2006年08月28日

粗熱を取る

こちら」で、せきぐちさんが「粗熱を取る」について触れておられます。「粗熱」というものがあるのではなく、「熱を粗く取る」ということではないかというご趣旨ですね。

なるほど、そうかも……と思いましたので、新しい記事で書かせていただきます。

辞書をざっと見たところでは、『三省堂国語辞典』第4版(1992年)の記述が最も早く、「粗熱」は新しい言い方ではないかと思わせます。「熱をくわえて調理した直後の熱。「―をとってから盛りつける」」とあります。第5版では用例が「水で―をとる」となっています。

他の辞書では、「料理で、加熱調理した物の加熱直後の熱。「粗熱をとる」」(『日本国語大辞典』第2版)、「料理で、材料を加熱した直後の熱のこと。(例)粗熱をとってからあえる。」(『小学館日本語新辞典』)とあります。

家人に「『粗熱』とは何か。『余熱』のことであるか」と聞くと、両者は違うと申します。「余熱は、なべの火をとめて、なお残っている熱であって、それを利用して調理するのである」ということです。「では、『余熱』は必要な熱か。一方『粗熱』は要らない熱のことか」となおも問いつめますと、

「そうではなく、ざっと熱を取るのです」

と申します。この証言(?)からすると、まさしく「粗」が「ざっと」に相当するわけです。

「粗(あら)」に「直後の」などの意味がないとすれば、「粗々(=ざっと)」の意味で使われていると考えたほうが自然です。

辞書の記述としては、
あら ねつ(名)〔「―を取る」の形で〕熱を加えて調理した後で、冷やす前に、熱をざっと取る。
としてはどうでしょうか。



posted by Yeemar at 16:40| Comment(5) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月21日

「しか」と否定(やぶちゃん)

かなり以前、会話記号(「,」)の成立年代の質問をさせて頂いた、高校の国語教師をしている者ですが、小論文指導をしていて、ふと考えた疑問があります。現代語で係助詞とされる「しか」は、打消しの語が呼応しますが、この打消しの「ない」は構文上、何を打ち消していると説明すべきなのでしょうか。例えば「老人を集団としてしか見ていない」「自分は自分でしかない」という文では、「老人を集団としてのみ見て、個人として見ていない」であり、「自分という存在は自分以外ではなく、自分のみである」という意味であり、この場合、元の文に打ち消すべき対象は現れないわけですが、これを高校生に説明するとしたら、どのように言うのが最も解りやすく適切でしょうか。辞書等の「打消しの語を伴って、それ以外を全て否定する」という説明しかないのでしょうか。また「しか」という語の元となった語が分かりましたら(近世以降の成立のようですが)、合わせてご教授願います。
Posted by やぶちゃん at 2006年06月18日 22:53
posted by 岡島昭浩 at 22:23| Comment(4) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月23日

「〜だったと思う」と「〜だと思った」

私が「〜だったと思う」としか言いそうにないところを、「〜だと思った」という言い方をしているものに、時折出会います。
過去のこと(など、「た」で言うところ)について、判断を下しているのは現在、というような場合においてのことです。


どんぴしゃりの用例ではないかもしれませんが、次のようなの。
「ふさ子さん、たしかいまは……」
と、マダムが店の名を告げた。
「その店は、どういうところ」
「よく知らないけど、アルサロみたいなところじゃないかしら」
「その店でも、やはりふさ子という名前だろうか」
「たしか、そうだと思ったわ
(吉行淳之介「探す」(『私の東京物語』文春文庫p206)

これは「過去について」というわけではないけれど、私だったら、「そうだったと思う」というところです。

世代差なのか(私は四〇代なかば)、地域差なのか(私は福岡生まれ)。
あるいは、口頭では言わなくとも、文章ではそう書くものだとして書いているのか、とも思いましたが、関西の人が、「たしか、そうだと思った」と言っているのを聞いて、「今はどう思ってるんだ」と不安に思ったことがあるのを思い出しました。

posted by 岡島昭浩 at 20:40| Comment(8) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする