せーの#
岡島昭浩
- 05/5/17(火) 0:48 -
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せーのの続き。
江国滋『男女驚愕』旺文社文庫に「いっせのせ」という文があるようです(旺文社文庫目録による)
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〔新聞の29歳の女性歌手の談話に触れ〕このように「父親」を「親」「父親」「お父さん」と言っている。他人に対して両親を「親」というのは最近の若い人たちの傾向らしい。この件に関し、この著者の感覚と私の感覚は同じであるようです。
「……カナザワのジリン、持ってる……」
「僕のは、オオツキのゲンカイさ……」
いかにも自慢たらしくそれが良平に聞えた。「ジリン」、「ゲンカイ」、それが国語辞書のことなのは良平にもよくわかった。その前に、何やらちょっと口々にいったものがあって、もう忘れたがそのことでそれはわかっていた。そしてたぶん、「オオツキ」、「カナザワ」というのは、辞書をこしらえた人の名だろうということもわかっていた。しかしそんなものは、良平は見たこともない。本の名を聞いたこともない。(略)大人のほうで買って子供にくれたのだったかも知れない。(略)子供の教育ということを、その子供というのは良平の同級生のことなのだが、家のもののほうで考えていてやるといったふうな家庭が、福井の町にはあるのだな……(筑摩書房『中野重治全集』第六巻より)
(大正四年)十月二十七日 水曜日 晴
……帰途虎谷にて先日父に頼みて許を受けし『漢和大辞林』を購い実に嬉し。僕が今迄持てる辞書等とは比較にならず……
十一月三十日 火曜日 晴
……帰途虎谷で銭を払った。今月は『漢和大辞林』を買ったので約二円あった。
(大正五年)四月三日 月曜日 晴
……大阪の西村直之助君来る。雑談に時を移す。『作歌新辞典』『日記文練習法』の二書を貸して『新世界』の三・四月号を借る
漢文の時間、読本附属字引の不必要より起りて予習の利益、方法を説き、殊に復習の易くて得る所多きを教える。……教室を出づれば寄気君は無言にて我に小さき本を握らせたり。見れば漢文の字引なり。先生の言に感じたるならん。……夜、漢文の復習をなしついでに次の頁を読みしに知らぬ字あり。大字引を引くもじゃまなり。ふと此の時目に映りし寄気君より預りし字引なり。早速手を取らんとせしに思わずはね返りたり。我がこれを使えば寄気君を欺きて盗用せるなり。此に於て我はこれを絶対に開かざるように封せり。
書いていて一番|厭《いや》なのは、あふれるような気持ちでありながら、字引を引いて一字の上に何時までも停滞していることが、一番なさけない。私の字引は、学生自習辞典と云うので、これは、私が四国の高松をうろうろしていた時に七拾五銭で買ったもの、もう、ぼろぼろになってしまっている。何度字引を買っても、結局これが楽なので、字が足りないけれどこれを使っている。(p158)
楽文館は僕の書く字を直さうとするのだから言海位は開けて見たつて好いではないか。
北原白秋が暇さへあれば『言海』をのぞいてゐたといふのはよく聞く話だけれど、あれだつて、上代歌謡から『隆達小歌集』『松の葉』まで、よく親しんでゐたからこそ霊験あらたかなことになる。(p130)
筆を擱(お)いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削(てんさく)の必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海(げんかい)を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取り繕(つくろ)っただけで、彼女は手紙を巻いた。
近所での物識(ものしり)と言われている老農夫である。私はこの人から「言海」のことを聞かれて一寸驚かされた。
金沢庄三郎の“辞林”であった。少し、細長い辞書で、その時の表紙の手ざわりさえおぼえている。鬼の首をとったという形容が、そのままぴったりする喜びのようであった。それにその1冊〈ママ〉の辞書を持ったために、わたしは天下の秀才になったような、誇りかな気持ちになった。
むかしからよくいわれることだが、アメリカのPhikadelphia市を、カタカナのフィラデルフィアといっても絶対に通じない。かわりに古豆腐屋《ふるどうふや》といえば通じる。(中略)また、ロンドンのKensingtonをカタカナ語のとおりにケンジントンといってもわかってもらえない。かわりに上杉謙信の謙信《けんしん》といえば通じるという。これもよく聞く話である。
笑い話だろうが、このことを聞いた日本人が、ロンドンへ行ったとき、謙信というつもりが、つい口がすべって信玄《しんげん》(武田信玄)といってしまい(後略)
サンドウィッチ――これがめりけん人が鼻声でいうとセミチと聞える。簡単でいい。(31頁)
先方が|御めんなさい《ベッグ・パアドン》って言ったら、おまえさんなんと挨拶なさる?」
「Certainly! って。」
「そうそう、そうだろ、セツニって言うだろ。見えねえな、そのセツニは日本語の切にじゃねえか。言い方もこころも同じこった……(81-82頁)
降りたいときには、“揚げ豆腐ひや”(I get off here の意)と言えば車掌がおろしてくれますしね」と老夫人は笑うのであった。
West Kensington と云ふ英国の地名を「上杉謙信殿」と覚ゆる等は、類似連想を基礎とする一種の記憶法にして斯かる例は他にも多し。
漁業の話の中に、ときどき「ケイソン」という単語がまじるのを、私は急には理解できませんでした。本文は全集や文庫本によったほうがよかったのでしょうが、たまたま目にした本を引用しました。
「ケイソンだけを相手にしていると、漁業も不安定ですが、ここではさいわいコンブやイカなどもありますから」
「ですから、ケイソンばかりに重点をおかずに、牧畜も奨励するようにしています」
ケイソンとは、「鮭鱒」の漢音でした。(武田泰淳「ひかりごけ」〔1954年発表〕『北海道文学全集16』立風書房 1981 p.38 下l.1)
中村〔雄二郎〕 最近、CI(コーポレイト・アイデンティティ)、企業イメージ統合戦略というのかな、そのせいでむやみに社名をカタカナにしたり横文字にしたりしていますね。ネットオークションに出品されている「アンフィニ」後部の写真を目視して確認したところ、フランス語の発音記号そのまま(ただし[ ]はなし)ですね。
〔略――「シーコム」「エス・バイ・スル」「マクロス」「トキメック」「エル カクエイ」「エクソン」「セゾングループ」「セゾン・ミュージアム」(SAISONとSEZON)などの例が出て〕
それから、マツダのクルマの「アンフィニ」というのも、すごいね。
井上〔ひさし〕 意味もわからない。おまけに文字は発音記号になっているんですね。
丸谷〔才一〕 他にもあったね。「イクシーズ」だったかな、あれも正式の発音記号の使い方じゃない。
中村 文房具のメーカーでしたっけ。
井上 そうじゃないんですか。
丸谷 あの発音記号だったら、イーヒーズになっちゃう。
〔このあと、「スバル」(自動車・雑誌名)の話。以上 p.68-69〕
中村 マツダのクルマの「アンフィニ」というのも、すごいね。
井上 意味もわからない。おまけに文字は発音記号になっているんですね。
丸谷 他にもあったね。「イクシーズ」だったかな、あれも正式の発音記号の使い方じゃない。
中村 文房具のメーヵーでしたっけ。
井上 そうじゃないんですか。
丸谷 あの発音記号だったら、イーヒーズになっちゃう。
小沢 私は台詞の覚えが悪い方ですから、沢村貞子さんによく叱られるんです。「(古川)緑波《ロッパ》さんは単語を覚えようとして、辞書を端から食べたんだ。食べると覚えられるんだから、あんたも台本食べなさい」って。(p474)
彼〔白秋〕の少年時代、「言海」を二冊買って、その一冊は毎日少しずつ切り取って学校への往復にそれを暗記した。そして、すっかり覚えてしまうと、帰りにそれを家の近くの堀にすてた。白秋はこの話をして、「ぼくは、言葉をたべた」といった。(「朝日新聞」2月2日朝9「辞書をたべる」「きのうきょう」欄佐藤達夫)
辞書を食べて単語を覚えた、という伝説を聞いたことがある。語学の教師として意見をいわせていただければ、まったく無意味な行為だと思う。栄養学の先生からは、また別の理由からやめることを勧められるだろう
集中講義のために来水されたようだ。
さて、先月来松された時の、結婚申し込みに付き、お返事いたします。(p184)
東北帝国大学で、アインシュタインの来仙を機に、一年間講師として招聘したいという意向のあることが、仙台行きの当日、大きく報道された。(p.36)
この中にはア博士と同じ列車で帰仙し、のちに東大人類学教室の創立教授となる長谷部言人(ことんど)東北大医学部教授もいた。(p.45)
和尚と小僧との昔話は、中田千畝君が一冊の本を著わしたほどたくさんの種類があって、久しい間日本の児童文学を賑わしていた。今でもクワンクワンの話や、切りたくもあり切りたくもなしの連歌などは、親から聴いてまだ知っている者が多いのである。とあります。中田千畝著・鈴木棠三編『きっちょむ話・和尚と小僧』(未来社 1975.6)というのがありますが、原著はもっと古いものでしょう。
タメは対面からきているのかと思われる。タイマンというのがあって、一対一の決闘をするということを意味する。タメをハルというのは、同格、同等であるということになる。/ そこから、同等な人のように親しげな調子で話すことを、タメグチをきく、という。(金田一秀穂『新しい日本語の予習法』角川oneテーマ21 2003.04.10初版 p.93)「対面」説は、旧会議室でもすでに出ていましたが、世間的には、(米川明彦氏らの支持で)「同目」説が広まっている状況ではないかと思います。「同目」か「対面」か。タイマンや対馬との関係は。どの説がよりよいか、私には判断がつきません。
既に幽冥界を異にする諸先生各位のご冥福をお祈りし、とあります。