校なんかで、古い辞書が並んでいるところがあるが、それは廃棄すべきものであり、そういう現状では利用は伸びない。〔第2回―(3)〕
〔保育所では〕お金がなくて新しい本がなかなか購入できなくて、いつまで古い絵本を置いているのかと言われる。図書購入費の増額のお願いをする必要があるので、保育所も学校の中の一員と考えていただき、一緒に活動させてほしい。〔第2回―(11)〕
古くなって色褪せた本を陳列しても効果がなく、新しい本にしないといけない。また、読み物の本の図書室と調べ学習の図書室を分けて、環境を整えたり、学級文庫や学年団文庫を読みやすい環境にすることで読書意欲はかなり出てくるので、No.13の(3)の所に、図書の充実だけでなく、学校の図書室の中の環境整備というか、環境設備の充実が大事でないかと感じた。〔第3回―(12)〕

図書室をサロンに
中・高生で、学校の図書室の利用のパーセント〔ママ〕が非常に低いのはやっぱりと思う。昨日、中学校で運動会の前の会があって、図書室を使ったので、いろいろ見させてもらったが、「こんな所に来ても楽しくないよね」っていう雰囲気で、中学生が図書室に興味を持って来るのかなという疑問を持った。〔第3回―(7)〕〔そういえば、私の中学校の図書室もそんな感じだった〕
高松市内のPTAでは、学校に対して、小言を言うだけでなく、学校と手を取り合って少しでもいい環境作りをしていこうという活動の一環として、図書館をみんなで入りやすいサロンのようにしていこうという話も出ている。〔第3回―(12)〕
小・中学校の図書館の開館時間を調べたことがあるが、やはり小学校の方が平均的に長かった。中学校になると、管理上の問題で、教員なり図書委員の生徒なり誰かいる時間でないと開館しないというのが非常に多かった。管理を優先すると、子どもに魅力ある図書館の運営はむずかしいが、改善しないといけない〔ママ〕思う。〔後略〕〔第3回―(12)〕

図書選定に子どもも参加を
学校図書館の図書の選定に関して、子どもに読ませたい本と子どもが読みたい本の乖離が問題であり、読書の時間云々より、本の選定方法について県で基準を示せば、各学校も取り組みやすいのではないか。〔第2回―(1)〕
高等学校では、ほとんどの学校で、図書委員を中心に購入図書を選んでおり、生徒が直接本屋さんへ行ったりしている。また、蔵書冊数も公表しており、古い本の整理が問題になっている。〔第2回―(1)〕
アンケート結果を見ると、やはり子どもは本が好きなんだなあという印象を持った。また、学校の図書室を利用しない理由として、「読みたいと思う本があまりない」という回答が多いことから、計画のNo.12のところで、本の選定に主体的に参加するということが盛り込まれているのは、実態を踏まえた点で評価できる。〔第3回―(7)〕

朝の読書
〔前略。司書教諭の研修の場で〕中学校からは、「朝の読書」を通じて、生徒指導上の課題を乗り越えて、そして図書館の扉が開いたという、地道な取組の例を発表していただいた。〔後略〕〔第4回―(4)〕

司書の身分
今回、緊急雇用で、15・16年度で100人ずつ200人の方に学校に入っていただき、読書活動の支援をしていただくことになっているが、データベース化に重点を置くのか、読み聞かせや資料整理に重点を置くのかによって人選が違ってくる。〔第2回―(17)〕
緊急雇用創出基金事業は、半年契約が基本になる。緊急雇用ということで、特定の人に偏って、その人を長くというのではなく、いろんな方にその機会をという意味で、半年契約ということだが、例外もあり、最大1年間は同じ人を続けて雇用するということはあり得る。しかし、そこまでが最大で、2年間継続できないという制度上の制約がある。〔第4回―(3)〕

おまけ
書店としては、店頭においでるお客さんを大切にして、本の楽しさを書店自身が壊すことのないようにしたい。〔第1回―(5)〕〔香川方言の入った例〕


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 10月 01日 水曜日 11:53:37)

「朝日新聞」2003.09.20 p.2に、「図書館の貸出数 最高に/文科省・社会教育調査/小学生1人あたり年17・1冊」という記事が出ています。

これによれば、道浦さんのいわれるように小学生はよく読書をしているのです。

 貸出数は前回の98年度より4040万9千冊、8・4%増えた。増加傾向は74年度から続く。小学生は409万4千人が登録、1億2484万1千冊を借りていた。01年度の小学生全体(729万6920人)で利用冊数を割ると、1人あたりの貸出数は17・1冊。前回より1・3冊増えた。
では中学生、高校生はどうなのか?ということについては記事は教えてくれません。

記事全文は、今のところasahi.comのこちらで読めます(東京版の新聞紙面とは若干語句が違う)。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 06日 木曜日 02:27:02)

“国語教育の充実が緊急の課題”
文化審議会は、いじめ・非行などコミュニケーション能力低下に対応するためには、国語教育の充実が課題と中間報告。常用漢字は小学生卒業までに読めるようにし、読書の抵抗をなくすべきだという。(2003.11.05 18:00 NHKニュース、目下はこちらでも読めます)

常用漢字1945字を小学校6年間で読む! なかなか、画期的というか、何というか。学習漢字1006字の約2倍。まあ書くわけでないからよいということでしょうか。「漢字制限」から「漢字表は目安」の時代を経て、「漢字奨励」の時代に入ったと覚しい。悪いことではないと考えます。

しかし、この中間報告が答申となって政策に反映されたとして、単なる漢字書き取り地獄を招来せぬよう気をつけてほしいもの。漢字を楽しく教える方向に持って行っていただきたい。(書き取り地獄の例

ところで、文化審議会の国語分科会には、「読書活動等小委員会」というのがあって、「読書」を学校の成績表に記入すべきである、べきでない、というような議論も行われているようです。国語審議会のころに比べ、国民の言語生活を総体として考える姿勢が強まっているようにも見えますが、議論の質はどうなのか。地方公共団体の読書推進の取り組みとどう関係しているのか、関係していないのか。


益山 健 さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 06日 木曜日 11:20:48)

議事録だと第4回以降に小学校での常用漢字の教育の話がでてきますね。
コミュニケーション能力の低下と読書に何の関係があるのかよくわかりませんし, 漢字をしらないから読書しないというのは原因と結果が逆のような気がしますが, 学年別配当表のみなおしはいいかもしれません。「政・党・憲・権・庁・律」や「貿・易・経・営・税・証・券・株・賃」をもっと低学年におぼえさせて, はやくから政治経済について自分でかんがえることができるような教育がなされるといいとおもいます。

国語分科会国語教育等小委員会(第4回)議事要旨


skid さんからのコメント
( Date: 2003年 11月 07日 金曜日 07:26:08)

私も小学生の頃、忘れものをして漢字書き取りをやらされた思い出があります。
さらに、高校では当用漢字テストが毎月(本当に12回!)あって、60点以下か遅刻や欠席で受けられなかった場合、次のテスト範囲の漢字を何十回かずつ書いて1週間提出させられたものです。
このテストは、月曜日の朝に行われ、しかも予告は教室の後方にもあった黒板に前の週の土曜日ひっそりと書かれていたため、当日の朝まで知らずにいたことが多くて、悔しい思いをしたことがしばしばありました。
さらに採点は厳しく、いつもはきっちり書いていたのに、たまたま筆圧が弱くてハネが分かりにくいというだけで×にされたことがあります。
平均90点以上は表彰されるので、2年生のときは、あと何回100点を取れば90点になるか、1回ごとに計算したものの、テストの日を把握しきれず失敗。
3年生になって、テストの日が火曜日になったおかげで平均90点を達成できましたが、夏休み登校日の早朝に答えが書けず苦しむ夢で目覚め、危うくその日の漢字テストを思い出した次第です。
クラスの男子でマジになっていたのは私だけでしたが……。


Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 12月 24日 水曜日 09:05:31)

スレッドのテーマが読書の話にずれておりますが、

> Yoshi著『Deep Love―アユの物語』(スターツ出版 2002.12)という小説が、現在、女子高校生に絶大な人気を誇っていると聞きます。

これについて、「朝日新聞」夕刊 2003.12.22 p.5に、「GO & SEE」で「女子高生の「バイブル」って、なぜだ/Deep Love/アユ、もう一つの理想像」(文・五十嵐聖士郎)という記事が掲載されています。

シリーズ4部作で、計120万部のベストセラー。だが、私の率直な感想は「一体、何がいいの?」。
という筆者の意見のほか、
 〔渋谷センター街で〕一人でいた高校生(17)は「私の本当の気持ちはアユ〔主人公〕しかわからない。ああいう生き様をしたい」。
 109の前でたむろしていた通信高校生(16)。「アユみたいに人のためになる何かをしたい。分かってくれる大人なんていない。どうせ私バカだもん」。高校1年生(15)は「アユの中に隠されたピュアな心にハッとさせられた」。
という感想が載る。少女に「ああいう生き様をしたい」(?)とまで言わせる力が、この本のどこにあるのか。詐欺師が人を熱狂させるようなものか、と言っては作者に失礼だろうか――と、軽い混乱を覚えた私は、次の感想を読んで、なるほどと思いました。
 つまらなかったという高校2年生(17)もいた。「叱{しか}る大人がいなくて、意思もなくだらだらした無気力な人が読めば、感動するんじゃない。そういう人多いですよ」
別掲の「聞いてみました 女子高校生300人に」の感想は以下の通り。
今までにない新鮮なものに感じた(神奈川・高3)▼まじ泣けた。考えさせられた(埼玉・高3)▼アユがありのままの女の子を表現してて共感した(東京・高2)▼最近ありきたりの話題で何とも思わなかった(埼玉・高3)▼悲しい話だけど、文章が稚拙(東京・高2)▼あまりにも非現実的(千葉・高1)▼えぐい。あまり好きでない(神奈川・高3)
調査協力C-NEWS(詳細は、http://cnews.info-plant.com

この本は、私の近所のコンビニエンスストアでも売られるようになりました。記事の結びによれば「大人たちの困惑をよそに、この物語は来月漫画化され、春には映画化される。」とのことです。


posted by 岡島昭浩 at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年04月02日

お礼(巴里の日本人)


もし間違えていたら申し訳ありません。

私は今日みずたまりで先生から雨月物語がバージニア大学にあるとご教示いただいたものです。きっと先生であろうと思い、恐縮しごくに存じますが、あまりに雲の上のかたからのメイルに緊張しきっております。今日は本当に有難うございました。

あまりにも雲の上のかたなので自分の名前を書く勇気もありません。お忙しいところ目を通していただきご迷惑をおかけしました。今日は誠に有難うございました。今後ともよろしくお願いします。



岡島昭浩 さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 02日 水曜日 22:10:25)

青空には雲がないのが理想ですから、雲の上もないのが理想です。

青空文庫みずたまりは、いつも覗いております。


私が、文学テキストリンクのメンテナンスを真面目にやっていないのが気になっており、すぐに反応いたしました。


テキストのリンク集をあまり真面目にやっていないのは、サーチエンジンを使うと、テキストがあればすぐに見つかることが多いから、というのが大きい気がいたします。

青空文庫みずたまり


posted by 岡島昭浩 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年03月26日

朝食をしたためる(道浦俊彦)


ボブ・ウッド著、伏見威蕃訳『ブッシュの戦争』(日本経済新聞社)の冒頭の3ページに「のんびりと朝食をしたためていた」という一文が出てきました。私は「これは何かの間違いだろう」と思い、『新明解国語辞典』を引いたところ、ちゃんと「食事をとる意味の老人語」として載っていました!ビックリ!!Google検索では「朝食をしたためる」「昼食をしたためる」がそれぞれ4件、夕食、夜食は0件。「したためる」は4000件以上あり、何をしたためているかを見てみると、「手紙、文、日記、遺書」などでした。

現代においては、やはり「したためる」=「書く」という行為を指していると思うのですが。「認める」と書いて「したためる」という読みも(普通は「みとめる」と読んでしまうので)難しいのではないかと思いますが、「したためる」の使用の現状と、今後の展望に関して、ご意見を伺いたいと思います。



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 26日 水曜日 14:36:49)

私はたまたま、湾岸戦争を取り上げた手嶋龍一『一九九一年日本の敗北』(新潮文庫)を読んでいますが、自分も生きていたはずの近過去の世界情勢が、論客により徹底的に検証・再構成され、まったく未知の相貌を呈していることにおどろきます。『敗北』というタイトルのとおり、日本の政治家・役人の憂うべき実態がよく描かれていて、巻を措くあたわずという感じです。


閑話休題。梶井基次郎の「冬の日」には、「夕餉をしたために階下へ降りる頃は」とありますね。老人語といわれれば、たしかに今は使わないなあと思います。私の語感としては、あまりビフテキやらラーメンやらをしたためるという感じはしません。「お茶漬けをしたためて」なら言いそうです。

