2005年12月19日

温故知新

「温故知新」を「ふるきをあたためて……」と読んだ人について、「教養がない、『たづねて』が正しい」と批判する文章(または自ら誤って恥じる文章)を何かで読んだことがあります(今は出典を失念しました)。なるほど、日本語の「あたためる」には「おさらいをする」という意味はないかもしれません。しかし、have a meeting の直訳として「会議をもつ」が生まれるのと同様に、漢文訓読から新しい用法が生まれてもいいわけです。「漢文の訓読によって伝えられた語法」はいろいろあります。

「論語」の種々の読み下し文でどうなっているかは知りませんが、小学校国語教科書『新しい国語 六年下』(東京書籍 平成16年2月10日検定済・平成17年7月10日発行)p.122「「論語」の言葉」に、
子{し}曰{い}は{(わ)}く、「故{ふる}きを温めて新しきを知る、もつて{(もって)}師と為{な}るべし。」と。
とあるのを知りました。
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2005年11月19日

つい読んでしまう

つい読んでしまっていた」の続きです。

尾崎紅葉の紹介する読み間違いの例をいくつか。

セミコロンK/言偏に水
▲字に就いては蒙求の出来る話は、さる席上で碌堂君の語られたには、甞て一外人から訊ねられた事がある、町を行{ある}くと諸処の店頭{みせさき}にスクリイン様の物が出てゐて、其にセミコロンK{ケー}と書いてあるが、那{あれ}は何であらう、因{そこ}で頻に考へたが更に解らぬ、段々聞糺して見ると、氷水屋の日除暖簾で、セミコロンK{ケイ}は即ち氷の字、
次いで桜痴居士の物語に、乃父{だいふ}の長崎で支那人に質疑されたのは、日本には言扁に水と云ふ字があるやうに身受けるが、那{あれ}は何等の字か、とばかりでは是も解らなかつた、書いて見せられたので路の字と知れたのである、成程お家風に書けば、足扁も言扁も同一{ひとつ}で、水と各{おの/\}との省画{くづし}に用捨が無い、〔原文総ルビ〕(尾崎紅葉「新あぶら柄杓」〔1898-1899年発表〕『紅葉全集 第十巻』岩波書店 1994.11.29 p.256-257)
スーアフーエウ
煙草ヒーローの横看板を見て一口一匕{ひとくちひとさじ}と読み売薬と覚えし人あり、T生予の病を訪{と}ひて病人には風月堂のスーアフーエウこそ好けれと明日は持つて来させんとやがて贈り来れるを見れば Sugar Wafer 也。〔原文総ルビ〕(尾崎紅葉「スーアフーエウ」『紅葉遺文』〔1910年刊行〕『紅葉全集 第十巻』岩波書店 1994.11.29 p.395)
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