梶井基次郎短編集「冬の日」(新潮社)



後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 26日 水曜日 15:35:36)

『新潮文庫の100冊』には他に(翻訳ものも含めて)10例ありますが、目的語はどれも「夕餉、晩餐、朝食、食事、定食、正餐」というふうに具体的な食品名ではないのですが、偶然でしょうか。

『絶版100冊』『大正の文豪』『明治の文豪』や他の例も同様でした。

(「をしたため」で検索)


福知山で昼食をしたため、そのまま町も見物せずにあわただしく出発した。

小松左京 探検の思想

初版発行:1966年11月25日


郡司は諦めて、ほかのスタッフと一緒に、遅くなった昼食をしたためた。

内田康夫 長崎殺人事件

光文社電子書店  2001年 8月24日(一九八七年にカッパ・ノベルス)


あるいは干物と納豆と豆腐の味噌汁で朝食をしたためながら、

文春ウェブ文庫版

丸谷才一  食通知つたかぶり (神戸の街で和漢洋食)(文藝春秋 昭和47年10月号)


夕食をしたためた後に、半隊に自由行動の許可が出た。

住吉新家通りの有名な伊丹屋の表座敷奥座敷に上って昼食をしたためた。

天下茶屋で昼食をしたためた。

大岡昇平 堺港攘夷始末

2001年6月22日発行 (『堺港攘夷始末』一九八九年一二月 中央公論社刊)


藩侯は側近の者と昼食をしたためていた。

岡本好古 日本海海戦

「徳間web書店」版.(初出1976年6月 新人物往来社)



道浦俊彦 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 26日 水曜日 18:54:07)

Yeemarさん、後藤さん、どうもありがとうございます。

この訳者は、ビンラディンのことをさしたブッシュ大統領の言葉を「犯人」ではなく「下手人」という言葉で訳していたりして、そういう表現がお好きなようです。1951年生まれ、と奥付けにはありましたが。



後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 27日 木曜日 10:32:57)

漢字表記の方はどうしてもゴミが多くなるので探しづらいのですが、『新潮文庫の100冊』所収の福永武彦『草の花』に3例があるようです。

11150101.txt

朝食を認めてから、私は外科病棟の個室に汐見の顔を見に行った。

冷たくなった汁で食事を認めた。

11150102.txt

藤木と向き合って食事を認め始めた。


次は一応疑問例ですが、「みとめ」かと思われます。(前後関係から、ワインを飲まずにラベルに感心してもらうのでもいいようなので)

林真理子 最終便に間に合えば

院長が私のワインを認め、どのような顔をするかと考えるだけで胸がドキドキする。

文春ウェブ文庫版 (昭和六十年十一月 文藝春秋刊)



km さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 27日 木曜日 10:59:06)

福永武彦・草の花の3例はいずれも「したた」とルビがありました。


ほかに以下の例がありました。

明治の文豪・夏目漱石・明暗

(1)彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝

らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食(ちゅうじき)を認(した)ためた。


大正の文豪・島崎藤村・夜明け前

(2)物頭が樋橋(といはし)まで峠を降りて昼食を認(したた)めていると、

追々と人足も集まって来た。


絶版100冊・福永武彦・死の島

(3)まず寝床の中でラジオのスイッチを入れて大作曲家の時間を聞く、時報が八

時をしらせるとダイヤルを名演奏家の時間に切り換え、それを聞きながら床を上げ

る、洋服に着替える、簡単な朝食を認(したた)める、必要な品を書類鞄(かば

ん)に詰め込む、そして入口のドアに鍵(かぎ)を掛けて冬の寒い戸外に出て行く

だろう。

(4)雨が降っている割には表はまだ明るかったのに、二階に通ってみると二人の

女は和室の卓袱(ちやぶ)台(だい)に向い合って、夕食を認(したた)めてい

た。

(5)お風呂よりも御飯が先と女中さんに命じてあったから、ちょうどその時大き

なお盆を抱えて女中さんが部屋にはいり、机の上に食器を並べ、どうぞごゆっくり

と言ってさがって行ったから、わたしたちは場所を移動して遅い夕食を認(した

た)めることにしたが、その間もわたしはなるべく陽気に振舞い、綾ちゃんも調子

を合せ、それでいて二人の間にこれから起るべき事柄はわたしも彼女も充分に承知

していたのだ。



後藤斉 さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 27日 木曜日 11:38:22)

ありがとうございます。

実例として見つかるのはやはり目的語として食事のいろいろな形態を指す語が

きているものばかりで、具体的な食べ物が使われている例はありませんね。



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 03月 27日 木曜日 20:05:28)

「食事を食べる」はだめで「お茶漬けを食べる」はOKですが、これとは逆に「食事をしたためる」はOKで「お茶漬けをしたためる」はだめなのでしょうか。だとするとおもしろいことです。「したためる」は「片づける」の意味もあったため、「食事をしたためる」は、「食事をすます」のような意味合いもあるのでしょうか。しかし、「義経記」(室町中か)には

出てより飯{いひ}をしたゝめ給はねども、痩せ衰へもし給はず。(日本古典文学大系 p.86)


忠信は酒も飯{めし}もしたゝめずして、今日三日になりければ、(同 p.220)


菓子ども引寄せて、思ふ様にしたゝめて居たるところに、(同 p.223=これは『日本国語大辞典』に載っている)

とあります。「したたむ」には「調理する」の意もありますが、ここでは「食べる」の意のようです。しかしこれが現代語に当てはまるかどうかは別問題です。


また、「飯」「酒」「菓子」も具体的な食べ物とまで言えるかどうかにも問題がありそうです。


posted by 岡島昭浩 at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年03月21日

「『何名様』という言い方は不愉快」(Yeemar)


以前、ホームページに「店で、『○番様』と呼ばれるのが不愉快だ」というようなことを書きました。


行列で並んで待つとき、店員がふだをくれるのですが、あとでそのふだの番号で「○番様、いらっしゃいますか」などと言うのです。どうも番号で呼ばれるのは、囚人になったような気がして抵抗があります。


私が憤慨するしないにかかわらず、この言い方は急速に広まりつつあるように見えます。もうあきらめるべき段階かもしれません。


似たようなシチュエーションで言われる「○名様、こちらへどうぞ」というのは、もう違和感をおぼえる人も少なかろうと思います。「名」というのは自分側について言うものであって、相手側に対しては「おふたかた」とか「おふたりさま」「おさんにんさま」などと言うのが、元来はふつうであったろうと思います(これはあくまで私の感覚)。しかし、今では、圧倒的多数の店員は「○名様」と言っていて、客の側も疑問を感じないでしょう。


これらは、「敬意逓減の法則」ならぬ「敬意逓増」の現象とでもいうべきものです。失礼なはずの言い方が、そのうち敬意を表すようになるという現象です(「ご記入してください」なども同様でしょう。私ならば、そう言われると内心怒りますが、もはや怒らない人が大部分でしょう)。


さて、この「○名様」というのがいつごろから使われ出したのかを語彙索引の検索で調べてみますと、私自身が索引を作った浅野信『巷間の言語省察』(1933)が出てきました。ただし、これは「○名様」という言い方がいけないというのではなく、広告にすぐ景品をつけたがる風潮を批判したものです。

某地へ何名様御招待、何々廻り何名様御招待等の何円券何万冊売出しといふことが始められた。(p.28)
しかし「○名様」が使われていた証拠にはなります。


「○名様」は失礼だ、ないしは不愉快だ、という意見を読んだか聞いたかしたおぼえもありますが、忘れてしまいました。そのようなことを書いている文章をご存じの方はいられますでしょうか。また、上記のような言い方について、どのようにお感じになりますでしょうか。

81番さま



Yeemar さんからのコメント
( Date: 2003年 04月 23日 水曜日 17:01:12)

手もとの何種かの国語辞典を引いてみると、「〜名」という助数詞は、「〜人」に比べて改まった言い方だとしているものが大多数で、森田良行『基礎日本語2』では「〜人」は「人口、家族、収容人数など」、「〜名」は「会員、参加者、欠席者、定員など」を表すという違いがあるようです。


とくに「〜名」がへりくだった言い方とは書いてありません。すると、これは私だけの感じ方でしょうか。


森鴎外「普請中」では、精養軒ホテルで「きのう電話で頼んでおいたのだがね」と案内を請うと「は。お二人さんですか。どうぞお二階へ」と給仕が答えます。私はこのように「お一人さま、お二人さま、三人さま、四人さま……」という言い方がよいのではないかと思います。


posted by 岡島昭浩 at 19:10| Comment(2) | TrackBack(0) | ■初代「ことば会議室」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする